40/Sub:"キリスィマスィ"
「いただきます」
アンジェリカは小さく手を合わせて、カップ麺をすする。ユーリも同じように、手を合わせて小さくいただきます、とつぶやく。
するする、と音を立てて向かいのアンジェリカがインスタント麺をすする。ユーリも同じように自分の麺をすすった。100年前から変わらない味、が売り文句のこれは、昔から続くベストセラーのブランドだった。マッハ5で飛行する飛行機の機内で食べられることになるとは、昔の人々は想像していたのだろうか? ユーリはちらり、と外を映すモニターに視線を向ける。高度100,000フィートの空はどこまでも暗く、はるか眼下にある対流圏の雲は、みるみるうちに前方から後方へと流れていく。
ずぞぞ、とアンジェリカが勢いよく麺をすすった。これでよく撥ねないな、ともユーリは思うが、きっと『淑女の嗜み』なのだろう。
「美味しい?」
「保存性と傾向性を求めた味がしますわ」
ユーリは苦笑いを浮かべた。
「どうしてそう思いましたの?」
「少なくとも美味しいと感じるものを食べているときの顔じゃなかったよ」
アンジェリカはしばし神妙な表情を浮かべる。ユーリからそう言われたことがよほど気になったようだ。
「例えるならば、どんな顔でしたの?」
「前、アリシア姉さんが豆と桃を混ぜて食べてた時みたいな顔だったよ」
二人してアリシアの方を向く。いつぞやの時だったか。買ってきたばかりのゲームを徹夜で遊んでいた時に、最低限の栄養補給と言わんばかりに剥いた桃と煮豆を混ぜて食べていたアリシアの形相。
そんな彼女は、座席ですやすやと寝息を立てている。
ユーリとアンジェリカ。再び向かい合う。
「……少しは、取り繕った方がよくて?」
「いいや、気にすることはないさ」
ユーリはずるずると麺を啜る。アンジェリカはそれをじっと見つめていたが、はぁ、と小さくため息をつくと自分も麺を啜った。
インスタントな食事は時間もインスタントだった。あっという間に食べ終わったそれをギャレーで片付け、飲み残したスープはトイレに流す。席に戻るとキャビンにうっすらカップ麺の匂いが漂っていたが、それも機内の空気循環にすぐ消えた。
二人、静かにモニターの外の光景を眺める。水平線の先はどこまでも続いていて、空気の散乱で薄く濁りつつダークブルーの空へと繋がっていた。その空の色が、段々と青から赤みを帯び、刻々と薄暗さを増していくのが分かった。
ぐん、と小さく身体が引かれる感触。減速し出しているな、とユーリは気づく。マッハ5で飛んでいるとはいえ、急な加減速は乗り心地の悪化を招く。誰しもが戦闘機動のGに対応できるわけではない。事実、フライト時間の半分は加減速に費やす時間だ。飛行機の進行方向の空を見上げると、かすかに輝く線が一筋、真っすぐ空に向かって伸びているのが見られた。
「いよいよ、だね」
ユーリが呟く。
「まぁ、付いてから少し暇はありますわ。暇を楽しむ時間くらい、十分ありましてよ」
「咲江先生が来られなかったのは、残念だったね」
ユーリが言うと、アンジェリカは苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべる。
「ええ……まぁ、その……とても、残念、でしたわね」
100パーセント完全に残念とは思っていない顔だ、とユーリは思った。そこでふと、ユーリは咲江の水着姿を想像してしまう。あの暴力的ともいえるレベルの女体と、肌の露出面積の大きい水着。思わず、頬を赤くした。
「ユーリ、今何を想像しまして?」
「……水着を、想像しました」
「一応念のために聞いておきますけれど、誰の?」
「……黙秘権を行使する」
ユーリをじっとりとした視線で睨むアンジェリカ。ユーリの喉元を冷たい汗が流れる感触。彼女の紅い瞳がぼんやりと輝いている。ふと、その光がふっと消えて、まあいいでしょう、とアンジェリカは息をついた。
「この旅行が終わったら、わたくしの水着姿しか想像できなくして差し上げますわ」
そう言って腕を組んで目を閉じ、椅子の背もたれに上半身を預ける。ユーリは一体何をされることになるのだろうという恐怖と、かすかな興奮を同時に覚えていた。
機体はゆっくりだが極超音速から減速していく。音の壁に触れるように減速していき、やがて機体の周りに白いベイパーコーンが瞬き、消えた。シートベルトサインが小さな電子音と共につき、少しして対流圏の雲に機体は包まれた。モニターに映された外部の景色が、真っ白に染まる。
きょろきょろと不安そうに周囲を見回していたエリサが焦れたのか、通路越しにユーリに聞いてきた。
「一体、どこに連れていく気ですの?」
その声にはいら立ちが混じっているようにも感じられたが、同時にガタガタとタービュランスが機体を小さく揺さぶる。予想外の揺れに、小さく悲鳴を上げるエリサ。大丈夫だよ、とユーリは優しく返す。
「雲を抜ければ、そろそろ見えてくるはずさ」
「一体何を――」
機体がひときわガクン、と揺れたあと、周囲の雲が晴れる。まるで全面窓ガラスの様な機内モニターのそれに、その光景が映った。
傾いた日に、どこか暗く広がる海。その真ん中に、まるで塩を垂らしたかのように唐突に表れた島。網目のようになっているラグーンの真ん中に、余りに異質のものが建っていた。
天空に細く、長く続く巨大な塔。どこか大樹のようにも見えるそれは、赤く焼け始めた空へ向けて、夕日に照らされて延々と伸びていく。
「軌道、エレベーター……」
気おされたかのように、エリサがぽつりとつぶやいた。
三〇年前の戦争以降、宇宙開発と国際協力、そして情報とエネルギーインフラの復興を目的に、世界各地で建造が始まった軌道エレベーター。太平洋沿岸の各国が協力し建造された一基が、南海の孤島であるキリスィマスィ島に建てられていた。
「なるほど、考えたな」
修也がぼそり、と呟いた。ユーリが思わずそっちに振り向くと、彼は軌道エレベーターの先端を睨む。
「あそこなら邪魔は入らない。何より、宇宙開発を進めている改革派へのいいアピールにもなる。ベストな立地だ」
「あら、お気づきになりましたか」
「これ以上の立地はないだろう」
修也に対し、アンジェリカが悠々と返す。ビジネスの話だ、とユーリは彼女の口調から判断する。
「お二人のホテルは予約してありますわ。もちろん、保安の問題は気にしなくて構いませんわ」
「軌道エレベーターの麓ほど、安全な場所も世界に存在しないだろうがな」
修也はどこか感心したような、やられた、とでも言いたげな口調で吐き捨てるように言った。それは彼の隣に居る女性の事を意識して言ったのは、この場にいる人物にとって明らかだった。
「皐月院様の身柄はこちらで預からせていただきますわ。ごゆっくりお過ごしくださいませ」
「ああ、せいぜいそうさせてもらうさ――積もる話も、あるだろうがな」
そう言って修也は座席に体重を預けた。彼の目線の先には、空を突く軌道エレベーター。
機体は軌道エレベーターから一定距離を保ちつつ、キリスィマスィ国際空港コントロールタワーの指示に従いながらアプローチ。既にILSの回廊には、いくつもの貨物機や旅客機が航空灯を煌々と瞬かせながら、並んで滑走路へ続く見えない空の道を下っている。その順列の最後尾に着いたアンジェリカ達の乗る機体は、前方の機体と一定の距離を保ちつつ、滑走路へのアプローチを開始する。
「貨物機ばかりだ」
ユーリは、モニターから見えた機体を見て言った。ちらりと見えたあの機体は、軍用機の民間派生型である貨物機か。軌道エレベーターの利用要素からして、おそらくあの機体に搭載されているのは、静止軌道ステーションへの補給パーツか、あるいは構造体か、はたまた人工衛星そのものであろう。
「軌道エレベーターの需要は、年々増加傾向ですもの。南アメリカのアンデスにだって、新しいのが建ちそうですわよ」
「陸地で、高地にあることが売り、ってところかな?」
ユーリが正直な所感を述べる。
「ですわね。南米諸国の団結を示す、と言うのもあるそうですが」
「よくもまぁ、そんなお金が出てくることやら」
「中共が噛んでいることは間違いなさそうですわ。中民が噛んだこれにも、中連が噛んだモルディヴのにも、口を挟む余裕はなかったようですし」
政治的な話か、とユーリはげんなりする気持ちがした。祖国だとか、故郷だとか、地上のあれこれそう言う複雑なもの。空は良かった。そう言うものを見ずに済んだ。
機体はぐんぐんと滑走路に近づいていく。前方を飛んでいた機体が滑走路に降り立ち、ユーリ達が載っている機体へ着陸許可が下りる。
機体がゆっくりと滑走路へと吸い込まれるようにして降りていく。そのリフテッドボディの機体下面全体で揚力を生みながら、フラップを引き出して空にしがみつく。外の景色が海からサンゴ礁、草地、そしてアスファルトの路面へと移り変わった。
衝撃。主脚のタイヤが滑走路を蹴りつけた。白煙が巻き起こり、翼が引き起こす空気の渦に巻き込まれて左右一対の渦を巻く。前脚が地面に触れ、機体後部のエアブレーキが開く。スラストリバースとは違う、優しい減速。速度がみるみる内に落ちて行き、やがてタキシングの速度へ。
到着した。モニターに表示される画面からはそれを理解できるのだが、ユーリはいまだによく実感がわかなかった。自分で飛んでいる時とは違う、キャビンという密閉された空間の異動は、ユーリから到着感とでも呼ぶべき感覚を取り上げていた。最も、この場合は『お預け』と言うのが適しているのかな、とユーリはぼんやりと思う。ユーリの体内時計ではいまだに昼なのだが、外はすっかり夕方だ。これは、今晩は寝付くのに苦労しそうだな、と悩むしかなかった。
「では改めまして」
アンジェリカが声を上げる。はっきり通った声で、キャビンに響く声で。
「ようこそ、宇宙の玄関口へ」




