38/Sub:"ビジネスジェット"
「貴女方が、こんなものまで持ち合わせていたとは」
エリサが、深紅の機体を見上げながら皮肉と感心が混じったような口調で言ってくる。アンジェリカはそれを平然と受け流すと、自分のポーチに手を入れた。出てきたのは、絵理沙の旅券。エリサははっとして自分の制服のスカートのポケットを探るが、何も出てこない。
「いつの間に……!」
「随分と不用意にしていたものなので、空に放り投げるくらいなら預かっておきましたわ」
「あら? ゲルラホフスカ家の者とあろうものが、手癖が随分と悪い様ですわね?」
「当てて御覧なさい? 南国旅行に連れて行って差し上げますわ」
睨みつけるようにしていうエリサに、余裕綽々と返すアンジェリカ。血を吸ったときにスったのだろうな、とユーリは予想したが、確かめる気にはなれなかった。確かめたところで、何の意味もないだろう。
アンジェリカはエリサの腕を掴むと、半ば引きずるようにしてハンガーの奥へと歩いていく。ユーリも後をついていったが、更衣室の前で別れる。
「フライトスーツを脱いで、返却してくるよ」
「ええ。早めにお願いしますわ」
アンジェリカに連れられてエリサが到着したのは、空港の中の待合室のような一室。会議室程のスペースに、滑走路が見える窓と、ソファーがいくつか並んでいる。部屋の一角には、警備員のような格好の保安検査員がいて、二人のことを待っていた。
「出国手続きは、向こうでしますわ。着替えてきますので、先に早く済ませてきてくださいな」
アンジェリカがエリサの旅券を彼女に差し出すと、どこか腑に落ちない、といった表情で旅券を受け取って開いた。国籍や生年月日が描かれた旅券には、髪を纏めた青い瞳の、自分の顔写真。
拒否権はないのだろう。仮に断ったとしても、例の、眷属の命令で無理やり出国手続きをさせられるはず。この話に乗ってしまった時点で、既にエリサのレールは決まっているようなものだった。おとなしくパスポートを持って保安員についていく。通されたのは、空港によくある保安検査場を小さくしたような部屋。彼女はいわゆる『出口』側から入ってくる形になった。手荷物は生憎旅券だけだったので、金属探知機を通ってから出国審査を受ける。
出国審査はスムーズだった。アンジェリカから事情を説明されているのだろうか、エリサの瞳の色が違うことに気付いたのか、一瞬パスポートと絵理沙を見比べたが、粛々と手続きが続く。国籍と生年月日を確認して、旅券の中のICチップを読み取り、最後にタブレットのような板にエリサが両掌で触れると、指紋が一瞬でスキャンされて確認が終わる。事務的に出国スタンプが押されて、旅券が返却された。あっけないが、これで手続きは完了である。
エリサが再びアンジェリカはまだ戻ってきてはいなかった。仕方なく彼女は待合室のようなスペースで、置いてあったソファーに座る。ビジネスジェットの利用客向けのスペースなのか、航空会社のラウンジのように見えなくもないが、それでも待合室に毛が生えた程度だった。見ると、サービスのつもりなのか部屋の端に少し高いコーヒーメーカーが置いてあった。
何も口にしないよりはまし、とエリサはソファーを立つ。普段は緑茶が好みなのだが、贅沢は言えるような状況ではないだろう。文句は空港ではなく、こんな状況に放り込んでくれたアンジェリカに言いたかった。重ねてある紙コップを取り、コーヒーを注ぐ。すぐにコーヒーの、独特な香りが漂い、白い紙コップに黒く輝く液体が注がれて湯気が立った。せめてもの腹いせに、砂糖とミルクを入れた。黒一色だったコーヒーが茶色に濁った。
両手で紙コップを持って、ソファーに戻る。窓の外ではちょうど到着便があったのか、滑走路に飛行機が着陸しようとしていた。国内線でよく見る、短距離向けの小型ジェット機。空力を得て、見えないスロープを降りてくるかのように優雅に滑走路に触れる。ホイールから小さく白煙が舞い、少し遅れて、ジェットエンジンの轟音がガラス越しにかすかに響いた。その光景に、なぜかユーリのことを想起した。
「あら、さすがに早いですわね」
後ろからアンジェリカの声がかかる。振り向くと、そこにはシャツにタイトスカートと、ややフォーマルな私服に着替えたアンジェリカがいた。エリサは、関心なさそうに言う。
「別に待ってもいませんわ。お気遣い結構」
「ではわたくしも手続きをしてまいりますわ――飲み物の機内持ち込みはできますので、安心してくださいまし」
そう言い放つとアンジェリカは出国審査の方に消えていく。エリサは手元で揺れる褐色の液体を見た。
「……あら?」
そこで、ふとコーヒーの熱を感じないことに気付く。口をつけてみると、ぬるい。つい先ほどまでは湯気が立っていたはず。冷房のせいだろうか? コップを傾けて恐る恐る飲んでみるが、表面だけ冷めているということもなかった。
吸血鬼の力だろうか? なんだかよく分からないが、今更な気もしたので、これ幸いにとぐい、とコップの中身を飲み干す。喉をほろ苦く、甘くぬるい液体が流れ落ちていった。殻になったコップをゴミ箱へ放り込む。
「待たせましたわね」
アンジェリカが戻ってきた。手には旅券が二枚。小さくエリサが疑問符を浮かべるが、彼女はすぐにそれをポーチにしまい込んだ。自分には関係のない話ですわね、とエリサはそれを気にしないことにした。
「では、常夏の世界へ行くとしましょうか!」
そう勢いよく言うと、アンジェリカは再びエリサの腕を掴んで歩き出した。どうやら逃してくれる気はないようで、先ほどまで来た道を逆に歩いていく。
「私が」紫色の瞳をした絵理沙が、皮肉るように言う。「旅券を持ってきていなかったら、どうなさるおつもりでしたの?」
アンジェリカは、あら、と小さく返した。
「その時は、エリサの搭乗スペースが、快適な機内から棺桶の中に変わるだけでしてよ」アンジェリカは、小さく間を開けて続ける。「ヴァンパイアジョークですわ」
「笑えませんわ……」
通常のヒトであれば死んでいるかもしれないことをされた後では、そのジョークに笑う気も起きなかった。
「あら? 楽器ケースの方がよろしかったかしら?」
「そういう問題ではありませんわ! 人を前科者にさせたいのかしら!?」
エリサが思わず声を荒げると、廊下の分かれ道からユーリがひょっこりと顔を覗かせる。
「二人とも、お待たせ」
「ナイスタイミングですわ、ユーリ」
ユーリはアンジェリカ達と合流し、歩き出す。廊下を進むと、先ほどまでのハンガーに戻ってくる。機体にはいくつかのホースが接続されていて、そのうちの一本は白く霜が降りていた。唸り声のようなポンプの音が静かに響いていて、機体内部のタンクにひどく冷たい何かを供給している。
機体前方、左舷に接続されたタラップを三人は登る。学校の階段とそれほど変わらないような段差のタラップを登った先には、宇宙船のそれのような分厚いドアが口を開けていた。アンジェリカは、ずっと握っていたエリサの腕をここでようやく離した。
「先に言っておきますが」アンジェリカがエリサに向って言う。「機内に、意外な人物が待っています。どうか、騒がないでくださいまし」
妙に引っかかる言い方をするアンジェリカに、エリサは沈黙で返した。是と受け取ったのか、アンジェリカはよろしい、と小さくうなずくと、足元にご注意くださいませ、と言って機体に乗り込んでいった。
「大丈夫だよ」ユーリが、残されたエリサに語り掛けた。「きっと、悪いようにはならないはずだ。いざとなれば、僕らがフォローする。元より、そのための僕等だ」
エリサは、ユーリを見る。特段笑みを浮かべたり、柔らかい表情を浮かべたりいるわけでもない。いつもの学校で見るような、無表情に近い。だがその瞳には、何か、強い意志が感じられた。ひょっとして、普段もこういう人物だったのだろうか。エリサは、ユーリを見る目が変わっているのに、改めて気付いた。
「信じさせて頂きますわ、貴方達を」
エリサのその言葉に、ユーリが手を差し出してくる。エリサその手に自分の手を載せた。
「足元に注意して。段差がある」
タラップと機体の間の段差を超え、機体に乗り込む。右に曲がって、ギャレー部分は電源が既に入っているせいか、明かりがついていた。アリアンナとアリシアが、戸を開けて中を見て何やら話し合っていた。二人を避けて、キャビンの奥へ。ギャレーとキャビンを仕切るカーテンを、開けた。
そして三人は、エリサは。キャビンへいざ足を踏み入れ――息を、詰まらせた。
「あなたは……」
中でエリサを待ち構えていたのは、意外な人物であった。
彼は、入ってきたエリサに気付く。どこか苦々し気な顔で、あくまで社交的に挨拶をする。
「……やぁ、皐月院さん」
どこか窮屈そうに座席に腰かけていたのは、サタカ重工の御曹司こと、佐高修也その人だった。隣には、亜麻色の髪を纏めた女性が座って、エリサを不安そうな瞳で見つめている。彼女が、修也の『良い人』であるのは、一度も直接会ったことがないエリサにも理解できた。
二人の、いや三人の間に沈黙が流れる。狭いとは言えないが広いとも言えないキャビンの中に、静けさが満ちる。ただ外の喧騒がかすかに流れていたその時、盛大にアンジェリカが手を鳴らした。
「積もる話はあるでしょうが、まずは出発しますわ! 余裕はあるとは言え、時間は有限ですのよ!」
「……ええ。そう、ですわね」
エリサは、少し迷って、修也の向かいに座る。ボックス席のようになっている座席。ユーリはエリサをちらりと横目で見やって、機体後方の席に座った。斜めに、エリサの様子が確認できる位置。
機内の壁は全面が極めて薄い有機ELディスプレイで覆われていて、そこに表示された窓からは空の映像が表示されている。なんてことはない、ありあわせの映像。それがなんだか息が詰まるように感じて、ユーリは壁についた小さなタッチパネルを操作した。ディスプレイの表示が切り替わり、機内の壁が途端にシックな壁紙に変化した。
「こちらの方が落ち着きますわね」
コクピットの方から歩いてきたアンジェリカが、ユーリの向かいに座る。ユーリは、どうかな、と返す。
「上空では機外モードにした方が、案外いいかもしれないよ?」
「ゲストお二方が、高所恐怖症ではないことを祈るばかりですわね」
「パイロットに挨拶を?」
「ええ。二人と、一機に。二人ともゲルラホフスカ・エアタクシーの専属パイロットですもの」
至れり尽くせりだね、とユーリは肩をすくめる。
「お父様とお母様が、この件をただの子供の癇癪ではなく、綿密に練った計画であり、そこに商売として一枚噛めるからこその投資、というわけですわね」
最も、と、アンジェリカは苦笑いを浮かべる。
「気に食わない人間風情を黙らせてスッキリしたいというのと、親心も、あるでしょうけれど」
「確かに、どっちも嫌いそうなタイプの人間だろうね、あの人は」
そう言って、ユーリは絵理沙の方を見やる。感情をこらえるようにして向かいに座る修也と想い人を睨むその眼は、どこか彼女の祖父に似ていた。
そして、また娘の未来を案じているのも、また事実ではあった。
「複雑な気持ち、ですわね、親に思われるというのは」
「親の心子知らず、子の心親知らず、さ。いつになっても」
ユーリは有機ELに表示されたまがい物の壁紙と、その先に広がるハンガー、そしてその先の青空を見つめる。
「貴方とわたくし、いつかは親になるのだから、明日は我が身、と言うものですわよ?」
「親、かぁ」
ユーリがそう呟くと同時に、飛行機のドアが閉まる音が静かに響いた。アンジェリカはタッチパネルを操作すると、機内の壁が一斉に透けた。外部カメラの映像を合成して投影する、擬似的な全天周モニタ。
「うん。こちらの方がすがすがしいですわ」
ユーリの視界の端で、修也と思い人、エリサが困惑しているのが目に映る。そうしていると、前方のギャレーからアリシアとアリアンナが来て、通路の反対側に座った。
「何をなさっていたの?」
「いや、何か軽食があれば、と思ったのよ」
アリシアが手をプラプラ振りながら言う。それで? とアンジェリカが聞き返すと、アリシアは胸元で、両手を使って三角形を作った。
「簡単なものがあったから、それでいいのなら、って感じだわ」
「どうせ一時間半ほどですわ。軽く腹に入れられるなら、何でも構いませんわ」
アンジェリカが小さくため息をつくと、ぐん、と機体が動く感触。外の景色が、動き始める。牽引車が前輪を保持し、ハンガーから機体を引き出していく。どこか薄暗いハンガーの中から、青空の下の駐機場へ。




