36/sub:"快天"
「なんの、こと、ですの」
絵理沙の瞳はぼんやりと蒼と紅が交じり合った色に輝く。は、は、と運動の後のように激しい呼吸に、どこか熱を帯びたような瞳。絵理沙は、突然猛烈な渇きに襲われていた。
「のどが、わたくし、かわいて」
「我慢なさい。それで吸ったら『こちら側』に引っ張られることになりますわ。まぁ永遠にわたくしの眷属となりたいのでしたら、止めはいたしませんけれど」
「おことわり、ですわっ」
精一杯の力でアンジェリカを睨みつける絵理沙。半開きになった口からは、アンジェリカのそれほどではないが、尖った犬歯が覗く。先ほどまではなかったそれはとめどなくあふれる唾液で濡れ、窓の外から入ってくる光を浴びててかてかと輝いている。
「さ、効果が切れる前に早く行きますわよ」
「いくって、どこへ」
絵理沙がそういうと、不思議そうな表情をしてアンジェリカが絵理沙の腰を抱き寄せる。
「あら、言ったではありませんか。『未来を造りに行く』、と」
そう言ってアンジェリカは、絵理沙を米俵でも担ぐかのように肩に担ぎあげた。絵理沙は抵抗しようとするが、アンジェリカが『大人しくしていてくださいまし』と言った途端、その声が頭の中で何度も反響し、その言葉に従ってしまった。何をしたのか、と聞きたい気分であったが、それ以上に体を襲う謎の渇きに耐えるばかりで精一杯で、なされるがままにされる。
「さて、と」
アンジェリカは絵理沙を担いだまま、器用に校舎を駆ける。下足箱から外に出ると、再び日差しが肌を刺す。
いや、違和感に絵理沙は気づく。痛い。チリチリと、まるで電熱線の前にいるかのような強烈な熱を感じる。まさか、と思ってアンジェリカの背をたたく。
「なんですの?」
「日差し、まさか。このまま灰になったりなんて、しませんわよね!?」
ぐちゃぐちゃな表情のまま必死に問いかけると、アンジェリカは安心なさい、と返す。
「一時的とは言え、わたくしの眷属なんですもの。太陽程度で灰になったりなんかしませんわ」
「吸血鬼、ではありませんの」
「太陽の光で灰になるなら、星空の下で灰にならないのもおかしい話だと思いませんの? 太陽よりも巨大な星がいくつも輝いているというのに」
詭弁だ、と絵理沙はぼんやりとした頭で思ったが、この何もかもが規格外な吸血鬼令嬢なら無理を押し通してもおかしくない、とどこか納得する自分がいた。
校舎を出ると、絵理沙の予想に反してアンジェリカは彼女を担いだまま校庭に向かった。絵理沙が混乱の中、アンジェリカは目当ての人物に声をかける。
「やあゲルラホフスカ君、待ちかねたよ」
「お待たせいたしましたわ、教授」
校庭の真ん中で、待っていたのはユーリが先日協力した研究グループ。アンジェリカと挨拶を交わした教授は、彼女が担いでいる人物に目を向ける。
「その方は?」
「『要救助者』役に、もう一人吸血鬼を『調達』してきましたわ」
そう言ってアンジェリカは絵理沙を地面に降ろすと、自己紹介なさって、と声をかける。その言葉が先ほどのように絵理沙の脳内に反響し、自分の体の制御権があっという間に持っていかれた。
「初めまして。吸血鬼のエリザベス・ベン・ネヴィスですわ。短い付き合いとはなるかもしれませんが、どうぞよしなに」
完全に意図に反して、ご丁寧にカーテシーまでする絵理沙の体。偽名にしたってひどい名前、と絵理沙は自分の意に全く沿わない笑顔を貼り付けられながら思った。
それよりも、と絵理沙は思考を切り替える。校庭に連れ出して、一体何をする気なのか。この教授と呼ばれた人物と、後ろで何やら準備をしている人々は一体何なのか。見慣れない、アンジェリカが現在着ているその服は一体何の服なのか。疑問が次から次へと湧いてきて、文句の一言や二言でも添えてアンジェリカに問いただしたいところだったが、相も変わらず彼女の体は言うことを聞いてくれない。
着信音。アンジェリカの腰に巻いた小さなポーチの中から響くそれに、彼女は失礼、と一言呟いて端末を取り出す。
「はい、もしもし」
『観測ドローンから通信。皐月院邸に動きあり。動き出した』
電話向こうからの声に、アンジェリカは身体をこわばらせる。
「あくまでも想定内ですわ。そちらも、次の準備を」
『了解』
それだけ言うと、アンジェリカは通話を切る。端末をしまうと、何事もなさげに絵理沙に笑みを浮かべた。
「さぁ、準備を進めましょうか」
違う、絶対に何かろくでもないことをしようとしている。それを声に出したいが相変わらず絵理沙の声帯は何も反応してくれない。そうしていると、教授の指示で作業をしていた人員がわらわらと絵理沙とアンジェリカの周りに群がってきた。アンジェリカは絵理沙に後ろから抱き着く。
「な、なんですの」
やっと出せた声で抗議の声を上げるが、アンジェリカに大人しくしろ、と命令されてそれに従わされた。アンジェリカが慣れた手つきで絵理沙のほどけた髪を短く縛る。
そうこうしているうちに、作業員がてきぱきと絵理沙とアンジェリカにハーネスを装着していく。体幹や股関節だけではなく、四肢にまで装着されるハーネスは、落下防止用のそれを超えてパラシュート用のそれの様だ。だがそんなことを知らない絵理沙にとっては、拘束でもされるのか、と妙な勘違いを起こしていた。首筋に、何か液体の詰まった浮き輪の様なものが巻かれる。
何、何なの?
絵理沙は精一杯の混乱を表現したいが、相も変わらず身体は動いてくれない。そうこうしているうちに、ハーネスにガムテープほどの太さと厚みの、黒い紐と呼んでも差し支えない気もする太さのロープがカラビナで取り付けられた。その先は、四角い箱と、そして白い風船に繋がっている。飛ばす気か、とも思うが、それにしてはバルーンの大きさが小さい。
「コンタクトの瞬間、衝撃が来ると思います。まぁアブソーバーにより緩衝はされると思いますが、首には注意してください」
作業をしていたメンバーの一人が、二人の身体に取り付けたハーネスの各所のセンサーを確認しながら言ってきた。それにアンジェリカは笑みを浮かべながら返す。
「大丈夫ですわ、鍛えていますもの。それに、万一折れてもすぐに治りますから安心してデータを採ることに集中しなさいな」
「わかりました。協力にホント感謝します」
「ええ、存分に感謝なさい!」
バルーンにガスが注入され、浮き上がる。青い空に白いバルーンが上がって行き、ただでさえあまり大きくなかったバルーンはあっという間に小さくなった。絵理沙とアンジェリカに繋がったロープが、するすると空に巻き上げられていく。
「高度40、50、60」
作業員が言う言葉に困惑しながら絵理沙がおろおろと左右を見るが、作業員は端末に目をやったりしていて絵理沙のことを見てもいない。そうしていると、作業員や教授が絵理沙から距離を取る。
遠くで、遠雷の様な音が響き始めた。
「え?」
絵理沙がその音の方に目を向けると、青空の中に小さく銀色の影。普段よりも視力が跳ね上がっている気がする。まだ遠くなのにはっきり見えたそれに、あ、と小さく絵理沙が漏らすうちに、あっという間に姿は青空の中で膨れ上がっていく。
上空を、銀色の竜が飛び抜けた。
戦闘機の様な轟音をかき鳴らし、翼を飛行術式で青白く輝かせ、翼端から白い雲の糸を引きながら竜――ユーリが、学校の上空をフライパスした。絵理沙の瞳が、小さく輝きを増した。
「準備完了だ。スカイフック、レディー!」
教授が無線機に叫ぶ。
そこまで来て、ようやく絵理沙はこれから自分の身に待ち受ける運命を知った。顔から一気に血の気が失せ、足が小さく小刻みに震えてくる。
「お、降ろしてくださいまし」
支配を抜けて、辛うじてか細い声でつぶやく。それは現場で作業に集中している作業員や空を睨む教授には聞こえず、アンジェリカだけがそれに気づいた。
「やめて、やめてくださいまし……!」
「ええい、ここまで来たのなら覚悟なさい! 令嬢は度胸、でしょう!」
「それを言うなら『女は度胸』ですわぁ!」
小さく瞳の端に涙を浮かばせながら懇願する絵理沙を、アンジェリカは黙らせる。アンジェリカの視界の端では、竜形態のユーリが鋭い、戦闘機動の様な左旋回を青空でしていた。真上を通過したフライパスから、再びこの『点』の上空を通過するコースに向けて左に旋回する。オーバーヘッドアプローチ。翼が減圧雲の白煙を纏い、翼端からたなびかせる飛行機雲で青空に白い筋を引いた。こちらに正対し、水平飛行に。翼を大きく横に広げ、速度と高度を同時に殺しながら降下してくるそれは、見ようによっては着陸態勢のそれのようにも見える。無線機からユーリの声が響いた。
『オンコース、目標まで距離5000』
「ラプンツェルよりステラ2へ。風向きは方位0―2―0から5ノット。 視程30マイル」
『ターゲットを目視で確認。アプローチ』
「ステラ2、クリアフォーコンタクト!」
『目標まで距離3000』
アンジェリカが絵理沙をしっかりと抱きかかえながら叫ぶ。
「エリサ! 下手にしゃべらない事ですわ! 舌を噛んだら治るまで痛いですわよ!」
「それどころじゃない気もしますわ!」
『残り2000』
「ああどうしてこんなことに……! こんなのであればアンジェリカの言うことなど聞かなければ良かった……!」
「後悔先に立たずですわ!」
「どの口が!」
『1000』
「エリザベス!」
アンジェリカが叫び、一瞬太陽が竜に隠された。上空を、ユーリが轟音を立ててフライパス。地面でとぐろを巻いていた余剰ロープが、凄まじい勢いで空に吸い込まれ、一気に張り詰めた瞬間――。
「鳥に――いいえ、竜になってきますわよ!」
「そもそも今は吸血鬼でぇ――きゃあああああああああああああああ!」
――空から見えない手でひょい、と持ち上げられるかの如くの手軽さで、二人は空に『引っ張り上げられた』。
「ああああああああああああ!」
「おーほほほほほ! 何を言っているかわかりませんわぁ!」
口でフックを噛み、スカイクレーンで二人を釣り上げたユーリは、推力を一気に増大すると同時にピッチアップ、見る見るうちに高度が上がり、眼下で見えていた街がミニチュアになっていく。下層雲の群れを抜けて、ぐんぐんと高度を増していく。どこまでも広がる、夏の青空の中へと。
『キャッチアップ成功! 新松本空港まで空の旅路だ、ボンボヤージュ!』
無線機の向こうで教授が歓びの声を上げる。絵理沙の悲鳴は、ユーリの飛行術式の轟音に混ざり、空に吸い込まれていった。




