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青春と幻想のストラトポーズ  作者: 失木 各人
04/Chapter:"2070年お嬢様の旅"
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35/sub:"後天"

 皐月院絵理沙は激怒した。必ず、かの邪知暴虐の悪役令嬢を除かねばならぬと決意した。絵理沙に放蕩令嬢の心がわからぬ。絵理沙は、旧華族の令嬢である。麗たれと、己を厳しく律してきた。けれども傲慢に対しては、人一倍敏感であった。

 絵理沙は一人、夏休みの学校に来ていた。理由はもちろん、先日されたアンジェリカによる脅迫のそれである。男子の、ましてやユーリの服を嗅いでいたことを広められるなど、絵理沙にとっては屈辱の極みであり、なにより、ユーリと疎遠になることを恐れていたのだ。そして、それをアンジェリカは察していたからこそこのような脅迫を行ったというのは絵理沙にも理解できていた。

 だからこそ、このような形の脅迫で絵理沙を呼び出し、旅券を必要とする何かをさせるという彼女の暴虐に、決闘の一件以来、押し込めていた憤怒に再び火がついたのだった。

 ずんずんと、肩で大気を切り裂きながら歩くその様は、とてもではないが令嬢にあるまじき振る舞いではあったが、今の絵理沙にそのようなことを気にしている余裕などなく、ひたすらに待ち合わせ場所である校舎へと向かっていた。

 学校は夏休みではあるが部活動に休みはない。校舎に遮られて見えない校庭の方から、練習の声が漏れ聞こえてくる。ただその声は、いつもより心なし小さく感じられた。他に何か用事でもあるのだろうか。生徒会長ではなくなった絵理沙には関係のない話ではあったが、どうしても気になった。様子を見に行こうかとも思ったが、約束の時間が近い。こらえて、校舎に向かう。

 生徒会長でなくなった絵理沙に、以前の取り巻きは居ない。所詮生徒会長に媚びを売って自分の部活への予算要求に色を付けてもらおうとしていただけの彼女たちは、絵理沙にその権限が無くなった瞬間に掌を返して消え去った。今は、現生徒会長に同じようにしている。絵理沙のことなど、なかったかのように。

 懐には、辛うじて持ち出すことができた旅券。それがなんだか制服である絵理沙にはひどく似つかわしくなく、懐で異様な重さを放っていた。学生の身分である絵理沙が海外に用事に出かけるのは、婚約者の男との『婚前旅行』のみ。それですら部屋は別で、愛人を堂々と連れ込んでいる始末だった。触れた機会があるかどうかすら怪しい。旅券には、その時の記録である刻印が無機質に並んでいるはずだ。

 絵理沙は、それも勤めである、と信じていた。皐月院家は没落していると言っても過言ではない家だ。だからこそ、家の再興のためにはサタカ重工との婚約は必要不可欠であり、そのために絵理沙は身を捧げるのは当たり前だと、そう信じていた。

 だからこそ、同じような立場である、あるはずのアンジェリカが、ああも責務を放棄して自由に道を進んでいる様が、余りにも理解不能であり、不愉快であった。

 ――ましてや、自らが憧れ、だが届かぬ翼と諦めて手をかざすユーリと、並んでいるなど。

 縦ロールではなく、以前のように頭の上でまとめた髪は夏の日差しを遮ってはくれないが、涼し気に空気が首筋を撫でる。熱が皮膚に汗の雫を作っては、喉を滑り落ちる様が実に不愉快で、余計に絵理沙を苛立たせる。

 下駄箱まで来るが、アンジェリカの気配はない。周囲に隠れているのではないか、そう思って息を殺すが、だからと言ってもアンジェリカの場所がわかるという訳でもない。絵理沙は、アンジェリカが校舎を歩いている姿をいつも目にしていた。堂々と、世界を自分の色で塗り替えるかのように芯の通った姿に、なんてはしたない、と思いつつ、素人目にも彼女が何らかの武術を修めているのは絵理沙には明確に分かった。絵理沙が周囲の気配を探ろうとしても、きっとアンジェリカはいともたやすく闇に潜むだろう。

 昇降口に気配はない。校舎の中の方なのか、と、自分の下足箱を開くと、上履きの上に置かれた一枚の紙に目が留まった。触ったことのない、不思議な、ざらざらとした紙。達筆な英語で、文字が書かれている。


『ここまで来たということは、もう引き返すつもりはないのでしょう? 指定する教室に、一人で来てくださいな。待っていますわ。  アンジェリカ』


 カーっと顔が熱くなる。感情が怒りに飲み込まれるのが一瞬で理解できた。今アンジェリカを前にしたら、思い切り彼女の頬を打ってしまうだろう。最も、その前に取り押さえられるか、地面に転がされるのがオチだろうが。

 この手紙は、絵理沙が断る気がないのを承知で書かれていた。手紙の下の方には、丁寧に待ち合わせの教室の場所が書かれている。絵理沙もよく知っている、アンジェリカとユーリのクラスだった。

 怒りのままに手紙を握りしめると、上履きに履き替えないまま走り出す。淑女たれとか、淑やかとか、そう言った教えはこの瞬間絵理沙の脳内から消えうせていた。廊下を、足音を立てながら駆けると、指定された教室がすぐに目に入る。息があがりながらも、ドアノブを掴み、勢いよくドアを開ける。


「アンジェリカ! 今度こそいい加減に――!」


 ――教室を開けると、そこには夜が広がっていた。


「え?」


 夜だ。赤く、血を流したような夜の闇に、青ざめた月と、煌々と輝く星空が広がっている。足元は地面なのか床なのか、よくわからない何かを踏みしめていて、現実感のないその感覚が方向感覚を喪わせる。その光景に呆気に取られていると、はっと後ろを振り向いた。そこに、あったはずの扉はなかった。呆気にとられる絵理沙に、上から声が掛けられる。


「ようこそ」そこには、青ざめた月を背景に赤い光の翼を背負いながら空に浮かぶ、深紅のドレスの、霊服姿のアンジェリカの姿。「待って居ましたわよ、エリサ」


 重圧。まるで身体を空間そのものに縫い付けられたかの様な感覚。指先一つ動かすことができずに、絵理沙の動悸と呼吸だけが早くなっていく。まるで重力を無視しているかのように、地面に触れるように降り立ったアンジェリカが、こつ、こつ、とヒールを鳴らしながら絵理沙に近づいてくる。その顔はどこか、嗜虐的な笑みを浮かべていた。


「私に手を出せば」絵理沙は、絞り出すような声で言う。「学校にだって、いられなくなりますわ。貴女の、婚約だって」

「あら? 何も問題はありませんわ」


 アンジェリカは、くすくすと笑った。赤い瞳が、どこか金色の輝きを含んで夕焼けの様な色に輝く。


「ええ。害するつもりなんて、ありませんもの」


 そう言ってアンジェリカは、絵理沙の制服の襟に手をかけた。セーラー服の襟を、ゆっくりとした手つきで緩めていく。絵理沙の呼吸が浅く、早くなっていった。ひきつるような呼吸を、早鐘のように繰り返す。

 アンジェリカが口を開く。鋭い牙が、青ざめた月明りに照らされて煌めいた。ひっ、と小さな悲鳴を上げようとした絵理沙は、最早声すら上げられなかった。アンジェリカは、絵理沙の首筋にそっと口を近づけて――。


「……ところで」


 ――動きを、止めた。


「貴女、昨晩の夕餉は何でしたの?」


 アンジェリカが絵理沙の首筋に顔を近づけたまま、問いかけてくる。は? と絵理沙が思っていると、ぐに、と脇腹をつままれた。ひぃっ、と思わず小さな悲鳴を上げる。


「そ、それが何の関係がありまして? それとも、獲物が食べたものがそんなに不安なのかしら?」


 絵理沙は精一杯の虚勢を張って言うと、アンジェリカは眉を顰めながら絵理沙に向き合った。


「答えなさい。随分と味気ない食事をしているようですわね、と言えばわかりやすいかしら?」

「貴女には関係ないでしょう!」

「関係大ありですわ! わたくしの『初めて』が、こんな味気ない匂いのするものだなんて、許せるわけありませんわ!」

「いらないですわ! アンジェリカの初めてなんて!」


 その言葉に、小さくぷちり、とアンジェリカの額から音が響く。それと同時に、アンジェリカが絵理沙の胸を鷲掴みにした。たまらず彼女は悲鳴を上げる。


「きゃあああああ!」

「随分とストレスなく育った駄肉をぶら下げておいて! ええい! こうなったら乱暴にしてやりますわ!」


 そう言って絵理沙の首筋に顔をうずめるアンジェリカ。絵理沙はなんとかもがこうとしたが、抵抗は無意味だった。彼女が頭にまとめていた髪がほどけて、散る。


「いやああああ、汚される!」

「ええい大人しくなさい! 抵抗は無意味ですわ!」


 首筋に冷たい感触、そしてそこから一気に熱を持ち、身体の芯から下腹部が温まっていく。痛みはなく、むしろ心地よさすら感じる。

 これが、吸血。

 アンジェリカに拘束されながら、絵理沙は内股気味に足を閉じ、小さく痙攣する。その様子は官能的で、芸術的ですらあった。


「あ。あ。あ。あ。あ」


 びく、びく、と。アンジェリカが喉を鳴らすたびに絵理沙の身体が小さく痙攣する。ぐるん、と絵理沙の瞳が白目を剥いて、目尻に小さく涙の粒が浮かんだ。

 永遠にも思える時間。ゆっくり絵理沙の首筋から牙が引き抜かれると、アンジェリカは傷跡をぺろり、と舐めた。そこに傷跡はなく、僅かな血の跡と、白い肌が広がっている。アンジェリカは、エリサを放すと口元を手袋の甲で拭う。


「……ふぅ、エリサの癖にいい味なのが腹立ちますわね」

「あ、あ、あ……」


 どこか恍惚とした表情を浮かべながら地面にへたり込む絵理沙。その青い瞳は、赤い輝きが混じって紫色に変化していた。焦点の定まらない瞳をして彼女が地面にへたり込んでいると、二人の周囲を覆っていた夜がまるで霧が晴れるようにして消えていく。夜が消えた先にあったのは、なんてことはない、学校の教室と、赤いフライトスーツ姿のアンジェリカだった。


「それにしても、驚きですわね」アンジェリカが、どこか勝ち誇ったかのような顔をして言う。「貴女が、まさか処女だったなんて。腹立たしいほど美味でしたわよ」

「貴女には……関係……ありませんわぁ……」


 どこか夢心地のような雰囲気で悪態をつく絵理沙だったが、その声は弱弱しく、覇気はない。というか、二回も『腹立たしい』と言う必要はあったのかと絵理沙は夢心地の思考でぼんやりと思う。

 床にへたり込んだ絵理沙を見て、アンジェリカは満足げに頷いた。


「ともあれ、これで準備は完了ですわね」


 アンジェリカが手を差し出す。何を、と絵理沙が思っていると、彼女の身体は意思に反してアンジェリカの手を取った。ぼんやりとした思考のまま驚愕していると、アンジェリカは先程とは違う、意思の籠った笑みを浮かべる。


「さぁ、行きますわよ。未来を造りに」


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