34/sub:"好天"
「なら、話は早いですわ」
アンジェリカはぽん、と手を叩く。何気ないその一挙一動にビクリと絵理沙は身体を震わせる。
「してほしいことはシンプル。シンプルですわ」アンジェリカは、絵理沙の両肩に手を置く。「一つ、貴女の旅券を確保しておくこと。二つ、八月一日の昼一一時に、この学校に来ること。それだけですわ」
簡単でしょう? そう言うアンジェリカに対し、絵理沙は顔を青ざめさせたまま、声を震わせる。
「な、何をする気ですの!? 旅券を使って、どうするおつもりで……」
「大丈夫ですわ。ええ。法律には一切触れない――というか触れないための物ですもの。大事に持ってきてくださいまし?」
それは逆に言えば、持ってこなかったら法律に触れることをする、と暗に言っていると等しかった。絵理沙はぐちゃぐちゃの表情で歯を噛みしめ、精一杯アンジェリカを睨みつけるが、アンジェリカはどこ吹く風、と言わんばかりに鼻を鳴らす。
「ご安心なさい。ことが進めば、誰しもが納得する結果に落ち着けるでしょうから。貴方にとっても、悪い話ではないと思いますが?」
アンジェリカの物言いに、あくまでも睨みを続ける絵理沙に、ユーリは皐月院さん、と近づく。
「大丈夫。危害を加えることはないよ。それは僕が保証する」
「あなたは……いいえ、何でもありませんわ」
何か言いたげな絵理沙だったが、ユーリの表情を見て、その言葉を飲み込んだ。
窓の外が光る。びくりと絵理沙は身を震わせる。一方アンジェリカとユーリは窓の外に目を向けた。そこに広がるのは、相変わらずの雨の空。バケツをひっくり返したような勢いの、滝のような雨音を貫いて、雷鳴が教室に響き渡り、窓を震わせる。
「近かったね」
「ですわね」
あくまでもアンジェリカは平然と返すが、その態度に虚勢が混じっているのを、ユーリは理解していた。恥ずかしい所を見せた、とさらに顔をゆがめる絵理沙に、アンジェリカはあくまでも窓の外を見ながら言う。
「雷が苦手なのが、貴女だけではないと理解しておきなさいな」
「……慰めの、つもりですの?」
敵意の混じった言葉で絵理沙が言うのに、ユーリは割り込んであー、と呟く。
「空を飛んでいると、落雷ってのは怖いものだからね。隠れるところのない所で狙撃されるようなものだ」
アンジェリカはちらりとユーリの方を見て、ため息をついた。
「雨が上がったら、早く帰ることですわね」
「言われなくても……!」
絵理沙が睨みつけて、教室から鞄を掴んで出て行こうとする。それに対してユーリは待って、と声をかける。怪訝な表情をして振り返った絵理沙に対し、言いにくいんだけど、とユーリは視線をやや下に逸らしながら言った。
「シャツ、返してくれると助かるかなー……」
「あ、あ、あっ、これはっ」
一瞬で顔を真っ赤にした絵理沙が、ずっとお守りのように握りしめていたユーリの制服のシャツを差し出してくる。それを苦笑いと共に受け取ると、逃げるようにして絵理沙は教室から出ていった。
「し、失礼しましたわ!」
去っていく絵理沙の背中に声をかけることができず、ユーリとアンジェリカは教室に二人、取り残された。
「やり過ぎだね、アンジー」
「あら? 短絡的かもしれませんが、効果的でしたわ」
アンジェリカは自分の席にまで歩いていくと、椅子を引いてこしかける。外を眺めていると、再び外が光った。直後に響く轟音。
「まだ、慣れない?」
ユーリがアンジェリカに尋ねる。
「フラッシュバックするほどではありませんわ」
強がっているようすもなく、アンジェリカはつぶやいた。
「ただ、少し思い出してしまうだけ」
「……焦ることはないさ。何にしたって」
ユーリはフライトスーツを脱いで、制服に着替える。アンジェリカはその間、ずっと窓の外を見つめていた。
積乱雲による雨は降り出すのも早いが、止むのも早い。ユーリが着替えている間に、鉛を流したような色だった雲はどんどんその色を薄くしていき、白い雲が空を覆いだす。絶え間なく響いていた雷鳴はすっかりとその頻度を落とし、いつしか聞こえなくなっていた。
「そろそろ、帰れそうですわね」
自分の席で、鞄から本を取り出して読んでいたアンジェリカが顔を上げてぽつりとつぶやく。ユーリは端末を起動すると、気象庁のホームページで周辺の雨雲の位置をレーダーで確認した。先程の積乱雲は過ぎ去っていて、後続のものもない。
「うん、行けそうだ」
「なら、早く帰りましょう。やるべきことはまだあることですし」
そう言って自分の鞄を持つアンジェリカ。ユーリも、自分の鞄と、フライトスーツの入ったスポーツバックを担ぐ。
「夕飯の買い物を済ませておいてよかったね」
「ですわね。今晩はアリアンナが当番ですし、ユーリも羽を伸ばせますわ」
「シャワー浴びたあとに、ゆっくりさせてもらうよ」
二人で昇降口に向かう。昇降口に絵理沙の姿は無かった。どうやら先に帰ったらしい。
二人で下校路を歩く。にわか雨の直後だからか、周囲に人の姿はまばらだった。夏の暑さを一時的に吹き飛ばした雨の残滓は、冷たくも湿った空気として周囲を包み込んでいた。空を見上げると、ちらほらと雲の隙間から日が戻り始めている。まだ微小な水滴が多く残る空に、いくつもの光の筋を描いている。
二人の歩みが人気の少ない住宅街まで来たところで、アンジェリカがぽつりとユーリにつぶやいた。
「そちらの首尾は、どうですの?」
「連絡したら、明日にでも、って勢いだったよ。日付は伝えて、スケジュール調整は済ませてある」
ユーリは、手を飛行機のように広げて空を切る。
「僕は新松本空港から離陸、アンジーが皐月院さんを一時的に吸血鬼化した後、作業員と一緒にバルーンを展開。そうして僕が学校の校庭上空をフライパス。それでアンジーと皐月院さんを回収する」
「新松本? なぜそちらから?」
「フルトン回収のキットが大型でね。竜人形態だと持てないんだ」
なるほど、とアンジェリカは思った。大型の飛行種族が離着陸するのは航空管制の法律上、空港か認可されている飛行場からの離着陸に限られる。ユーリが竜形態で飛ぶのなら、新松本空港からの出発は納得できる話だった。
「そのまま新松本空港で現地解散、だ」
「現地解散、ですわね。なら、そのままバカンスに行っても問題ないですわね。空港まで運ぶ手間が省けましたわ」
アンジェリカは予定の前倒しに、にやりと口元を歪ませた。
「バカンス、とな」
ユーリが不思議そうな表情で言う。
「ええ、刺激的なバカンスですわ」
「刺激は多ければ多いほどいい、と言うものでもない気がするけどね」
ユーリがため息をつきつつも苦笑いを浮かべると、あら、とアンジェリカは不思議そうな表情を浮かべた。
「実際バカンスも含みますわ。向こうで会談しかしないわけではありませんですもの」
「バカンスかぁ」
海で泳ぐ以外、何をしようか。生憎軌道エレベーター周辺は飛行禁止空域だ。空を飛ぶのはあきらめた方がいいだろう。そうなると、ゆっくり本か映画でも見ようかな、と考える。現地の魚市場を回って、何か珍しい料理を作るのもいいかもしれない。南洋の新鮮なマグロが手に入る可能性もある。
「まぁ、本体はオペレーションであるのには、変わりはありませんわ」
アンジェリカが釘を刺すようにして言うが、ユーリはやるべきこととスケジュールを頭の中で再確認する。
「というか、実質的に僕等が働くのは会議と会談のセッティングだけだよね?」
そう言うと、アンジェリカはそれに関してなのですが、と呟いた。ユーリが小さく首を傾げると、彼女は少し言いよどんだあと、意を決して言う。
「わたくし、ゲルラホフスカ家として会談の場に臨むことになりましたわ」
「絵理沙の友人としてでも、商会の跡取りとしてでもなく、ゲルラホフスカ家、として?」
ユーリがすぐにそう尋ねると、アンジェリカは少しその表情に緊張をにじませて、ええ、と答えた。ユーリは彼女の表情を見て、どこまでも平然と、なるほど、と呟く。
「――そうか。僕にできることがあれば、手伝おう」
ユーリがそうあっけらかんと言うと、アンジェリカは小さく目を丸くした。
「もう少し、大げさなリアクションを予想していたのですが」
「サタカ重工の改革派、御曹司の方に一枚噛むってことだろう? あり得た話だ。それに、これは事態を動かしたものの責任でもある」ユーリは小さく肩をすくめる。「責任が回ってくるのなら、僕はそれを負う手伝いをするだけさ」
そうユーリが言うと、アンジェリカはしばらく口をポカンと開けていたが、ユーリの言ったことを理解してくると、ふん、と頬を膨らませた。
「生意気ですわ。ユーリの癖に」
「生意気な僕は嫌いかい?」
「……ずるい人」
アンジェリカは、ユーリの開いた手を握ると、ユーリはその手を握り返した。
「ならば、そちらの方も、成功させなさい」
「僕を、誰だと思っている?」
そう自信満々に言うと、アンジェリカは不敵に嗤った。
「信じていますわよ。わたくしの最高の機体」
「信じてるよ。僕の最高のパイロット」
ふわりと熱を含んだ風が二人の頬を撫でる。荒天の余波を吹き飛ばす、夏の熱気。
「絶対に、成功させますわよ」
「言われなくとも」
意思を示すように、二人は手をしっかりと握り合った。




