33/sub:"荒天"
「上手く行きましたわ」
「ええ……」
会議から数日後、帰宅してきたアンジェリカから放たれた一言はユーリに困惑の声を上げさせるには十分だった。
学校に飛行部の用事があり、ユーリとアンジェリカ二人とも登校する必要があり、夏休み始まったばかりなのにユーリは登校していた。一方アンジェリカは作戦の『第一段階』及び『第二段階』のために、実家に戻っていた。そうして今日登校して、久々に顔を合わせた形になる。
部活の後、部員のクールダウンに付き合った後ユーリを待って居たのはアンジェリカだった。彼女はユーリと会った瞬間にユーリに抱き着き、その胸元で深く深く、深呼吸してユーリの体臭を味わった。その間にユーリはアンジェリカの頭皮の匂いを味わっていた。
そうしてお互い別の意味のクールダウンが終わり、事の次第を報告されて一番に出てきたのが先の発言であったのだ。
「驚くほどあっさり行きましたわ。同意も、貸出も、招待も」
「それだけ火薬庫状態だったってことなのかな」
「だとすると、わたくしはそれに火を投げ込んだことになりますわね」
火薬庫だとすれば、爆発するのだろうか。少なくとも無事では済むまい。
「まぁ、こうなることは想定の範囲内、ですわ」
アンジェリカはあくまで気丈に言う。二人でグラウンドの方を見ると、盛大に立ち上がった積乱雲が青空に広がって、太陽を隠さんばかりに広がっていた。
「荒れそうですわね」
「だね。そう思って早めに切り上げたんだ」
グラウンドでは飛行部以外の運動部の面々が、慌てて後片付けを始めている。飛行部はとっくに片づけを終えて部室内に戻っていた。それを見て他の運動部も後片付けを始めたという訳だ。
「となると、次は第三段階、か」
「ですわね。実行は一週間後。それまでに皐月院さんを説得、出来なければ拉致ですわ」
拉致、とな。ユーリは複雑な表情を浮かべるが、同時にそうなる可能性も多大にあることを理解はしていた。もとより、フルトン回収による拉致を考えたのはユーリである。ベストケースとしては絵理沙が同意し、同行してくれればいいのだが、そうはならないだろう。場合によっては皐月院家からの直接的な妨害もあるはず。サタカ重工の動きをどこまで把握しているかは不明だが、行動しておくに越したことはない。
「なら、さっそく話に行ってみる?」
ユーリがそう言うと、アンジェリカは疑問符を浮かべた。その反応も想定内と言わんばかりに、ユーリは校舎を指さす。
「用事があったみたいで、来てたよ、彼女」
「よく気づきましたわね」
アンジェリカが驚いたような表情で言うが、それに対しユーリはポリポリと頬を掻いた。
「いや、飛んでいる時から視線を感じてて、それでふと校舎の方を見たら目立つ色が見えたものだから」
「飛行中の貴方に気付かれるほどなんて、よっぽど熱い視線を向けていたのでしょうね」
アンジェリカが呆れたように言う。絵理沙がユーリに特別な感情を向けている可能性に関してはアンジェリカも予想できる範囲の事であった。それが純粋な憧れにとどまらず、恋慕の感情も混じっている、と言うことでさえも。
アンジェリカはアリアンナと咲江、そして今はまだ本人が認めてはいないがアリシアの、彼女等がユーリに関係を持つことに関して認めてきた。だが、仮に絵理沙がユーリに恋慕の、そしてその先の感情をユーリに向けてきて、それにユーリが応えるとなった時、果たして自分はそれを認めることができるのか。ある意味公認の浮気とも呼べるこの関係性において、認める認めないの線引きは、『アンジェリカとユーリの進む先に、付いてくる覚悟がある』だ。それに絵理沙が該当したら?
複雑な表情をアンジェリカが浮かべていると、ユーリが不思議そうに彼女の顔を覗き込む。
「なんでもありませんわ」
「そうは言っていない表情をしていたけど、な」
聞かれたくないこともあるのだろう、とユーリはそれ以上の追及をしない。
アンジェリカは、ユーリを魅力的に感じている。実際彼は紳士的ではあるし、アンジェリカが求めるそれに応えてきた。なればこそ、他の女性が靡くのも無理はないだろう、とアンジェリカは思っている。良い匂いには、人が集まるものだ。
「そういえば」アンジェリカは神妙な面持ちのまま言った。「良い匂いがする相手とは遺伝子から相性がいい、なんて話をアリアンナがしていたのを思い出しましたわ」
「忘れたい思い出だよ、それは」
「誇りなさい。貴方の匂いは、わたくしにとって最高の匂いの一つですわ」
「奇遇だね。アンジーの匂いもそう思っているよ」
お互いセクハラの応報とも呼べる不毛な会話をしていると、ふわり、と頬を風が撫でる。夏の暑い風ではなく、湿った冷たい空気。喉をつたう汗が風にさらされて急に冷え込んだ。アンジェリカは小さく身体を震わせた。ガストフロント。いよいよもって屋内に退避するべきかもしれない。
「話過ぎましたわね」
「そうだね。校舎に着替えは置いてあるし、戻ろっか」
二人で校舎に向かって歩き出すと、直後、背後で雷鳴が遠く響いた。
「今の聞いた?」
こくり、とアンジェリカが頷いた。音の大きさからしてそこまで遠くない。いつの間にか空は膨らんだ積乱雲に覆われ、鉛のような灰色が空を覆っている。青空は地平線に追いやられ、すっかりかすかな青色を視界の端にちらつかせていた。
二人で走りながら校舎に駆け込むと、直後にユーリの鼻を雨の臭いが刺した。あ、と小さくつぶやいた次の瞬間、大粒の雨粒が地面にぼとり、と墜ちて、砕けた。雹が溶融したものだとすぐにわかるサイズ。次の瞬間、シャワーのバルブを捻ったかのような勢いで急に土砂降りの雨が降り出す。
「ギリギリでしたわね」
「うん、早めに上がっておいてよかった」
空が一瞬、白く染まる。間を開けて、腹に響く重低音と共に雷鳴が響いた。
「近いですわね」
「着差からして、距離からして2……1.5キロってところかな」
練習前に行ったブリーフィングで不安定の予報は出ていたし、近辺に水平シアも確認されていた。それで飛行中、ふと気になった積雲があったので、ユーリが上昇して確認したところ頭巾雲が出ているのを確認し、レーダーでも急速な発達が見られたので急いで練習を切り上げたわけだ。その予想は当たっていたらしい。
二人とも、神妙な面持ちで外の光景を眺める。緩いマイクロバーストでも発生しているのだろうか、大粒の雨が混じった白い風が時折校舎の昇降口のドアを洗い流していく。
「他の部員は大丈夫でしょうか」
「大丈夫。間に合いそうになかったら部室で待つように通達してあるから」
「まぁ、あの鉄筋コンクリートの部室棟なら安全でしょうね」
雨を眺めつづけているのにも飽きて、二人で昇降口を後にする。下駄箱に入れておいた足ふきタオルでフライトスーツと足を拭いて上履きをつっかけると、ユーリの服が置いてある教室へ二人で向かう。
「話をもとに戻してさ」ユーリがアンジェリカにつぶやく。「皐月院さんを、どうやって説得するか、だよ」
「それが問題ですわね……」
アンジェリカは歩きながら顎に手を当て、思考する。絵理沙が婚約や皐月院家にどこまで関わっているのかが未知数な以上、絵理沙が100パーセントこちら側についてくれるという保証はない。
「だとすると、どうするの? それこそ誘拐とかになるだろうけど」
ユーリが提案したフルトン回収による方法ならそれができるだろう。ただし大分グレーなことをやることになる。
「そうですわね……弱みの一つでも握れれば、でしょうけれど」
そう言って彼女は教室のドアを開き、二人で中に入り――。
「あっ……」
――『三人』で、固まった。
「……」
教室にいたのは、まさかの絵理沙。律儀に以前の縦ロール姿のままでいるが、問題はそこではない。
「あ、あの、これは、違う、違いまして」
彼女が大事に抱えて、教室に入ってきたときに『吸って』いたのは、ユーリの制服。それを後生大事に抱えて、深く息を吸っていた。
そんな花火の中に、ユーリとアンジェリカは突っ込んでしまったのだった。
「あ、アンジー……」
とてつもなく嫌な予感がする。ユーリは恐る恐る、隣のアンジェリカの方を見て。
「ひっ」
とてつもなく、後悔した。
「あら」アンジェリカが声をあげる。「あらあらあらあらあらあら」
嗜虐的な喜びに満ちた声をあげるアンジェリカ。彼女の口は口角を盛大に釣りあげ、にんまりと三日月を描いている。なんだか、アリシアを赤ちゃんにしている時の咲江をユーリは思いだす。
「あらあらあら、皐月院さんともあろうものが、まさか他人の制服の匂いを嗅ぐなんて変態的行為をしているなんて、このわたくしにも思いもよりませんでしたわぁ」
アンジーは僕の匂い直接嗅いでいるじゃないか、とユーリは心の中で思ったが、今それを言ったら余計話がこじれそうなので黙っていることにした。いざと言うときの安全装置として使おう。
「ち、違いますわ。これはただ、制服が落ちていたから拾って差し上げようと」
「あらぁ? 皐月院さんの御手はその鼻についていらしてぇ? それはさぞかし鼻にかけられるものが多そうですわぁ」
どこからそんな語彙が出てくるのだ、と言わんばかりの勢いで絵理沙を煽るアンジェリカに、どんどん顔を青くしていく絵理沙。そろそろ助け舟を出すべきか、それともここで自分が出してしまったら彼女を更に追い込むことになってしまうのだろうか。ユーリは何か言うべきか迷っているが、眼の前では鬼の首を取ったと言わんばかりに絵理沙を煽り散らかすアンジェリカ。何か、何か言わなければ。咄嗟にユーリは口を開く。
「あー、その。皐月院さん」
アンジェリカが満面の笑みで、絵理沙が顔を真っ青にしながらユーリの方を向いた。
「その、臭くなかった?」
「い、いいえ。そんな事はありませんでしわ! 良い匂いですわ!」
先程まで青くなっていた顔をかーっと赤くし、焦ったように言う絵理沙。驚愕の表情で絵理沙の方を向くアンジェリカ。いい匂いだからと連呼する絵理沙は目の焦点が合っていない。
「わかりました! わかりましたわ!」
完全にパニックになっている絵理沙をアンジェリカが制止する。どうしてわたくしが、とアンジェリカは愚痴を吐きながら、横目でユーリを睨みつつ、それはそれとしてまるでお守りか何かのようにユーリの制服を抱きしめている絵理沙の両肩を掴んで、言う。
「皐月院さま? まさかクラス委員というものが、男子生徒の制服の匂いを嗅いで昂っているなど」絵理沙は、その先の言葉を知っているようだった。「知られたら、大変ですわねぇ?」
「くっ……!」
邪悪な笑みで絵理沙に語り掛けるアンジェリカに、絵理沙は精一杯の睨みを返すが、アンジェリカはどこ吹く風、と言う風に続ける。
「このことが淑女方の昼餉の、付け合わせたる巷談の花形を飾りたくないのなら――少し、お願いしたいことがありますの」
絵理沙は、頷くしかなかった。




