29/Sub:"ターニングポイント"
終業式はあっという間に終わり、明日、というかこれからが夏休みである。それは学生であるユーリにも関係ない訳はなく、事実周囲の同級生は夏休みへの期待でホームルーム直前だというのに騒いでいる。だが一方でユーリは心ここにあらず、といった表情で窓の外の青空を眺めていた。
ユーリの脳内を占めている情報。それは、先日アンジェリカから聞かされた皐月院家の事情だった。ユーリが思っている以上に深刻で、同時に浅慮な問題。この問題に首を突っ込むべきかどうか、突っ込むとして、どうすればいいのか。それを考えだして、実はユーリは昨晩一睡もできていない。普段は規則正しく熟睡し、早朝にはランニングかフライトをしているユーリが、だ。
「珍しく思い詰めているようですわね」
かけられた声にようやく反応して顔を上げると、アンジェリカが腰に手を当ててユーリを見下ろしていた。
「アンジー」
「ユーリ、ホームルームの時間ですわよ」
彼女はクラス委員としての仕事をしに来たらしい。いつの間にか騒がしかった教室は落ち着いてきていて、ホームルームが始まることを感じられた。
「分かった。知らせてくれてありがとう」
「考え事は、後で行うことですわね」
そう言って席に戻っていくアンジェリカ。その言動には、いつもの様な余裕がない様にも感じられる。ユーリほどではないが、アンジェリカも思うところがない訳ではないではないらしい。とりあえず、ユーリは窓の外から教室内へと意識を戻す。
ホームルームが始まる。担任教師が夏休み中の注意点などを述べていき、始業式の事を話す。何の変哲もない、長期休暇前の説明事項を一通り説明し、礼をしてホームルームは解散となった。アンジェリカのはきはきとした声が礼の号令を教室に響かせた。
ユーリが少ない机の中身を鞄に押し込んで席を立つと、アンジェリカがつかつかとユーリの所に歩いてきた。
「話がありますわ」
「そんな気はしていたよ」
ユーリは大人しくアンジェリカの後についていった。教室を出て、校舎の端、誰も人が寄り付かないような場所に。なんだかいけない事をしている気分だが、他人のプライべートに勝手に首を突っ込んで身辺調査まがいのことをしているのは十分いけない事な気がする。
「ここなら、人に聞かれる心配はなさそうですわね」
「周辺に人の反応もない。大丈夫だよ」
校舎の端の端。倉庫が並ぶエリアの一角で、小声で二人は話始める。
「で、皐月院さんの事でしょう?」
「率直だが、間違ってないよ」
ユーリは大人しく肯定する。
「相変わらず、彼女のことで頭がいっぱいなのですね」
アンジェリカが呆れたように言うが、ユーリは少し大げさに言い返す。
「仕方ないだろう? 『皐月院家は第二次大戦を生き残った各界に影響のあった旧華族のだが、三〇年前の大戦に関与していた疑いで多額の賠償と各界のコネクションを喪い、没落しかけている名家』だなんて、小説で見る設定みたいな事実」
「『各界とのコネクションを取り戻そうと、政略結婚なんて時代錯誤の方法を用いて強引に大手企業であるサタカ工業の御曹司との婚約を結ばされている』も追加ですわ」
今度はアンジェリカがため息をつく番だった。あまりにも耳を疑いたくなるような事実に、思わずアンジェリカもゴシップの類と切り捨てるところだった。それが、彼女の両親という、ゴシップとは最も縁遠い所に居る存在からの情報でさえなければ、だ。
「貴方が言っていた、彼女がわたくしに向けている感情の理由が、腑に落ちましたわ」アンジェリカは、眉間を抑えながら言った。「憧れたのでしょうね、婚約者と仲のいいわたくしに」
「それ、本人に言ったらだめだよ?」
「安心してくださいまし。切り札の切り所は理解していると自負しているつもりですわ」
「その切り札の切り所は無いってことを伝えたかったんだよなぁ」
ユーリは何度目かもわからないため息をついた。この『切り札』とやらは、完全に絵理沙の関係を終わらせる、いわば改変弾頭のようなものだ。絶縁状と言ってもいい。
「それで、昨晩言い損ねた話があるんでしょ?」
ユーリはアンジェリカに言う。彼女が昨晩ユーリに伝えた絵理沙の現状。それについて、その時にユーリに伝えていないことがあった。ユーリの情報処理能力を超える情報だと判断され、後々、と言うことになった情報だった。
「ええ。これに関しては、少し、腹立たしい部分もあるのですが」
アンジェリカは腕を組んでユーリに向かい合う。その眼はやや細められ、うすぼんやりと紅く光っていた。感情が昂っている証拠だ。
「皐月院さんの婚約者には、別に恋人がいるようで」しかも、とアンジェリカは続ける。「皐月院さんとは冷え切っているのに対して、恋人に対しては随分お熱なようで」
ユーリは思わず口元を押さえて天を仰ぐ。最悪の想定を上回ってくるんじゃないよ、と叫びたい気分だったが、叫んでもどうにもならないので抑え込む。
「だから余計アンジーが妬ましいって訳か。婚約者と仲が良くて、婚約者に他の女がついていてもその女とも仲が良いって、そんなアンジーが」
「あら? 誉め言葉はいつでも受け付けておりますよ」
「愛しているよ、アンジー。君は最高の女性だ」
「今夜が楽しみですわね」
お互い黙って見つめ合う。そうして、ごく自然と抱き合ってキスをした。甘く、お互いを味わうようなキス。唇を名残惜しそうに放すと、二人とも真顔だった。
「ユーリ、とっても心地よかったですけれど、今は現実逃避をしている場合じゃありませんわ」
「そうだね。最高の瞬間だったけど、現実逃避をしている場合じゃない」
名残惜しく離れて、再び二人で頭を抱える。
「……この場合、誰に助言を求めればいいのかしら。ゲームが得意そうなアリシア姉様? 人間関係に一家言ありそうなアリアンナ?」
「咲江さんをしれっと外したね?」
「どうせ『寝取ってしまえ』程度の事しか言いませんわ。短絡的ですが、効果的ですわね。悔しいことに」
というか、最終的にそう言うことになるのではなかろうか。絵理沙がユーリに向ける感情次第、ということもあるだろうが、この問題に首を突っ込んで絵理沙と婚約者が仲良くなってめでたしめでたし、という訳にはいかないだろう。
「ひょっとしてなんだけどさ」ユーリはアンジェリカに自身の推論を述べる。「その婚約者、皐月院家とか、家督とか、そう言うのが余り好きじゃないタイプだったりする?」
「少なくとも、革新派に属する類の人間ではありそうですわ」
ユーリは推察する。皐月院家との婚約。皐月院家がコネクションの類を喪っている以上、皐月院家に差し出せるものは家柄と血、そしてかつて皐月院家が築いたコネクションの情報しかなくなる。それを手に入れるというのは、同時に皐月院家と同じ領域に入る、いわば同じ穴の貉になるということを意味する。それは保守的な人間にとっては好ましい分類には入るかもしれないが、革新的な人間には組織を旧体制・旧世代に揺り戻す『呪い』になりうるファクターだ。その『大手企業の御曹司』は、そういうことを嫌って敢えて絵理沙から距離を置いているのかもしれない。
『貴族』という、化石化したシステム。それがどこまでも二人を縛り付けているものであった。
そうなると、彼にとっては、絵理沙そのものが呪いなのだろう。旧体制と、親と言う二つの支配から押し付けられた宿命。それに対する儚いレジスタンスが、その恋人なのかもしれない。
だとすれば。
「彼女は」ユーリは、少し険しい表情で言う。「その恋人とやらは、危ない立場にあるのかもしれない」
「少なくとも、皐月院家からはいい目で見られることはないのは確定でしょうね。同時に、それを決定した彼の両親からも」
下手をすると、命の危険も。現代日本で考えたくはない事実だが、皐月院家の影響範囲によっては十分にその可能性もある。『最悪の不測を予測しろ』とは、どこで聞いた言葉だったか。
二人で、黙り込む。学生が首を突っ込むには重すぎる問題。今ならまだ引き返せる。このまま何も見ないふりをして日常に戻ることだってできる。心に何かが詰まったような違和感は残るだろうが、それも時間が風化させるだろう。身内や自信に危険を、及ぼさずに。
アンジェリカとユーリはその選択を、選ぶことができる人間であった。
沈黙が場を支配する。
「……ユーリ」
沈黙を破るように、アンジェリカが呟く。ユーリは黙って、彼女の瞳を見つめた。
「わたくしは、アンジェリカであると同時に、ゲルラホフスカ家であり、ヴィトシャ家であり、穂高家です。だから、三家の利益と存続を考えることが、わたくしの義務であり、これまで恵まれた暮らしをできたことに対する務めである。そう考えています」
アンジェリカとユーリとの婚約は、二人の仲が大変良かったことがよかったことが始まりではある。しかし同時に、ユーリの母方の実家であるヴィトシャ家と、アンジェリカのゲルラホフスカ家の関係性を象徴するものであった。東欧での貿易に太いパイプを持ち、それぞれスラヴ圏とラテン圏にネットワークを持つ両家が本格的につながれば、二つの文化圏の架け橋たりうる。そんな思惑があるものでもあった。
だからこそ、アンジェリカは自分のうかつな行動によりこれらの関係性に修復不可能な損害を与えたいとは思っていなかった。それはユーリという彼女にとって唯一無二の翼と結び付け、縁を繋いでくれたことに対する、恩返しであり、仁義であった。
「うん。間違ってないさ」
「では問います。貴族とは、なんだと思いますの?」
ユーリに問いかけるようで、自分に問いかける質問。ユーリは、ふと、窓の外の青空を見て、再びアンジェリカに向きなおった。
この回答は、ある意味劇毒足りうる。だけど、これを飲み込んで糧としなければ、否。するような道を選ばんと、覇道を進まんとするのがアンジェリカだ。
なればこそ、進まんとする道に羽ばたくのは、翼の役割だろう。
「貴族なんて、意味はないさ」
「その心は?」
アンジェリカの表情はピクリとも動かない。ただ、ユーリの次の言葉を待っている。
「もう身分は存在しない。民を庇護する代わりに特権を与えられていた階級は存在しない。だとすれば、貴族として現代で、未来であり続けるとするならば、それは、『貴き者であること』だと思う」
だから、さ。ユーリはほほ笑む。目の前の『貴族の少女』の背中を、支えるように。
「アンジーは、自分が『貴い』と思うことを、してもいいと思う」
アンジェリカは、静かに黙した。
ユーリは彼女の反応に対して不安こそ覚えど、自身の解答に対しては疑いを持っていない。貴族だとか、家柄だとか、そう言うものの外側に常に居続けた一人の竜の言葉。
しばし目を閉じて、それからぽつり、と漏れるようにつぶやいた。
「……サタカ工業の革新派は、近年宇宙開発事業への参入を計画しておりますの」
「……宇宙か、いいね」
唐突に出た話題。アンジェリカもネットニュースで追跡している。軌道エレベーターの民間利用比率の向上と、ビジネスチャンスの到来。それに関して、あくまで地球での業務を勧めたい保守派と、宇宙開発に力を入れていきたい革新派。その対立があった。
「だからこそ、わたくしが将来宇宙研究・開発・開拓事業を進める際において、ライバルであり――ビジネスパートナーになれる可能性があります。だからこそ、その可能性を潰したくない。それに」アンジェリカは、少し恥ずかしそうな、複雑な表情を浮かべた。「絵理沙という一人の人間の可能性が、どこまで広がるのか、見届けてみたい」
それは、アンジェリカなりの『貴族』の務め。その答えであった。
人間の可能性を信じ、開き、導くさきがけ。ストラトポーズの先を目指すもの。
「僕も、同意見だ」
ユーリは即答する。アンジェリカはその言葉に、自信に満ちた笑みを浮かべてユーリに抱き着いた。
「やっぱり、貴方は最高のパートナーですわ!」
「君は、最高のパートナーだよ」
二人で抱き合う。
「ならば、せいぜい蹂躙して、何もかもぶち壊しにしてやりますわ! ドラゴンとヴァンパイアにできない事なんて、きっとありませんもの!」
そうですわね。そうアンジェリカはどこまでも不敵に嗤う。ユーリも共犯者らしく、愉快そうに笑った。
「婚約破棄作戦だ。アリシア姉さんがやってる恋愛シミュレーションゲームみたいだ」
「オペレーション・ターミネーションマリッジ、ですわ!」
婚約ターミネーターとは、物騒な名前だな、とユーリは苦笑いを浮かべた。




