26/Sub:"優先事項"
身体を、水流が舐めた。
水の抵抗は空気のそれとは違い、まるでシロップの中を泳いでいるかのように黒い競泳水着を着たユーリの身体にまとわりついてきた。それに抗いながらユーリはクロールで泳ぐ。手で水をかき分けるというよりは、腕を水に突き刺して自分の身体を押し出しているような。そんな力学的な感覚。
1、2、3、4、5。水面から横に顔を上げる。ゴーグル越しの視界を水が流れ落ちる一瞬に、塩素の臭いに満ちた空気を肺に大きく吸い込む。再び水面に顔をつけ、鼻から息を吐いていく。
壁に手が触れる。特に習ったわけではない、見様見真似のターンで反転。再び泳ぎ始める。これでラスト。ずっと泳ぎっぱなしで、流石に身体に疲労が溜まってきていた。プールの底のラインが過ぎていく。45メートル、50メートル。プールサイドに手が触れた。
「ぷはぁ」
少し上がった息で大きく肺に息を吸い込みながら、後続の邪魔にならないようにプールロープをくぐってレーンを出る。一番端のレーンにまで行くと、水中ウォーキングをしている人影がちらほらみられた。ぬるいプールの水に浸かっていたい欲求に逆らって、タラップを上がってプールから出た。プールサイドのベンチに向かうと、そこには見慣れた影。ユーリはゴーグルを外す。
「お疲れですわ」
赤い競泳水着を着たアンジェリカがベンチに座ってユーリに飲み物を差し出してきた。先程まで彼女が飲んでいたらしい水筒をユーリは受け取って、そのまま口に着ける。スポーツ用の、柔らかい樹脂製の水筒。ボトルを握って中身を絞り出すと、甘酸っぱいスポーツドリンクが口の中に溢れた。ユーリは片手で水泳キャップを取ると、水を吸った彼の髪が水滴を散らした。
「久々だよ。こんなに泳いだのは」
「あら? 以前、湖に落っこちた時に泳いだと言ってたではありませんか」
「うん、あれ以来だね」
ああいうことがある以上、泳ぐ練習、特に長距離を泳ぐ練習はしておいた方がいい。実際、今回ユーリは50メートルプールを五〇往復していた。実に5キロ。流石に身体に疲労が溜まる。
「その時は咲江に負けたのでしたっけ?」
「うん。夢の中でね。悔しくて空で自主練したらあえなく墜落、さ。酸っぱい思い出だよ」
そう苦笑いを浮かべるユーリだが、その表情は決して悪くない、と言った表情だった。
「で、その件の咲江さんは?」
ユーリがアンジェリカに尋ねる。アンジェリカが掌を上に向けて指した方向を見ると、そこには綺麗な、そして緩いストロークのクロールで泳ぎ続ける咲江の姿があった。その胸部の、『大きい』というよりは『巨大』と言っても差し支えない大きさのバルジをものともせず、ユーリとさほど変わらないペースで泳ぎ続けている。
「すごいなぁ、先生は」
「現役軍人でパイロットと張り合う貴方も大概ですわね」
ファイターパイロットもいざと言うときにベイルアウトして、それが海上だったりした場合には泳げる必要がある。それに、全身を使う必要があり、呼吸が制限される水泳はトレーニングに最適だ。
「で、どうですの?」
アンジェリカがユーリに尋ねてくる。何のこと? とユーリが不思議そうな顔を浮かべていると、アンジェリカはため息ついた。
「あれだけ何か考えているような顔で、わたくしがわからないと思いで?」
「あー、そんなに?」
「貴方の事なら、顔を一目見ればわかりますわ」
そんなにかなぁ、そう思いながらユーリは苦笑いする。自分では気にしないようにしていたけれど、傍から見れば一目瞭然であったらしい。
「悩んでいそうな表情だったから、身体でも動かしましょうか、と言うことでわざわざプールに来たのに」
「朝に急にプールに行こう、って言い出したのはそういうことだったの?」
ユーリからすれば、最近暑い日々が続いていて、トレーニングのランニングが億劫になってきたので願ったり叶ったりのタイミングではあったが。フライトも大事だが、体力をつけるための基礎トレーニングも大事だ。
「冷たい水を泳いでいれば、頭も整頓されることでしょう?」
「冷たい……冷たい、かな、うん?」
ここは、公営のスポーツ設備。県内でも珍しい大きさで、大会が開かれることもあるらしい。普段はこうして、一般に開放されていて、レーンでは小学生ほどの子供がビート板片手に泳ぎの練習をしていたり、コースの一列が水中ウォーキングに使われていたりしていた。
しかし、アンジェリカの言う通り、確かに身体を動かした後は脳がスッキリしている。悩んでいたことが、妙に整理されたような気分だった。絡まった糸がほどけたようにはっきりとしたそれを、言葉を選んで口に出す。
「皐月院さんが、さ」ユーリは、照明に照らされて輝くプールを見つめながら言った。「アンジェリカを見た時の感情が、いまだに腑に落ちないんだ」
「ほう?」
アンジェリカは、ユーリの手から水筒を取り、自分の口に運ぶ。喉を鳴らして飲み込むと、口のよこをぬぐった。
「で、その心は?」
「彼女、アンジーの事を『羨ましい』って思ってた」
「……流石に、ただ憧れているだけとは、状況的に思えませんわね」
「でしょ?」
ユーリが言うと、アンジェリカは顎に手を当てて考えだす。
期末試験の決闘騒ぎ、および縦ロール工事以降、アンジェリカと絵理沙の間は冷戦状態だ。流石に罵声を浴びせ合う、と言うことはなかったものの、お互い睨み合って足早にすれ違う程度は日常的だった。ただ、その時の、特にユーリがアンジェリカの横にいた時に彼女に向ける視線は、羨望のそれであった。
「ただ単純に、彼女がユーリに好意を抱いている、という単純なものではないでしょうね」
「うん。そういう類のものではないと思う」
第一、ユーリは絵理沙からそこまで好意を向けられているわけではない。譲歩して友人と呼べる、程度だ。思えばあのような出会いから、よくぞここまで来たものだ、と我ながら感心する。
アンジェリカは顎に当てていた手を、額に触れる。彼女としては、なんでわざわざあの女のためにここまでしなくてはいけないのか、という思いもあるが、同時にユーリが持ってきてしまったネタが歯に詰まったすじ肉のように、気になってしまうというのも事実であった。なんとか記憶を掘り起こそうとしていくと、ふと、記憶の端に引っかかった何かを思い出した。
「……『皐月院』と言う名前、どこかで聞いたことがあるような気がしますわ」
「どこで?」
「それが思い出せないのですが……」アンジェリカの眉間に皺が寄る。「ただ、ユーリとは関係ない所で聞いたような、そんな覚えが……」
本気で悩んでいるアンジェリカ。こういう彼女の様子は久々に見た。ユーリはふむん、と頷く。
「僕が関係ないとなると、ゲルラホフスカ家の、家業の関係の方かな?」
ゲルラホフスカ家は資本・投資家であると同時に、貿易業者だ。学園祭のジュースだって商品の一つであったし、日本に輸入している物品の件で日本の商社ともかかわりが深いはず。ユーリに今のところ関係がないとすると、そちらの方の話になるのではないだろうか。
「帰って、お父様に――いえ、こういう話だと、お母様の方が詳しそうですわね。聞いてみますわ。『皐月院家』について」
「ごめん。手間をかけさせるね」
ユーリが少し申し訳なさそうに言うと、アンジェリカはふん、とどこか得意げに鼻を鳴らした。
「ええ。埋め合わせは、きっちりして頂きますわ」
ユーリに再び水筒を渡しながらそう言う彼女の目は、捕食者の目をしていた。ユーリは、アンジェリカとの結婚生活は大変だろうな、とまだ見ぬ未来に対して一抹の不安を覚える。なんだか底知れぬ不安の様なものを覚えつつ、ユーリは再び水筒に口をつけた。
「ごめんなさい、お待たせ」
前から声がかかる。二人で正面を向くと、そこには黒と桃色の競泳水着を着た咲江が立っていた。角が出るタイプのスイムキャップを取って、ユーリの隣、アンジェリカの反対側に座る。塩素の臭いに混じって、甘い香りがふわりと漂う。アンジェリカが眉を顰めた。
「いいえ、そこまで待ってないです」
「そう? なら良かったわ」
優しく微笑む咲江だが、その雰囲気がどうもその母性的な笑みに、妖艶さだとか、そう言うエロティシズムさを付与している。ユーリはその雰囲気に、僅かに頬を染めると、横のアンジェリカの圧が増すのをひしひしと感じた。その様子を見ていると、ふと、面白そうな表情を浮かべると、あーあ、とわざとらしい声を上げた。
「ユーリくん、私、喉が渇いちゃったぁ」
そう言って、ひょい、とユーリの手にあった水筒を取ると、口をつける。ぷりぷりとした唇が水筒の飲み口を吸う光景は、ただの水分補給の光景にしては妙に艶めかしくて、思わずユーリはごくり、と喉を鳴らしてしまう。その間にも、咲江の喉がごく、ごく、と脈打つように嚥下のたびに動く。
ちゅぷん、と音がしたような、そんな気がするような感じで、咲江が水筒から口を放す。咲江は水筒の飲み口をユーリに向けて、はい、と差し出してくる。唾液とスポーツドリンクの混合液で、艶やかに光る飲み口に、ユーリの視線が釘付けになった。わなわなと、甘い香りに誘われて食虫植物に向かう虫のように、その水筒に口をつけ――。
「そこまでですわ!」
首の後ろを掴まれて、ぐい、と引っ張られる。ハッとユーリが正気に戻ると、そこには少し残念そうな表情を浮かべる咲江の姿があった。
「あら? 邪魔されちゃった」
「わたくしの目の紅いうちに、ユーリを表で食べさせませんわ……!」
がるる、と咲江を威嚇するアンジェリカに、咲江は余裕綽々といった態度で立ち上がると、先に上がってるわね、とシャワーの方に向けて歩いて行った。アンジェリカも続いて立ち上がるが、相変わらず咲江を睨みつけている。
「アンジー。思うんだけどさ」ユーリは、そんなアンジェリカに対して尋ねる。「アンナが良くて、咲江さんは何が駄目なの?」
すると、キッ、と。咲江を睨んでいた視線そのままでアンジェリカがユーリに振り向く。
「ユーリにどれほど女がつこうと構いませんが」アンジェリカが、ずい、とユーリに顔を寄せる。「一番はわたくし。それは決定事項ですわ」
「……こういうある意味ただれた関係になっちゃって、やっぱり一番とか順位をつけるのは良くない気もするけど」ユーリはアンジェリカを真っすぐ見返しながら言う。「僕は何があっても、君の隣にいるよ」
その回答に満足行ったのか、それでひとまずは納得したのか。アンジェリカはユーリの金色の瞳を見据えていると、力を抜いてユーリから顔を離した。
「まぁいいでしょう」
そう言うと、ずんずんと咲江の跡を追ってプールサイドを歩いていった。
その場に一人残されるユーリ。ふと、ベンチに水筒が置かれたままなのに気付く。アンジェリカが、ユーリが、咲江がかわるがわる口につけた水筒。ユーリはそれを手に取る。
喉は、まだ乾いていた。
「……」
水筒に口をつけた。甘酸っぱいスポーツドリンクが流れ込んでくる中、なんだか甘い味が混ざっているような、そんな気がした。




