24/Sub:"寝落ち"
アリシア姉さんの所属している部だ、とユーリが思っていると、アンジェリカがドアを開ける。ドアからはふわりと、心地の良い甘い匂いが漂ってきて、それに思わずユーリは困惑する。
「あらいらっしゃい」
中では、エプロン姿のアリシアとアリアンナが待っていた。
応接間ほどのスペース――元は本当にそうだったので当たり前だが――の部屋が広がっている。奥の窓際にはカーテンがかけられ、その前には古いPCが二台、デスクと共に並べられている。手前には年季の入ったソファーがテーブルを挟んで一対。本棚に所狭しに並べられたプログラミングやアートデザイン、3Dモデリングの本に、数々のレトロゲームの数々。急遽テーブルから降ろしたのだろうか、部屋の隅に寄せられていたゲーム機とモニターは、丁寧に扱っているのだろう、古いながらも掃除が行き届いていた。
怪訝な表情を浮かべる絵理沙。
「こんなところに連れてきて、一体なんのおつもりですの?」
あくまでも強気にアンジェリカに向かって言うが、アンジェリカはそんな程度の強がりは意に介さず、あくまでも勝者の余裕をもってして絵理沙に語り掛ける。
「まぁ皐月院さん? ひとまずお茶でもいかがかしら。なにしろ、とてもお疲れの様でして」
アンジェリカがそう言うと、アリアンナが二人分のティーカップを置き、そこに茶を注ぐ。甘い、いくつかのハーブを調合したと思われる香りがふわりと立ち上り、部室の中が心地よい香りに満たされた。どこか嗅ぎ覚えのある匂いに、ユーリは小さく首を傾げた。
「お気遣いは結構。早く要求を言いなさいな」
「あら? わたくし、事を急くのはあまり好きではなくてよ。それとも、情けをかけられた身分でこれ以上不満がおありで?」
そう言ってアンジェリカは優雅に席に足を組んで着くと、注がれたハーブティーを飲み始めた。それに、絵理沙は困惑と怒りの混じった表情を浮かべながら、絵理沙も席に着いた。ソファーは彼女が想像した以上に柔らかく、彼女の重みを受けて身体に合わせて沈み込む。柔らかい感触が身体の後ろ半分を包み込み、その下からじんわりと熱が伝わってくる。
「……温かいですわ」
「あぁ、さっきまでボクが座ってたからかなぁ」
疑うような口調でつぶやく絵理沙に、すっとぼけたようにアリアンナが返した。絵理沙はじっとりとした目線を彼女に向けるが、アリアンナはどこ吹く風、と言わんばかりの態度で返す。絵理沙はため息をつくと、テーブルの上のハーブティーに目を向けた。
白い、洒落たティーカップに入れられたそれは、かすかに湯気を立てて甘い香りを室内に振りまき続けている。
「心配なさらなくとも、何も入れてませんわよ。牛乳と蜂蜜が苦手と言うなら、話は別ですが」
絵理沙の心を見透かしたかのようにアンジェリカが言う。そう言いながら彼女は余裕綽々と言った態度で、ミルクティーを啜った。
「それが、『要求』ですの?」
「あら。それはいいですわね。ではわたくしの要求は、『貴女と茶会をする』と言うことでいかがかしら?」
「……構いませんわ」
絵理沙がそう言った直後、アンジェリカの目元に小さく笑みが浮かぶのを、ユーリは見逃さなかった。思わず何か言いかけようとした瞬間、一瞬でユーリの後ろに移動してきたアリアンナが音もなくユーリの口を塞ぐ。抗議の眼差しを後ろのアリアンナに向けるが、彼女はただただ愉快そうな表情を浮かべるのみだ。
恐る恐る、絵理沙がハーブティーに口をつける。ふわりとハーブの華やかな、落ち着いた香りがまず口の中で膨らむ。蜂蜜の甘みと、ミルクの柔らかさが口の中を優しく包む中、思わずほぅ、と絵理沙は息をついた。想像以上に美味しい。
そんな彼女の様子を見ていたアンジェリカが口元の笑みを消さずに絵理沙に言う。
「美味しい、でしょうね」彼女は静かにテーブルにカップを置く。「ユーリのスペシャルブレンドですもの」
自分にいきなり話題が移ってきたことにぎょっとするも、絵理沙がどこかぎこちなくユーリの方を振り向いた。
「お、美味しいですわ。穂高君」
「それは、どうも」
どのハーブティーか、ユーリは必死に記憶を遡るが、該当するものをなかなか思い出せない。そうこうしているうちに、さて、とアンジェリカが話し出す。
「この間の事なのですが――」
そうして口から出てきた話の内容に、ユーリは驚くことになる。
中身が、まったく無い話だったのだ。
「昨日、スーパーで買った桃が甘くて美味しかったのですのよ」
「……それは、良かったですわね」
絵理沙がかろうじて返事を返すものの、ほぼほぼ相槌を打っているだけに等しい会話。中身のない、返答を必要としないような『会話』を、妙な抑揚をつけて一方的に話し続ける。おかしい、こういう会話をする人物ではなかったはず。ユーリはアンジェリカに怪訝な表情を向けるが、本人の口元のわずかな笑みは消えていない。どうやら何かを企んでいるようではあるが、それが何なのか、相変わらずつかめない。
そうこうしているうちに、異変は絵理沙に訪れた。
「……」
うつら、うつら、と。頭が揺れる。メトロノームのように、小さく左右に。シーソーのように、小さく前後に。舟をこぐとはよく言ったものだが、ユーリにはそれが鹿威しのようにも見えた。アンジェリカの口元が歪むが、中身のない話はやめない。
そうして、その時は来た。ぐらり、と傾いた絵理沙の上半身。ユーリが弾かれたように動き、横から抱きとめる。そうしてそのままゆっくりとソファーに横にすると、すぅ、すぅ、と規則正しく息をして寝始めた。
すっ、とアンジェリカが静かに立つ。困惑した表情をユーリが浮かべていると、彼女は静かにガッツポーズを取る。何やら嫌な予感がしつつ、ユーリがそっと絵理沙の足を持ち上げてソファーに横にさせると、アンジェリカが静かな声で話しかけてきた。
「やりましたわ!」
小声だが、喜悦に溢れたその言葉。どうやら初めからこれを狙っていたらしい。
「何をしたんだよアンジー……!」
思わず、寝ている絵理沙を起こすまいと小声でアンジェリカに詰め寄るユーリ。それに対して彼女は、心配いりませんわ、と返す。
「カモミール、バレリアン、リンデンフラワー。貴方に教えてもらったブレンドですわよ」
どれも鎮静効果があり、甘い香りで、ブレンドに向くハーブ。それを使って『一服盛った』らしい。そこに非合法の要素は一切ない。
「それにしたって、こんなにスッと眠るなんて……」
ユーリがすぅすぅと寝息を立てる絵理沙を見ながらつぶやくと、アンジェリカはどこか優しそうな表情でつぶやく。
「ええ。だってこんなに疲れているなんて、わたくしもこうして面するまで予想すらつきませんでしたもの」
嬉しい誤算ですわ、と言うアンジェリカに、ユーリは苦笑いを浮かべた。
「それにしたって、じゃないか?」
「ええ。鎮静効果のあるハーブティーにミルクと蜂蜜で血糖値と体温を上げ、ゲーム用の柔らかいソファーを温めておき、中身のない話をわざと揺らぎをつけて話すことで眠気を誘う。想定以上の効果でしたわ」
流石に脱帽だった。ユーリは頭が痛くなりそうだった。
「まぁ、これで本来の目的を果たせますわ」
お姉さま。そうアンジェリカが小声で言うと、アリシアがはいはい、と静かにバッグの中を出し始める。何が始まるのだろうか。一線を越えたりはしないだろうが、合法的に一服盛ったアンジェリカの事だ。何をするかは予測ができない。いざと言うときにはアンジェリカを止める――のは厳しそうなので、絵理沙を抱えて現場から逃走する覚悟はしておいた方がよさそうだ。
「それでもって、アリシア姉さんは何を」
「まぁまぁ見てなさい」
そう言ってアリシアがバッグから出したのは、数々のヘアスタイル用品。ヘアアイロンやら霧吹きやら櫛やら、普段ユーリは気にもかけないような数々の品物が並べられ、美容院さながらだ。
「念のため聞いておくけど、さ」てきぱきと、そして静かに準備を進めるアリシアにユーリは問いかける。「何をするのか、参考にお聞きしても?」
「ユーリ」
代わりに答えたのは、アンジェリカだった。彼女は先程までとは打って変わって、邪悪な笑みを隠さずに浮かべている。
「悪役令嬢にふさわしいものは、なんだと思いまして?」
いきなり来た突拍子もない質問に、ユーリは『アンジェリカの事?』と言いかけ、それを飲み込んで答える。
「……高笑い、とか?」
「いいえ、ユーリ。それでは不十分。悪役令嬢を悪役令嬢たらしめるもの」
そう言って、アンジェリカはアリシアの髪に触れる。丁寧にロールにされた、アリシアのツインテール。
「まさか……」
「ねえユーリ、わたくし、皐月院さんの事を明日から『シールドマシン』って呼ぼうと思うのだけど、いかがかしら?」
つまり、アンジェリカは絵理沙のことを、一八世紀ヨーロッパに出しても恥ずかしくない縦ロールヘアへと、魔改造する気であるらしい。ユーリの心中で、イジェクトハンドルに思わず手がかかる。そんなユーリの様子を見て、アリシアが大丈夫よ、と小声で言う。
「本格的なことはしないわよ。一回風呂に入れば落ち着くような、簡単なものだから。霧吹きとアイロンだけの、ね」
安心させるように言うアリシアだが、ユーリとしては気が気ではない。いつでも緊急脱出できるようにしながら身体をこわばらせようとしていると、後ろからアリアンナが抱き着いてくる。一回り大きな彼女にがっしりとホールドされて、身動きが取れなくなる。甘い香りと、彼女の柔らかい感触。
「ユーリ兄さんは、ここで大人しくボクと見学だよ?」
その声には、ユーリが絵理沙を起こそうとしたらその口を塞ぐ、とでも言いたげな意思が込められていた。
そうこうしているうちに、ゆっくりとアリシアが絵理沙を引き起こし、その上からカットケープを被せる。ここまでしても起きないところを見るに、本当に熟睡しているようだ。
「さて……御開帳ですわぁ……!」
小声でアンジェリカが呟く。ユーリは見てられない、と言わんばかりに顔を覆い、そんな様子にアリシアが苦笑いを浮かべる。
今回の件は、少しばかりだがアリシアの、個人的な恨みも入っていた。ゲーム部の予算を答弁の機会無く削減されたこと。そのために3Dモデル作成ソフトの導入を諦めざるを得なかったこと。それに対する、ささやかな復讐でもあった。ならばせめて、自分と同じ『縦ロール族』に入ってもらう。
そっと絵理沙の、頭の上できつくシニョンに結われている髪を解く。彼女の、金糸の様な髪が流れ落ち――。
「これは……」
「あら……」
「わあ」
驚きの声がアリシアとアンジェリカ、アリアンナから上がる。ユーリが恐る恐る手をどけると、そこに広がっていた光景に、思わず変な息が出る。
ほどけた絵理沙の髪。それはものの見事な、癖っ毛であったのだった。
控えめに言えばウェーブヘア。言葉を飾らずに言うならば海藻。
「これは……」
女子なら誰もが顔を覆いたくなるような光景に、思わず一同、静まり返る。アリシアもささやかな復讐の事なんて頭から吹き飛んでいたし、アンジェリカも要求のことをすっかり失念するほどの衝撃。
しばらくの沈黙。意を決して言葉を発したのは、アリシアだった。
「……やってやろうじゃない!」
その瞳には、ただ女子の、縦ロール族の意地が込められていた。




