22/Sub:"炎天下"
途中で保険医が入ってきて脈拍や体温、呼吸を診る。ユーリが冷却しているので体温は問題ないし、先程意識がはっきりしていたことや、自分で水を飲めるような状態だったことを鑑みるに、本当に寝不足と疲労によるものだったらしい。とはいえ、あのまま炎天下で倒れたままだったら本当に熱中症になっていただろうし、運んでくる最中にドラゴンブレスで冷却していたのも功を奏したようだ。
保険医に、家までついていくように言われる。万一のことを考えると、また下校途中に倒れる可能性を考慮しての事らしい。そこまでか、とも思ったが、理屈は通っている。ユーリは分かりました、と静かに返した。保険医は何か異変があったりしたら言うように、とだけ伝えると、出ていった。
撫でるのは流石に気まずかったのでやめたが、一応冷却は続ける。先程までの強さではない。熱を出した時に使う冷却シールを貼っている程度だ。このあたりはアンジェリカにやったりしているので慣れたものだ。
手持無沙汰なので、鞄から本を取り出す。出てきたのは気象学の学術書で、研究の手伝いに行っている研究室の教授が『大学生向けだが、君にもわかるはず。わからなければ聞いてくれ』と言って貸してくれたものだ。試験勉強のため読むのを止めてはいたが、なるほど、内容は確かにユーリでもギリギリ理解できた。
静かにページをめくっていく。メソ気象学。積乱雲の発達やウィンドシアの項目を見つけて、ユーリの視線がふと止まる。これからの季節で気をつけなければいけない気象現象だ。飛行中にガストフロントに出くわしでもしたら、流石のユーリも危険だ。それだけじゃなく、それから発生する水平・垂直ウィンドシアも飛行中に気に掛けるべきことだろう。
しかし、こうして見るとやはり気象は空を飛ぶのに知っておくべきことだというのを――もちろん以前から知ってはいたがそれはそれとして改めて――実感する。竜ですらいとも容易く空から引きずり下ろすことができる現象が空には満ちている。それらを知らずして空に上がるのは、勇敢ではなく、ただの無謀だ。そして大抵、死神は無謀の隣人だ。
『ルールを破る前に、ルールの理由をよく知っておくべきだ。でなければ、次のルールを書くのはお前の血である』とは、咲江に言われた言葉だった。空を飛ぶためには様々なルールがある。そしてそれらは血で書かれているというのは、航空業界では常識と言ってもいい。空とは、本来死の領域なのだ。
さて。
ユーリはストラトポーズに、そしてその先へと飛びたいと思っている。なればこそ、気象学だけではなく、その先の学問にも興味が出てくるというものだった。天体物理学、軌道力学、宇宙工学、天文学。ユーリが本のページをめくり、新しい知識を得るたびにそう言った欲が湧いてくる。先へ、もっと先へ。
そんなユーリの思考は、唐突に聞こえてきた小さなうめき声で中断させられた。思わずその声の方向――ベッドの方を見ると、絵理沙が眠そうな眼をこすって上体を起こした。
「私……倒れて、保健室に運ばれて……」
「寝不足気味だったんだ。少しは休んだ方がいい」
保険医を呼んでくる、と言って席を立つ。何か言いたげな絵理沙の視線を背中に感じながらユーリはカーテンから顔を出して保険医を呼ぶ。保険医がカーテンに入ってきて、腕で血圧と脈拍を測ったり体温を診たりする。
「異常なし」
帰っていい。そう言う保険医が、ユーリに家まで付いていくように言う。絵理沙はぎょっとした顔でユーリの方を向くが、ユーリが小さく肩をすくめると、ため息をついて頷いた。
「失礼しました」
「お世話になりましたわ」
保険医の、熱中症に気を付けるように、との言葉を投げかけられながら外に出る。絵理沙の靴もユーリの靴も、炎天下の外に置いていたせいで熱を帯びていた。冬なら有難いが、夏だと不愉快でしかなかった。靴の中の湿度が消えているのが唯一の救いだった。
「帰って構いません」
「そうはいかない。保険医さんにも君を送り届けるように言われている」
校門を出たところで、絵理沙がユーリに言ってくるが、ユーリは断として譲らない。ユーリの目には、まだかすかにふらつく絵理沙の体軸が見えた。このまま一人で帰したら倒れる可能性があるのは目に見えている。保険医もそれを見越して言ったのが分かっていた。
「心配しなくとも、平気ですわ!」
「少なくとも、君よりは僕や保険医さんの方が君の体調は把握できてるよ」
なんせ、君を応急処置しながら背負って保健室まで送り届けたからね。そう言うと、絵理沙はぐ、と押し黙った。しばしユーリを睨みつけていたが、黙って振り返り、歩き始める。どうやら認めてくれたらしい。バッグを持つよ、と提案したが、断られたのでユーリはその通りにした。
二人無言で、住宅街を歩く。絵理沙は早歩きでユーリを時折引き離そうとするが、体幹も整っていない彼女と、鍛えていて体幹もしっかりしているユーリにそれはかなわず、ぴったりと付かれ続けた。ユーリを引き離せず、ぜぇぜぇと息があがってくると、夏の暑さが疲労困憊の身体に染み付いてきて絵理沙の足が覚束なくなる。もつれる足。
「危ない」
絵理沙が悲鳴を上げて倒れる前に、さっとユーリが彼女を支えた。すぐに冷気が彼女を覆い、それに絵理沙がユーリの方を振り向くと彼の瞳が金色に輝いていた。すぐにそれがユーリの能力と理解する。
「送って正解だったね」
「それは貴方がっ」
貴方がついてきたから。そう言いかけて口ごもった。体調は良好と宣ったのに、ふらついて足をもつれさせて転びかけた。それが余りにも無様で、何も言い返せなくなる。ユーリは絵理沙を立たせると、持つよ、と言って絵理沙の鞄を持つ。彼女は、今度は何も言い返さなかった。
二人で無言のまま住宅街を歩く。始めは見慣れた風景だったが、そのうちユーリが来たことのない街の区画に入ってきて、脳内で空から見た景色と周囲の風景を一致させようとした。
そうしているうちに、和風の塀で覆われた屋敷が目に入ってくる。その塀にユーリは見覚えがあった。築地塀。こちらもある意味『曰くつき』であるユーリの実家の屋敷にも同じような塀があったのですぐに分かった。
だが、なんだかユーリの実家のそれに比べて、風化しているような、手入れが行き届いていないような、そんな気配を感じた。それが妙な重圧を放つその向こうの屋敷との落差に、なんだか釣り合っていないような違和感を覚える。
「っ……!」
絵理沙がはっと息を呑む。ユーリが視線の先をたどると、屋敷の門前に停まっている一台の黒い車。ドアが開くと、明らかに普通の車よりもドアが分厚い。両親のそれや咲江の車で見た特徴をさらに増したもの。分厚い防弾仕様だ、とユーリが思っていると、その中から一人の、着物を着た老人が降りてくる。絵理沙の身体の震えが増した。
だが、ユーリの抱いた感覚は妙なものだった。その老人がこつ、こつ、と杖を突きながら歩いてくるにつれ絵理沙の震えが大きくなるのに対して、ユーリの感情はどんどん冷静になっていく。彼女にとっておそらくは老人は畏怖すべき対象なのだろうが、ユーリから見ると、老人は――。
「絵理沙」しわがれた声で老人が口を開く。「帰りが、遅いぞ」
「……申し訳ありません。御爺様」
震えながら頭を下げる絵理沙に、ユーリは初めまして、と頭を下げる。
「同級生の穂高です。『道でたまたま会ったので、ここまでついてきました』」
息をするように嘘をついた。何となく、この様子から『絵理沙が倒れた』とか、『保険医についていくように言われた』などと言えば、絵理沙に迷惑がかかりそうだと判断したからだった。そんなユーリを、老人はぎらついた眼でねめつけるように見つめる。ユーリは無感情にそれを見つめ返した。悪意を持った目線に対する手段は、生憎慣れていた。
「穂高、穂高か……随分と、人外の血筋は育ちもいいと見える」
「お褒めに預かり光栄です。他人に欲することを他人に施せ、と教わりましたので」
「……ふん、まあいい」
ユーリの返答に、それだけ言うと、老人――絵理沙の祖父は、振り向いて屋敷の中へ消えていった。祖父が消えたところで、絵理沙が頭を上げた。
「絵理沙さん」ユーリは鞄を手渡す。「またね」
「……ええ、さようなら、ユーリ君」
バッグを受け取った絵理沙はそう短く言うと、ユーリに背を向けて屋敷の中へと消えていった。
一人、ポツンと取り残されるユーリ。はぁ、と小さくため息をつくと、踵を返して元来た道を歩き出す。不本意ではあったし興味もなかったが、妙な収穫と言えるだろう。皐月院絵理沙の家と、彼女の家庭環境と言うのは。
炎天下の道を、淡く白煙をたなびかせながら歩く。ユーリの冷気のせいで発生する白煙は、すぐに灼熱に満ちた外気に触れて消える。そうして絵理沙の家が見えなくなってしばらくしたところで、ぽつりとユーリはつぶやいた。
「それにしても」
思い出すのは、絵理沙の祖父。
彼の態度から感じたのは、高慢などではなく、純粋な警戒だった。
ユーリのようなただの子供を、明確に脅威として見ている。防弾仕様の車も、高硬度合金や炭素結晶素材なんかを用いればもっと薄くできるはずの装甲が、あそこまで分厚いとなるとロケットランチャーでも防げるだろう。だが、現代の日本でそんな存在はいない。
「あの人は、何をそんなに怖がってるのかな……」
考えが口からぽつりと漏れる。警戒の奥にあったのは、まぎれもない恐怖の感情。自分で気づいているかどうかまでは分からない。だが、彼を動かしているのは紛れもないそれ。
あくまですべて勘で、単なる憶測に過ぎない仮説。だが、どうもその考えが頭から離れてくれない。
帰ったら、アンジェリカに聞いてみようか。
炎天下。ユーリは家路を急ぐ。




