21/Sub:"熱中"
光陰矢の如しとはよく言ったもので、期末試験の日はあっという間にやってきた。いつもとは違い、どこか張り詰めたような空気が漂う校舎内は、ユーリにはどこか好きになれなかった。しかし、だらだらと三日間にわたって続いた試験も、これで最後だった。最も、それのせいかより一層空気が張り詰めているような、そんな気配を感じる。
ぼんやりと自分の席で、問題用紙と答案用紙が回ってくるのを待つ。皆がピリピリとした雰囲気でそれを受け取る中、ユーリはそれを何の気なしに後ろに回す。結局のところ、最終的な目標に至るまでの過程におけるチェックポイントであり、期末試験というのはそれ以上でもそれ以下でもない。所謂『赤点』を取ってしまったら補講などのペナルティがあるが、あくまで最終目的をはき違えてはいけないだろう。学習して得た知識を人生に活かせなければ意味がないし、活かせないような勉強は時間の無駄だ。
教師から指示がある。解答用紙に名前を書く。『穂高 有理』の文字をすらすらと書いていると、周囲の緊張感が増すのがはっきりと分かった。試験が始まるまでの過程を一つ一つ踏んでいくにしたがって、周囲の空気がどんどん張り詰めていく。
始め。教師の合図とともに問題用紙をひっくり返し、問題を解き始める。答えを思い出す過程で、アンジェリカ達と勉強してきた光景が連想するように想起した。無理やり答えを思い出している感覚とは違う、ごく自然に口から出てくるような、そんな感覚で解答欄を埋めていった。
――ふむ。
意外と早く解答が終わってしまった。空欄はないし、自信を持ってそうだと言える解答をすることができたと思う。ざっと見直しをするが、解答欄を間違えているとか、解答用紙に裏があって解いていなかった、などのミスもない。
勉強とは結果ではなく課程である。これは、両親や咲江、大学の教授や研究生、そしてアンジェリカ達から学んだ末の結論である。彼らから学ぶことがなければこうはなれなかっただろうし、勉強もせず、ただ空のことだけを考えていただろう。それが変わったのは『その先を目指す』という明確なゴールができたからに他ならない。ストラトポーズの向こう。
それにしても、暇だ。あまり周囲をじろじろと見まわす訳にもいかないので、唯一の情報源である問題用紙の問題文の内容を眺める。ふと、この問題文を考えるというのはなかなか大変な作業なのでは、と言う発想に至った。ユーリが飛行部の部員に時々行っているトレーニング。もちろんやっていることは大きく違うが、根本的な概念には共通するものもあるだろう。教える側と教えられる側。その両方の境界にまさに今自分は立っているのだ、と妙な実感を覚えた。
そんなことをしばらく考えていると、すぐに時間は過ぎ、試験終了まで残り一〇分のアラームが鳴る。おや、と思って最後にもう一度答案を見直しておく。頭の中で音楽のリズムを流しながら試験終了を待っていると、丁度二曲目が終わったところで試験終了のアラームが響いた。
悲喜こもごもの表情をした生徒たちに混じって答案用紙を前に回す。後ろから回ってきた答案用紙に自分の物を重ね、前に回すと前の生徒がユーリの解答を見てビクリと肩を震わせた。心なしか小さくなった背の向こうに、自分の解答を含んだ紙束が流れていくのを見送った。
これで試験は全て終了。残すところは現代文と世界史のレポートを残すのみだ。そちらは期間が多少あるので、慌てて変なものを書く必要もないだろう。教室の空気も解放感に満ちていて、安堵の息があちこちから聞こえてくる。
教師が解答を持って出ていって少しすると、クラス担任が入ってくる。ホームルームを終えると、まるで解放されたかのように全員が教室からぞろぞろと出ていく。ユーリは一息つくと、窓の外に目を向けた。梅雨前線が北上し、抜けた空は太平洋高気圧に覆われた夏の空が広がっていて、質量を持っているような暑さが外気を包んでいる。圏界面の高度もかなり上がっている。もう36,000フィート近いだろう。
「ユーリ」
ユーリを呼ぶ声に、それにすぐに振り向く。そこには腕を組んだアンジェリカが立っていた。
「折角午前中で終わったのですから、早く帰りませんこと?」
「それもそうか」
ユーリは手早く荷物を纏めると、立ち上がる。授業がないので教科書やノートをほとんど持ってきていない関係上、鞄はとても軽かった。
「出来はどうでした?」
「うん。まあ納得は行くと思う」
校舎の中を二人で歩く。まだ試験中の教室もあるので、小さな、二人だけで聞こえる程度の声量で話す。そういったエリアも抜けて、校舎を下駄箱に向けて歩く。下駄箱で靴を履き替えて、外に出るとぞろぞろと生気を失ったような見た目の生徒が校門に向けて歩いていた。外の空気はむわりと暑く。湿度と日射と同時に身体を全力で蒸し焼きにしてきているように感じられた。夏の空気。
「アンジーはどうだったのさ」
ユーリがそう尋ねると、自信に満ちた笑みを彼女は浮かべる。
「当然、満点ですわ!」
「すごい自信だね」
「ユーリ達に教えてもらったのですもの。満点を取らねば、不作法と言うものですわ!」
ふふん、と鼻息を鳴らすアンジェリカに、ユーリは苦笑いで返す。こう言って本当に満点を取ってくるタイプだ、アンジェリカは。彼にはこれまでの付き合いから、彼女の性質をよく理解していた。
「じゃああとは、レポート課題だけだね」
「それに関しては、ゆっくりとさせていただくことにしますわ」
「まぁ、草案はもう纏まってるけどね」
あとは実際に執筆するだけだ。
「ん?」
前を向いたユーリの視界に、小さな金色が目に飛び込んでくる。ユーリに一瞬遅れて、アンジェリカもそれに気づいた。
「あれは……」
アンジェリカが小さくつぶやく。そこには、下校途中なのだろうか。歩道を歩く絵理沙の姿があった。だが、その身体が、揺れている。右に、左に。振り子のように揺れているそれを認識した時に、ユーリは駆け出していた。
絵理沙の身体が大きく揺れ、そしてバランスを崩し、転倒する。だがその直前に、ユーリはわきの下に腕をくぐらせ、絵理沙の身体を後ろから抱きかかえた。絵理沙がユーリの感触に気付く。
「あ……ゆーり、くん……」
「その様子だと歩いて帰るのは厳しそうだね。学校まで送るよ」
「私は、大丈夫……ですわ……」
「うん、だからこれは、お節介だ」
その眼はどこか虚ろで、化粧で隠しているようだが、それでも隠せないほどの隈が目の下にできていた。どうやら、かなり重症らしい。何か言いたげにパクパクと口を開くが、ユーリが身体を支えていることにより、身体の力が抜けたのか、それをきっかけにしてすぅ、と眼を閉じた。規則正しい寝息。ユーリは二人分の鞄を腕に通すと背中に絵理沙を慣れた手つきで背負った。
アンジェリカが、何とも言えない表情でユーリの事を見ていた。それに気づいたユーリは、少しわざとらしく言った。
「アンジーはさ」ユーリはどこかニヒルに笑った。「スポーツマンシップって言葉は、好きかな?」
「良いでしょう」
先に帰っていますわ。そう言ってユーリの横を通り抜け、通り抜けざまにユーリの鞄を持っていくアンジェリカ。帰ったら何か埋め合わせをするよ。そう背中に声をかけ、返事を待たずに歩き出す。向かう先は、学校の保健室。熱中症の恐れもあるので、一応ドラゴンブレスを放出し、わきの下や太ももの内側から、身体全体を冷却していく。ユーリの周囲に薄く白煙が出、絵理沙が寒さからぶるりと震えた。冷却をつづけたまま、学校への道を戻る。
保健室には校庭から入るための入り口がついている。絵理沙を背負ったまま、失礼します、と声をかけてから足で器用にドアを開けると、また君か、と言わんばかりの視線でユーリを見てきた。
「外で皐月院さんが倒れていました」
「冷却は? 意識はあるの?」
「応答はしっかりしていました。今意識はありません。冷却は既にしてあります。脈拍と呼吸に特に異常はないです。」
「なら、急いで救急車を――」
「――その、ひつようは、ありませんわ」
そこまで保険医が言ったところで、絵理沙がユーリの背中で目を覚ます。保健室に入ったユーリがそっと彼女をベッドに降ろすと、保険医が経口補水液を持ってくる。それを絵理沙は力なく受け取ると、んく、んく、と小さく喉を鳴らしてゆっくり飲み始めた。
「しばらく、ベッドに寝ていなさい」
保険医が言う。
「……心配は、ご無用ですわ。家に帰らせて頂きます」
「それを判断するのは貴方じゃないの。ベッドに寝ていなさい」
有無を言わせぬ保険医の圧力に、絵理沙は黙って従う。失礼します、と保健室に入室してくる生徒。どうやら怪我をしているのか、そちらの方とユーリを何度か見やった保険医は、ユーリから漂っている白煙に気付き、ユーリに言った。
「君。悪いけど、冷却ができるなら彼女を冷やし続けてあげて。様子がおかしかったら、すぐに言って」
「わかりました」
飲み終えた経口補水液のボトルを回収してベッド周りのカーテンを閉める。ユーリはそっと絵理沙の両肩を押してベッドに寝かせる。彼女はほとんど抵抗する余力もないようで、素直にベッドに横になる。ユーリがそっと額に手を当ててドラゴンブレスを放出すると、一瞬びくりと身体を震わせるが、すぐにどこか心地よさそうな表情に変わる。
「涼しいですわ」
「それは良かった」
ユーリの指に触れる彼女の髪はさらさらと柔らかい。
「ねぇ」絵理沙は、自分の額に触れるユーリに言う。「どうして、こんなことを?」
「言っただろう? ただの自己満足さ」
ユーリはぶっきらぼうに言う。そうやって額を撫でてやると、先程までの疲れ表情が薄れていき、ゆっくりと瞳を閉じた。そして聞こえてくるのは規則正しい寝息。どうやら本当に寝不足らしい。
しばらくしていると保険医が入ってきて、絵理沙の様子を見る。口元に耳を寄せて呼吸を聞いたり、手首に指をあてて脈を測ったりして異常がないことを確認すると、安心したように息をついた。
「君。悪いけど、病院に運ぶときのために回復するまではここに居て」
「了解」
ユーリは絵理沙の額に手を当てつつ、ゆっくりと冷却は続ける。どこか心地よさそうな寝息を立てて眠る絵理沙。なんだか手持無沙汰になって、冷却は続けたままであるが絵理沙の額に当てていた手でゆっくりと絵理沙の頭を撫でてやる。彼女の髪はさらさらで、翼の表面を整流として流れる気流の様であった。
そうやって絵理沙の頭を柔らかく撫でてやっていると、小さく彼女の唇が震えた。ん? とユーリがそれに気づくと、彼女の目尻から雫が一つ、つぅ、と流れた。
「おば……あ……ちゃん……」
震えるような声で漏らしたその一言。ユーリの耳にも聞こえたその言葉。
ユーリは一瞬いたたまれない表情を浮かべるも、小さく息をつくとただ彼女の頭を優しく撫で続けていた。




