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青春と幻想のストラトポーズ  作者: 失木 各人
04/Chapter:"2070年お嬢様の旅"
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18/Sub:"匂い"

 雨が降っていた。

 梅雨前線の活動は最盛期を迎えており、大気に含む大量の水蒸気が雨となって地上へと還っていく。曇天の向こうに広がっているはずの成層圏の群青は遠く、図書室の端の空が良く見える席で、ユーリは崩れ落ちてきそうな灰色の空を前にため息をついた。ドラゴンブレスの混じったため息は、空気中の水蒸気を凝結させてキラキラと照明の光を反射してきらめくダイヤモンドダストの滝を作った。


「うわ、すっごい煙」


 アリアンナがユーリの吐き出したため息の滝を見て呟く。大気中の水分は飽和まであまり猶予がないらしく、図書室のエアコンは除湿に設定されていて流入してくる怒涛のごとく水蒸気に対して儚いレジスタンスを試みていた。そんなことはつゆ知らず、ユーリは手元のノートの『Average』という単語を何度も何度もなぞっていた。


「それ、意味あるの?」


 アリアンナがユーリに聞いてくると、ユーリはげんなりとした表情でペンを置き、消しゴムを手に取った。


「ノートを汚すことと、シャープペンシルの芯を削ること。それと、気晴らし」


 彼がうんざりした表情で消しゴムをかけるものの、ノートに刻んだ『Average』の筆跡はなかなか落ちず、光沢のあるかすかな溝となってそこに残り続けていた。その上にユーリは『Irregular』の文字を上書きする。英語のテストの準備は順調だった。

 アンジェリカ達と立てた試験勉強の計画は驚くほどスムーズだ。ユーリは教える側に立つことに緊張と不安はあったものの、飛行を教えた時と同じ感覚を掴むとスムーズになった。『相手が何をわかっていないかをわかること』。それが重要なのだと、ユーリは二つの経験を通して理解した。


「アンナはどう?」

「どう、って?」


 アリアンナが小さく首を傾げた。


「いいや、一年とは言え上級生の勉強を教えるってこと」


 ユーリが言うと、それかぁ、とアリアンナは腑に落ちたような表情を浮かべた。


「正直、少し楽観視、してたかな」


 そう語るアリアンナの表情は普段の彼女らしからぬ、自信なさげな表情の物だった。それに対し、ユーリはあくまで淡々と答える。


「まぁ、仕方ないさ。誰だって急に高高度に上昇できるわけじゃない。フラップを畳んで、推力を増して。それで初めて、高高度に上昇できるんだ。焦る必要はないよ」

「何それ、ジョーク?」

「アビエイタージョークだ」


 ユーリが大真面目な顔で言うと、彼女は小さく噴き出した。ユーリはともあれ、と指で器用にペンを回す。


「一番頑張るべきなのはアンジーだし、文の読み方とか、文法の基礎とか、そういう本質的な所を教えてくれるだけでありがたいよ、アンナ」

「……ありがとう、兄さん」

「気にしないで。みんな同じさ」


 ユーリは参考書を開く。ユーリの担当教科は地学と物理だが、アリシアから教わった英語もしっかり復習しておきたい。こうしてしっかり彼女から勉強を教わってみると、なるほど、家では駄目な姿を晒している機会の多い彼女ではあるが、アンジェリカとアリアンナの姉なのだな、と改めて実感させられる。

 英単語の羅列を見ていると、見覚えのある単語がちらほら混じっている。航空会話は基本英語だ。普段使いしていると忘れにくいというのは、やはりあるのだろう。それはそれとして、知らない、聞いた覚えのない単語もそれなりにある。こういうのはともかく覚えるしかないのだが、いかんせん暗記は面倒だ。理性ではわかっていても心が拒否してくるので、無理やり脳に流し込んでいる様子は、知識のフォアグラかな、とユーリはげんなりした表情で英単語帖をノートで隠したり見せたりしながら暗記を進める。向かいに座るアリアンナも、黙々と数学の練習問題を解いていた。再びユーリがため息をつくと、先程のようにダイヤモンドダストを含む白い煙がテーブルに広がった。


「ユーリにぃ、それ止められない?」

「ごめん。ああくそ、癖なんだよな。ドラゴンブレス出るの」


 ユーリが思わず息をつくと、また白煙がもうもうとユーリの鼻から出た。その光景に、思わずアリアンナがぷっ、と噴き出す。


「排気みたいなものなのかな」


 アリアンナが可笑しそうに言うのに、ユーリは少し苦い表情を浮かべる。


「確かに呼吸は生命の排気ガスみたいなものだけどさ」

「ボクとしては、ノートの上の視程を落とすのはやめて欲しい所だね」

「濃霧、だね」


 確かに、この濃度ならそれこそミルクの中に飛び込んだような濃霧となるだろう。有視界飛行は望めず、水平指示器と気圧高度計を用いた計器飛行を行い、空港に着陸するときにはILSに従って着陸することになる。霧は、あまり好きな天気ではなかった。


「ユーリにぃ、寝てるときにドラゴンブレスが出てたりすると、ひんやりしてて夏は過ごしやすいんだけどねえ」

「え、僕寝てるときも出してるの?」

「寝苦しい夜とか、特に」


 マジか。思わずユーリがこぼれるようにつぶやいたのを、アリアンナは不思議そうな表情で見返す。


「起きたらアンジーが抱き着いてることが多いのって、そう言うことが多かったのか……」

「あ、いいなぁ、ボクも行こっと」


 しまった、とユーリが失言に気付いた時には既に遅く、アリアンナはユーリとの同衾計画を立案してしまっている。おそらく、今夜は二人のサンドイッチになることが確定だろう。ユーリは頬を赤らめつつも、思わず頭を抱えた。


「気持ちいいんだよ? ユーリにぃ体温高いから、寒いときは温かくて、暑いときはドラゴンブレスで涼しいからね。理想の寝具だ」


 良い匂いもするし。そうアリアンナが言うのを英語の勉強も忘れてじっとりとした目で睨む。


「どうするんだよ。僕、今夜から寝られる気がしないんだけど」

「ふふ。安心して、ユーリ兄さんはいいものだから。いい匂いもするし」

「やたら強調するじゃないか」


 ユーリの問いに、そりゃそうだよ、だって。と言うアリアンナの瞳が、捕食者じみて細められる。


「いい匂いがする人は、遺伝子から相性がいいらしいから、ね」

「なら、僕は焼きたてのステーキと相性がいいわけだ」


 ユーリは、付き合ってられない、と言わんばかりにアリアンナから目を逸らしてノートに目を落とす。

 その様子を見たアリアンナは、妖しく口元に笑みを浮かべると、音もなく椅子から腰を浮かす。猫型の動物の捕食者を想起させるようなその動きは、完全に動きの気配を消している。そのまま音もなくテーブルの上に四つん這いになってユーリの首元にそっと顔を寄せる。

 くんくん、と鼻を鳴らす。そこで初めて、ユーリはアリアンナが自分の匂いを嗅いでいるのに気づいた。


「ほら」ばっと反射的に顔を上げたユーリに、アリアンナが呟く。「ユーリ兄さんは、良い匂いがするね」


 ユーリの鼻腔をくすぐる彼女の匂いは、アンジェリカみたいに甘く蕩けそうな、良い匂いがした。


「コホン、コホン」


 唐突に横から響く、わざとらしい咳払いの声。二人して振り向くと、眉間に皺を寄せたアンジェリカが仁王立ちしていた。隣には頬を赤くして顔を手で覆ったアリシア。彼女の指の隙間からは、下から赤い瞳が覗いている。


「図書室で紡ぐのは、愛の詩ではなく、知識と知恵にしてくださいまし」

「愛の言葉だって、立派な智慧だと思うけどなぁ?」


 悪戯っぽく舌を出したアリアンナが席に戻る。アンジェリカがため息をつきつつ、ユーリの横に座る。嗅ぎ慣れた、甘い良い香りがユーリの鼻をくすぐった。


「遅かったね、アンジー」


 珍しく、随分と彼女は約束の時間に対して遅くなった。そのせいでしばらくアリアンナと二人きりで過ごす羽目になったともいえるのだが。


「それは――」

「皐月院さんと会ったのよ」


 被せるようにして言ったアリシアの言葉に、ユーリはぎょっとしてアンジェリカの方を向いた。アンジェリカは苦々しい表情を浮かべている。


「姉さん、トラブルにならなかった?」

「それに関しては大丈夫よ。お互いガンの飛ばし合いで済んだわ」


 さながらキューバ危機、って感じだったけど。そうアリシアが言うのに今度はユーリがジト目でアンジェリカを睨む番だった。気まずそうに顔を逸らすアンジェリカ。


「アンジー」ユーリは、平坦な声でアンジェリカに言う。「皐月院さんを見つけ次第喧嘩になるのはやめようって、この決闘騒ぎで決めたよね?」

「ぐ……ごめん、なさい」


 悪い、というか道理が通らないか。アンジェリカは理解しているようで、小さく呻いた後に謝罪を告げる。

 ユーリはため息をつく。本当だったら喧嘩両成敗といった塩梅にしたいものだが、それがかなわないことは既に証明済だ。それをどうにかするための期末試験での決闘だったのだが、なんだか先行きが不安になってきた。


「大丈夫ですわ」アンジェリカが、自信を浮かべた表情で言う。「勝つのは、わたくしですもの」

「それに関しては心配してないよ」

「あら、嬉しいことを言ってくれるじゃありませんの」


 その後の事の方がユーリにとっては本番であるのだから、そっちの心配をしてほしいと彼は思ったが、黙っていた。


「そう言えばさ」ユーリは気になったことを尋ねてみる。「僕ってそんなに抱き心地がいいの?」

「最高ですわ。毎晩ベッドに入れて、他の誰にも渡したくない程度には」


 良い匂いもしますからね。あっけらかんとそう言うアンジェリカに対して、ユーリはげぇ、と言いたげな表情を浮かべる。


「それがどうかしまたか?」


 アンジェリカの問いに、ユーリは別に、とただ返した。


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