17/Sub:"食卓"
報告書作成の作業は退屈な業務だ。既定の型があるし、わざわざ報告書なんて見なくてもフライトデータを見ればすぐにわかるのに、と咲江は思いつつも、これがユニオンの軍人としての義務である。業務を放棄すれば飛べなくなるのは理解しているので、渋々とはいえ仕事をこなすしかない。好きなことだけでは何もできないのも、また人生だ。
報告書の作成作業自体はすでに慣れ親しんだ作業だ。要点をまとめて、書く。それだけだ。必要のない情報はわざわざ記載する必要はないし、理由もない。ARディスプレイに表示される、現実に重ねて現出した仮想のキーボードを叩く。キーを押している感触がないのがなんとも奇妙だとも思うが、同時にタッチパネルでも触れているとでも思えば違和感もないようにも思う。生暖かいタッチパネルではなく、冷たいテーブルの感触を指先に感じながら、咲江は黙々と報告書を書き続けた。
終礼のチャイムが響く。もうこんな時間か、と咲江は報告書を見直すと、完成度は九割ほどだった。ため息をつきつつ、残業に入る。夜勤組がさっき入ってきてたっけ、と思い返しながらも残りをとっとと書き上げる。内容をざっと見て、完成。
報告書を送信しながら帰宅準備を始めた。ARの視界の端に送信画面を小さく映しながら、荷物を整理していく。丁度終わったところで、送信終了の画面が出た。これで仕事も完了だ。
咲江はARグラスの接続を解除すると、荷物を持って通路を歩く。基地の一画。壁に真新しくペンキで四角形の枠が、まるでドアを取り付ける寸法か何かのように描かれている壁。その壁の真ん中には、入場ゲートにあるような電子カードキーのカードリーダー。咲江はそれに、職員証をかざした。
壁が職員証をかざしたところから、黒い結晶化した枝葉の様な模様が広がる。安っぽい白いペンキのそれから、真っ黒になる壁の一画。咲江はそれに触れると、触れた手は、ずず、と沈み込んだ。エアーカーテンを通り過ぎたようなときの様な感触に、一瞬顔をしかめるもそのまま全身を滑り込ませた。
出た先は、同じような通路。だがさっきよりも狭く、薄暗い。咲江が振り返ると、そこには同じように赤いペンキで描かれた壁と、カードリーダー。
ユーリの父親が作った超空間ゲート。通り抜ける時になんの劇的なものも感じずに、あっさりと通り抜けた。咲江が復職し、岐阜基地にたびたび出張する機会が増えるということで、ユーリの父親が掛け合って試験的に設置したもの。大型のものは既にいくつかの基地には設置してあるということだが、人員の異動などを考慮してこういう小型のものをいくつか設置しようか、ということで始まった計画らしい。これは、その試作品と言うことだ。生憎、これを利用しているのは咲江の他には片手で数えられるほどしかいないらしい。
逆になんで今まで使わなかったのだろうか、こんな便利なもの、と思いつつ、咲江はロッカールームに向かう。ロッカーのドアに書かれた、『Cpt.Azuma』の文字に一瞬目を留めつつ、ロッカーを開けて軍制服から私服――とは言ってもクールビズのスーツだ――に着替えて、首から職員証だけを下げ、荷物を持ってロッカールームを出た。
ここは地下一階だ。長野市街にある合同庁舎にユニオン長野支部は三〇年前の戦争以来、こっちに移ってきた。昔はフロント企業だったり中小企業のオフィスを偽造したりして拠点にしていたが、それからすると随分のびのびと仕事ができるようになった。咲江は当時の事を思い出すと、なんだかしんみりする感覚を覚えるが、この話ができるのはユーリの両親を含め、余り多くないだろう。
ユニオンの区画から出るのに、保安ゲートに向かう。守衛に挨拶をしつつ、空港でよく見る、金属探知機やら爆発物探知機やらを兼ねたガーネット色のゲートに立つ。ゲートの内側には長方形を蛇腹状に並べた後、斜めにずらしたような、淡い黄色の模様がぐるりとゲートを一周するように描かれていた。ゲート内の足が描かれたところに立って二秒ほど待つと、軽快な音が鳴り、どうぞ、と進行を促された。タッチパネルに身分証をかざして自動改札を通り抜ける。
聞いた話だが、あの金属探知ゲートは、霊的なスキャンも同時に行っているらしい。ユニオン区画にいわゆる『怨霊』などを持ち込まないため、という話だが、そうしてみると本当に鳥居の様だ。さながら、あの模様はしめ縄か。
しかし、あれが鳥居だとすると悪魔である自分が出入りしているのは問題な気もする。そう考えると、なんだか馬鹿らしくなって先程までの考えを頭の片隅に追いやった。合同庁舎の一階に出ると、咲江と同じように帰る公務員の姿で合同庁舎の入り口は少々混雑していた。ゲートに並んで外に出る。
外の空気は暑く、湿っている。冷房の効いた屋内から屋外に出ると、喉元に汗が浮かぶ感触が分かった。喉元を緩めつつ、駐車場に向かう。自分の車に滑り込んでエンジンをかけると、ぶわりとエアコンから熱風が噴き出てくるが、すぐに冷たい空気に変わった。フロントガラスのサンシェードを取って車を駐車場から出し、咲江は家へと向かった。
帰宅時間のこの道路は混みあっている。車線をしっかり選ばないと、目当ての所で右折や左折できないというのはざらにある。夕暮れの幹線道路に煌めくヘッドライトとテールランプのツートンカラーの皮を抜け、市外へ。高速道路にして二区間ほど。下道のバイパスを走っていれば三〇分ほどだ。
バイパスを降りて住宅街へ抜け、どんどん丘の方に行く。ひしめき合うように並んでいた一軒家やアパートが、まばらになっていき、間に林や空き地が目立ち始め、メタセコイアの並木を走ると、見慣れた屋敷が見えてきた。駐車場に車を停めると、そこで咲江はほっと一息ついた。
遅くなっちゃったけど、夕飯まだ温かいかな。
残業の連絡を入れればよかったかもしれない。そう思いつつ、車から降りると二階が暗く、食堂が明るいことに気付く。カーテンの隙間から光が漏れている。まさか、と思いつつ玄関を開けた。
「ただいまー」
少し大きな声で言うと、とたとたと足音。食堂のドアが勢いよく開く。
「お帰りなさい、ですわ!」
少し怒ったような、嬉しそうな顔をした、部屋着姿のアンジェリカがドアを開いていた。きょとんとした表情を浮かべていると、アンジェリカが腕を組んで、言う。
「みんな待ってますわ」
「……そうね、お待たせ」
咲江が食堂に入ると、同じく部屋着姿のアリアンナとアリシアがテーブルについていた。アリシアはタブレットで動画を、アリアンナは漫画を読んでいたが、二人とも顔を上げて咲江の方を向いた。
「おかえりー」
「おかえりなさい」
「ええ、ただいま」
二人にただいまを言うと、ふと、台所から水音が響く。同時に、電子レンジの音。台所から顔を覗かせたのはユーリだった。
「咲江さん、おかえりなさい」
「うん、ユーリ君、ただいま」
「今、ご飯をよそっているので、先に席についててください」
そう言うとすぐにユーリは台所に引っ込んだ。言われた通りに自分の席に座ると、テーブルの真ん中に並んでいた『それ』に、目が映る。
「ターンテーブル……?」
中華料理屋でよく見る、ターンテーブル。それがテーブルの真ん中に堂々と鎮座している。クローシュに覆われたいくつかの皿が並ぶそれは、流石に大きすぎたようで若干いつものテーブルからはみ出していた。
「引っ越し祝いの品を漁ったらありましたわ!」
「どうしてこんな限定的なものを……?」
咲江の頭の中が疑問符で一杯になる中、エプロン姿のユーリが盆に茶碗を載せて歩いてきた。盛られた白米からは湯気が立っている。それをてきぱきと並べると、アンジェリカがクローシュを取っていく。銀の蓋の下から現れたのは、中華料理の数々。
「わぁ……すごいじゃない! これ全部?」
「まぁ、インスタントのパックとかを使ったものもありますが、作れるものは作りましたよ」
自信作です、と言わんばかりに得意げにユーリが言う。そうこうしていると、咲江の席にコップが置かれ、そこに泡を立てる黄金色の液体が注がれた。ふわりと立つホップの香り。
「はいはい、お待たせ―」
エプロンを脱いだユーリが席につく。そっとタブレットを横に寄せたアリシアの目は、空腹と眼の前の食事への食欲でぎらついていた。
「では、皆さん」アンジェリカが言う。「いただきます」
「「「「いただきます」」」」全員の声が重なり、一斉に料理に手を伸ばした。
「あら、美味しい!」
咲江が取ったエビチリ。ぷりぷりとした海老の身と、甘辛いソースは、ご飯も麦酒にもよく合った。
「だってよ、アンジー」
そうユーリが言うと、咲江は驚いたような表情を浮かべる。アンジェリカは得意げに胸を張った。
「当然ですわ! このわたくしが作ったのですもの」
「いやでもすごいよ。ここまで上達するんだから」
「ユーリの教え方が上手いからですわ」
ふふん、と得意げに鼻を鳴らしつつ、嬉しそうな表情を浮かべるアンジェリカに、咲江はなるほど、と納得した。アンジェリカの料理だが、大雑把なものが多いわりに地の腕は悪くない。しっかり教えれば、しっかり育つようだ。
「あとは、アリシア姉さんだけだねぇ、料理できない勢」
そうアリアンナが言うと、うぐ、とアリシアがうめいた。
「いいもん。私はユーリに養ってもらうし」
「えぇ……」
「姉としての尊厳をこれぞとばかりに捨てましたわね」
咲江は苦笑いを浮かべつつも、色とりどりの料理を口に運ぶ。クローシュがいいのか、出来立てと言うほどではないが、十分に温かった。
「……あら、どうしましたの?」
神妙な表情を浮かべていた咲江にアンジェリカが呟く。
「いえ、なんか」咲江は、ぐい、とビールを飲み干した。「帰ってくる場所があるって、いいなぁ、って実感してるわ」
「それを教えてくれたのは、咲江さんですよ」
そう言いながら、ユーリが咲江のコップにビールを注いだ。再び泡立つコップ。おっとと、とあふれそうになる泡を思わず吸う。
賑やかで温かく、明るい食事が、夜の帳の下で輝いていた。
「いただきます」
絵理沙のつぶやきが、誰もいない和室に消えていった。
冷めて生暖かい白米を口に運ぶ。冷え切った料理の数々は燃え残った灰がごとく、匂いを立ち上らせるのを放棄していて、味が色褪せたそれは口の中の熱を奪ってく。それがどうしようもなく不快で、淹れたばかりのお茶という唯一の無機質な熱で、それを胃に流し込んだ。
祖父は今日も家にいない。お手伝いさんが作った食事を、一人食べ続ける。とっくにお手伝いさんは帰宅していて、今屋敷には警備ドローンと絵理沙だけだった。
焼き魚を口に運ぶ。冷えてべっとりとねばついた魚の油が、ひどく生臭かった。それを同じように茶で流し込む。味わう価値のない、ただの栄養補給。
一人で食事をしていると、いろいろなことを思い出す。こちらを道具としてしか見なくなった祖父。亡くなった、顔も思い出せなくなってきた両親。最期まで絵理沙を可愛がってくれた祖母。アンジェリカ。ユーリ。
彼女は、温かいご飯を食べているのだろう。
そして、その隣には彼がいるのだろう。
絵理沙の肩が小さく震える。誰もいない、広い和室に、咀嚼音だけが静かに響いていた。




