10/Sub:"将来"
「乾杯には少々味気ないですわね」
「どれもこれも飲みかけだもんねえ」
二人がくすくす笑うのを楽しそうに眺めながら、咲江は手元のビールを飲み干す。喉を流れていくホップのさわやかな冷たい苦味は、これからの灼熱を予感させていた。
「と、いうことがあったのですわ」
「唐突だなぁ」
夕飯の後、ベッドの上でアンジェリカに聞かされた話の内容に、ユーリは思わず心の中で頭を抱える。一体どうやったらサラダから将来設計や自己存在の形而上学的な話になるんだ? とユーリは発想の飛躍と情報量に頭が沸騰しそうであった。
「それで、ユーリはどう思うのです?」
「どう、って?」
ベッドに横になりながらアンジェリカの方を向く。彼女は上半身だけを起こしてユーリを見下ろすような形になっていた。真っすぐユーリの金色の竜の瞳を見つめる、アンジェリカの深紅の吸血鬼の瞳に、思わずユーリは目を逸らしてベッドの天蓋を見つめる。
「ユーリは、将来は考えたことはありますの?」
「アンジェリカと宇宙に行く」
そう間髪入れずユーリが言うと、そうではなくて、とどこか満更でもなさそうな顔でため息をつくアンジェリカ。
「それはあくまでゴールであって、わたくしは過程の話をしているのですわ」
「過程」
ユーリはアンジェリカの方を見やる。彼女は、上を見上げていた。天蓋の、天井の、屋根の、空の先に焦点が合っている紅い瞳。
「わたくし、起業しようと思っていますの」
「起業? 企業を?」
「上手いこと言ったおつもり? ええそうですわね。できれば、ストローから宇宙船まで、何でも扱う企業がいいですわ」
そう言うアンジェリカの手に、そっとユーリが自分の手を重ねる。彼女の手が指を絡めてきて、二人の体温がそこで交わされる。
「いずれ人類が地球を離れて、宇宙で暮らす日が来たときに、さきがけとなっている、住む場所を、着るものを、食べる物を用意できる、そんな企業がいいですわ」
「すごいや、企業複合体だ」
ユーリが感心したように言うと、彼女がユーリの方を振りむく。窓の外に浮かぶ月の逆光に照らされたアンジェリカは、それはそれは妖しく笑っていた。
「ええ。宇宙というフロンティアで、さきがけとなる組織。そうですわね……」
どうやら名前を決めていないようで、顎に手を当てて真剣に悩むアンジェリカの姿。真剣に考えているのが外見から伝わってきて、思わずユーリも一緒になって悩む。そうこうしているうちに、ふと、アンジェリカの背後の月が、薄く暈をかぶっていることに気付いた。うっすらと虹色に分かれる暈。
「月が虹を纏ってる」
「あら?」
ユーリに言われて振り向くアンジェリカ。彼女の目に飛び込んでくる光景に、彼女はほぅ、と小さく息をついた。
「上空は湿気が入り込んでいそうですわね」
「もうすぐ梅雨も終わりだ。そうすれば夏さ」
二人で、しばしば考え事も忘れて月を眺める。月は暗い空の中で煌々と輝き続けていた。
「……スペクトル」
ぽつり、とアンジェリカが呟いた。ん、とユーリが彼女の方を向くと、嬉しそうな顔で彼女はユーリに振り向いた。
「『スペクトル・サイエンス&テクノロジーズ』なんて、どうでしょう?」
「『見えるもの』か、悪くない」
胸を張って言うアンジェリカに対し、ユーリは小さく微笑んで返す。彼女としては会心の出来だったらしく、どや、とでも言わんばかりの得意げな笑みを浮かべている。彼女の身体のラインがはっきり出る薄手のベビードールに、人外じみた美しさと、それをすべて蜂蜜で塗りつぶすかのような無邪気な笑顔。それがなんだかおかしくて、ユーリは思わずくすくすと笑った。
「あら、何が面白いのです?」
「いや、これがギャップ、ってやつかと思って」
「生意気ですわ!」
ユーリに覆いかぶさるようにしてもたれかかってくるアンジェリカ。ユーリの脇の下をレースの手袋でくすぐると、くすぐったい感覚と、アンジェリカの柔らかさがカクテルとなってユーリの触覚を刺激した。
「や、やめて、アンジー。ひぃ」
「えい、えい! ユーリの癖に生意気ですわ!」
二人とも笑顔で、アンジェリカはユーリの敏感なところをくすぐり回す。ぎしぎしとベッドが軋む中、ユーリとアンジェリカの声に段々と熱がこもってくる。
ぴたり、と二人の動きが停まる。ユーリを見下ろすアンジェリカ。その瞳は、赤く妖しく輝いていた。
「……すこし、落ち着こうか」
「……そうですわね」
二人とも先程までの感情が冷えて、冷静になっていく。急にさっきまでの行いが恥ずかしく感じて、二人でただ黙ってベッドの上で身を寄せ合った。
「さっきの、さ」ユーリが呟く。「いい名前だと思う。スペクトル。いろんな色だ」
「宇宙を彩るのは、人間の仕事でしょう?」
「うん、そうだね」
アンジェリカの強烈な赤色が、ユーリの脳を焼いた。ユーリの強烈な群青が、アンジェリカの網膜に焼き付いた。
ベッドで、横になりながら二人手をつなぐ。
「僕は、さ」ユーリはぽつり、ぽつりと語り出す。「大学でアルバイトをして、今回こうして部の皆に飛び方を教えてみて、楽しかった」
アンジェリカは、黙ってユーリの手を握り続ける。
「それで、いろんな空があることを知った。いろんな空の色があって、それぞれに違う光景が広がっていて」
ユーリは、アンジェリカの方を向く。彼女は、優し気な笑みを浮かべ、ユーリの方を向いていた。彼は、ただ幼い子供が未知への好奇心に突き動かされるかのように、心を語る。
「だから、僕は大学で空を学んでみたい。それで、アンジーが行く空の向こうに、どんな『空』が広がっているのか、それを見てみたい」
「つまり、気象学をやりたい、と?」
「それよりは、もっと広義の、所謂大気物理学に近いかもしれない」
ユーリは、天蓋を見つめる。天蓋の木目の模様は、まるでガス惑星の表面のそれの様に波打つ。
「いろんなところで、いろんなことを教わったし、学んだ。そうしてある時、空を見ていると聞きづいたんだ。そこで何が起きているか、どういう風に起きているか、わかる自分に。まるで空が、全部自分の術式の一部に見えた」
それを、アンジェリカはただ黙って聞き続ける。ユーリの顔は、新しいものを見た子供の様に、ただキラキラとした笑みを静かに浮かべ続ける。
「急に見える世界が広がったというか、本質に近づいたような……」
「『瞳を得た』のでしょうね」
それだ、とユーリは小さくも、強く返した。
「いろんな空を、知りたい」
「……いい夢じゃ、ありませんか」
アンジェリカが呟く。とても優しい声で、ユーリの手を握る彼女の手が、少し彼の手をしっかりと握った。ユーリは静かに、それを握り返す。
「だから、アンジーの道の先に僕も行くのは決めている。だけど、大学で空を学んでみたい」
「なら、理系を目指すのかしら?」
「うん。そうなるね」
ユーリの得意科目には数学と物理、英語がある。理数系には向いているだろう、と客観的に見ることはあっても、そちらに行きたい、とはっきり思ったのはこれが初めてだった。
「アンジーは経営学とか社会学とか、そっち?」
そう尋ねると、アンジェリカはユーリの方に寝返りを打つ。その表情は、先程までのユーリの表情に、どこか似ていた。
「どうでしょう。案外、航空・宇宙工学なんていいかも、って思っているかもしれませんわよ?」
にっこりと笑うアンジェリカ。ユーリはそれもいいかも、と笑い返した。
「そうだな、そっちも楽しそうだ」
「ふふ、いろんな分野で、意見交換できる。そんな会社にしたいですわ」
「じゃあ、経営はどうしよっか」
「……そこは、皆で頑張りましょうか」
なんだそれ、とユーリは笑うと、アンジェリカもクスクス笑った。
「そうだね。皆で、みんなで頑張ろう」
「そうですわね。みんなで」
コンコン、と部屋のドアがノックされる。一瞬ユーリはアンジェリカと目を合わせ、彼は静かにベッドから降りた。ドアのところまで歩いていくと、甘い気配。咲江先生か。
「どうしました?」
ドアを開けると、案の定咲江だった。薄手の、裾が長く淡い桃色のネグリジェを着た彼女は、胸に枕を抱えている。
「ふふ、たまには一緒に寝るのも悪くないでしょ?」
「なるほど」
ユーリは納得し、中に入るのを促す。ありがと、と小さく言うと、スリッパをペタペタと鳴らして咲江が部屋に入ってきた。彼女の、悪魔の黒い尻尾が揺れる。
「咲江」
「アンジェリカちゃん。お邪魔するわね」
そう言ってベッドに自分の枕を置く咲江。彼女が置いた枕は、ユーリを挟んでアンジェリカの反対側。どうもそういうことらしい。二人での時間を邪魔されたようなものであるアンジェリカは、少し不満げな表情を浮かべる。それを見越していたのか、あるいは本当にただの偶然か。
「ほら、早く寝ましょう?」
「ユーリ、寝る時間ですわ」
「……そうだね」
苦笑いを浮かべながら、二人の間に入り込むユーリ。どっちを向けばいいか、なんて思っているうちに、両腕をそれぞれに掴まれて仰向けが固定された。ユーリの両腕に柔らかい感触が当たって、なんだか妙な気分になってくる。
「こうして一緒に寝ると、少し狭いわね」
「あら? なら部屋に戻っていただいても構わないですのよ?」
「ふふ、この狭さが心地良いときだってあるのよ?」
ぎゅうぎゅうと三人でベッドに横たわる。ユーリはアンジェリカと咲江の間に火花が飛ぶ幻視をする。
「ユーリ君、寒かったら温めてあげるからね?」
「それはわたくしの役割ですわ」
「あーうん、今十分あったかいから大丈夫」
流石に寝よう。そう提案すると、二人はしぶしぶ、と言わんばかりにユーリにそっと身を寄せる。お互いのぬくもりを交換しているうちに、ゆっくりと、三人は眠りに落ちて行った。




