09/Sub:"レタス"
台所ではユーリとアリアンナだけが残され、黙々と調理を続ける。アリアンナが、熱が均等にいきわたる様に鍋を時折混ぜ続ける横で、ユーリは味噌汁を作っていた。だしパックを湯に入れ、切った厚揚げとネギを入れる。沸き立つ湯に色がついたところでだしパックを取り出し、火を止めて味噌汁を溶かす。
「うん、完成」
「ユーリにぃ、こっちはいつまで煮込む?」
アリアンナが言うのに鍋の中を覗き込んでみると、なるほど、玉ねぎはすでにドロドロと形を喪う直前になっている。もういいだろう、とユーリは火を止めた。
「カレーのルー、と、隠し味にこれ、と……」
ルーと一緒にほんのひとかけの味噌を入れ、良く混ぜる。すぐに黄金色のさらさらとした鍋の中身は、茶色のスパイシーなドロッとしたルーへと変化していった。
「おし、完成、と」
ユーリは少し味見をして、カレーを完成とした。
「ユーリにぃ、相変わらずこういうアレンジ上手いよねえ」
「何べんも作っていると、そういうのはわかってくるものだよ」
火を止めてユーリが言うと、アリアンナはふと、わざとらしく『どれどれ』とつぶやく。
「むぐうっ!?」
いきなりアリアンナがユーリにキスをした。じっとりとユーリの口の中を味わう様にするディープキス。アリアンナの舌がじっくりと味わう様にユーリの口腔を舐め回し、そのたびにアリアンナの甘い香りが口の中にあふれた。舌がユーリの歯を、歯茎をなぞるように舐め、舌同士で絡めて唾液を混ぜ合わせる。思わず離れようとするが、がっしりとユーリの後頭部に回されたアリアンナの腕がそれを許さない。
どれだけそんな蹂躙が続いただろうか。つぷ、と音を立ててユーリの口からアリアンナの口が離れる。口の中にたっぷり吸ったユーリの唾液を美味しそうに咀嚼しながら、んく、とアリアンナは嚥下した。
「ふふ、確かにいい味してるね」
「……シチュエーションとしては、赤点だね」
せめてもの、とユーリはじっとりとした目でアリアンナを睨むものの、あまり効果はなさそうだ。うっとりとした表情を浮かべている彼女はただ妖艶にほほ笑むのみ。
「別にいいじゃないか。ボクとユーリ兄さんはもう恋人同士なんだから」
「どの野菜にも旬はある、って知ってる?」
「朝早く起きれば遠くまで行ける、とも言うねえ」
上手いこと言いやがって、とユーリは言いかけたが、アリアンナがそれにね、と続けた。
「知ってるかい、ユーリにぃ。カラスはカラスの目を突かないんだよ」
むむ、とユーリは先程出ていった咲江の、唇の感触を頬に思い出す。そうすると次に出てくるのは、と思っていた矢先、耳に聞き覚えのある足音が聞こえてくる。アリアンナがどこか愉快そうに微笑んだ。
「噂をすれば、だねえ」
「……はて、誰のどんな噂をしていたのかしら」
台所に入ってきた部屋着姿のアンジェリカが、呆れたような目で二人を眺めてきた。
「別に、ボクらは仲良しって、それだけさ」
「へぇ、それにしては――」
アンジェリカがユーリを見やる。濡れた口元。頬に刺す朱。大体何があったかを理解したアンジェリカは、小さくため息をついてユーリにつかつかと歩み寄る。
「アンジー、何を」
「――いいから、今はわたくしの好きにさせなさい」
くい、とユーリの顎を持ち上げるアンジェリカ。ユーリの白い首筋を、ぺろりと舌で舐めると、そのまま甘噛み。ユーリの口から苦悶とも嬌声ともとれるくぐもった声が漏れる。横で見ていたアリアンナはわーお、と感嘆を漏らしていた。
存分にユーリの喉笛の味を堪能したのか、満足げにアンジェリカが口を離す。
「あなたと間接キスをするなら、わたくしが先ですわ」
アンジェリカが振り向いてアリアンナに向かってつぶやく。アリアンナは彼女をただニコニコと眺めていた。
一方ユーリは、思わずアンジェリカが甘噛みした喉元に触れる。先程の温かい感触がまだ残るそこは、血を吸われていたかと錯覚するほどには熱を帯びていた。カラスはカラスの目を突かない。利益を共にするものは争うことはない。そこでユーリは初めて、三人の捕食者にロックオンされている状況を実感した。
身体、持つかなぁ。
どこか遠い目を浮かべるユーリを気にも留めず、アンジェリカは鍋の中で湯気を立てているものに気付いた。
「カレーですのね」
アンジェリカが香りを楽しんでいると、アリアンナがペロリと唇を舐めた。
「うん、良い味だったよ」
「味見の仕方に関しては、聞かないでおきますわ」
「そうしてくれると助かるかな……」
料理しただけなのにひどく疲れた。ユーリがどこかふらふらとした足取りで後はよろしく、と台所を後にすると、後にはアンジェリカとアリアンナが残される。アンジェリカは、冷蔵庫を開けてレタスを取り出した。工場生産の、黒い艶が美しいリーフレタス。
「サラダを作りますわ。アンナ、ボウルを準備してくださいまし」
「はいはーい」
アンジェリカが手を洗ったのち、レタスを軽く洗う。工場の、温度・湿度・光度が完璧に管理された部屋で一から無農薬で育てられるリーフレタスは土で育てるそれと違って汚れなどついていない。それにも関わらず、太陽の下育てたそれよりも立派に、瑞々しく成長している様はなんだか皮肉めいたものを感じた。
「ん? どうしたの姉さん」
「いえ、少し思っていたのですが」
アンジェリカはリーフレタスを一枚、千切る。パリパリと音を立ててレタスの葉がちぎれる様は、それが十分すぎるほどに成長した様を感じさせられた。
「このレタスとわたくし達、似ているのかもしれませんわね」
「ごめん、ちょっと意味がわからないかなぁ」
流石に、と言わん表情をアリアンナが浮かべる中、一枚、また一枚とパリパリとレタスをめくっていくアンジェリカ。
「日の光を浴びず、人の手で完全に育てられた野菜。日の光を浴びることはない吸血鬼。親近感の様なものを感じただけですわ」
「そんなもの、なのか、な?」
アリアンナが神妙な表情を浮かべると、ドアが開く音。足音が近づいてくると、ひょっこりと咲江が台所に戻ってきた。
「あら? ユーリ君は?」
「ユーリならシャワーを浴びに行きましたわ」
「すれ違いか。残念」
どうやら廊下ではすれ違わなかったらしい。ユーリとアンジェリカの部屋は階段上ってすぐのところにある。出会う確率は低いだろう。
「それで、なんの話をしていたの?」
「レタスとボクらの相似性について、かなぁ」
アリアンナが苦笑いを浮かべながら言うと、流石の咲江も混乱したらしい。えっと、と言葉を紡ごうとしているが出ていない様子だったので、アンジェリカがこれまでの経緯を説明し直す。
「なるほどね」
咲江は合点が行ったようなそうでないような、そんな表情を浮かべながら冷蔵庫を開けた。牛乳を取り出し、自分のコップに注ぐ。ミリタリー仕様の、金属のコップは冷えた牛乳を注がれて、すぐに結露して表面を濡らした。取っ手を掴んで、ぐい、と飲み干す。牛乳が口の上に、白いひげの様についた。
「そう言えば疑問に思ってたのだけれど」
咲江がアンジェリカに尋ねる。なんですの、とアンジェリカはレタスを千切る手を一旦止めて、咲江の方を向いた。咲江はミルクのひげを残したまま、二人に向かって尋ねる。
「アンジェリカちゃん達って、吸血鬼でしょ?」
「ええ、その通りですわ」
「どうして、日の光を浴びて平気なの?」
アンジェリカが小さく瞳を丸くし、そしてどこかハッと思い出したような表情を浮かべる。そのリアクションを見て、アリアンナもはは、と小さく笑った。
「そうですわよね。そう思うのも当たり前ですわね」
「まあ帽子や手袋とかの日焼け対策くらいはしてるけど、ガンガン日中に外出てるもんねえ。夜行性でも何でもないし」
はぁ、と小さくため息をつくアンジェリカ。そうして、どこか意を決したように口を開く。
「結論から言ってしまうと、ユーリのおかげ……と言うべきか、『せい』と言うべきなのか」
「ボクは『おかげ』だと思うなぁ」
ユーリの竜の血。劇薬とでも言えるそれに、アンジェリカ達はユーリと深くつながることで適合し、自らの糧とすることができる。その影響で、ユーリの霊力をもって太陽を『中和』しているのだ――少なくとも、そういう可能性があるとアンジェリカはユーリの母親から聞いていた。
「実のところ、余りよくわかっていないのですわ」
「ほう?」
咲江が興味深げに尋ねる。アンジェリカはどこか困った様に言う。咲江は少しふむ、と顎に手を当てて考える。
「これは」しばし考えたところで、咲江はつぶやいた。「あくまで、私の考えなのだけれど」
「構いませんわ」
「なら言うけど。アンジェリカちゃん達、貴女『人間』『竜』になっているんじゃない?」
きょとん、とした表情を浮かべるアンジェリカとアリアンナ。えっとね、と咲江は続ける。
「ヴァンパイア。吸血『鬼』って言うのは、元来その実態は精霊に近い物なの。そういう意味で、吸血鬼に意思や魂はなく、与えられた『役』を全うする」
こくり、と小さくつばを飲み込む音。それがアンジェリカの物なのか、アリアンナの物なのかはわからなかった。咲江は、その二人の反応を見て、なおも続ける。
「人の血肉を食らい、死者を操り、死を振りまく。そこに意思は介在しない」
「……随分と、詳しいですのね」
「あら? 私、ユニオンの軍人よ」
「……だったねぇ」
アリアンナがひきつった笑みを浮かべる。
「だけど」咲江は牛乳の入ったコップをアンジェリカに差し出した。「アンジェリカちゃん、貴方たちは、自らの意思で、自らの役を決めている。自らの可能性を拓く権利と、その先の結末を受け入れる義務を持っている」
アンジェリカは、そっと牛乳を受け取った。牛乳は、血液からできるとは、いつ聞いたものだろうか。
「それは紛れもなく、人間であるということに他ならない――だから、『吸血鬼』の『役』に縛られず、日の光の下を歩けるんじゃないかしら」
日の光に弱い、そういう『個性』として、残ってはいるみたいだけど。最後に咲江はそう付け足して、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。片手で器用に開け、ごく、ごく、と冷えたビールを飲み干していく。
アンジェリカは、手元の牛乳の入ったコップを眺めていた。白い水面の向こうに映る、自分の紅い瞳。
「わたくしは、人間……」
吸血鬼の誇りが穢されたと、怒るだろうか。しかしそういう感情は不思議と浮かんでこず、代わりに胸に落ちてきたのは、納得。
ぐい、とコップをあおる。冷たい牛乳がわずかな甘みとともに、喉を流れ落ちていく。ほぼ同時に、アンジェリカと咲江は手元の物を飲み干した。
「ええ。関係ない。わたくしが人間であろうが竜であろうが、吸血鬼であろうが関係ないですわ。わたくしはユーリと空を超える。その先へ行く」
「そうやって自らの運命を自らで決められるのは、人間の特権であり、必要条件よ」
「――上等ですわ」
アンジェリカは、獰猛に嗤った。
「あなたはどうなのかしら、アリアンナちゃん」
ふ、と急に話を振られるアリアンナ。えっ、と小さく声を漏らしていると、アンジェリカもじっとこちらを見ていることに気付く。なんだか壮大なスケールの話の様になっていて、どこかついていけない気分であった。始めはサラダ用のレタスの話のはずだったのに。
いろいろ悩んで、なんて言おうか。二人分の視線に耐えながら、これはひょっとして何も考えずに言った方がいいのでは? という考えに行きつく。
「ボクは」
アリアンナは戸棚からコップを取り出そうとして、自分のコップを部屋に置いたままのに気付く。まあいいか、とたまたまあったユーリのコップを拝借して、水を入れてぐい、と飲み干した。
「ボクは、ユーリにぃと、みんなと一緒にいたい、それで全てだ」
「……決まり、ね」
「決まりですわね」
三人はふ、と笑うと、一斉に杯と缶を軽く打ち鳴らした。




