06/Sub:"幻実"
咲江は少し考えて、小さく微笑みながら言った。
「ええ。元パイロットだし、この間、復帰したわ」
おお、と全員の目が輝く。少し照れくさそうに咲江はほほ笑む。
「どこの航空会社なんです?」
桜がどこかキラキラした目で聞いてくる。咲江は少し困ったような表情を浮かべ、言葉を丁寧に選びつつ、ゆっくりとそれに答えた。
「……ユニオン空軍で、戦闘機を」
「えっ」
全員の表情が固まる。ただ一人だけ、桜だけは『ファイターパイロットだぁ……』とキラキラとした視線を咲江に向けていた。何とも言えない沈黙が場を満たす中、桜だけがうずうずと話ししたげな視線を咲江に向けていた。だが意を決して口を開いたのは、意外にも桜ではなくカオリだった。
「先生は、今回飛び方を教えてくれるんですか?」
いつになく真剣な表情。ごくり、と誰かの喉が鳴った。うーん、と咲江は少し悩んで、言葉を濁した。
「私が教えられるのは、戦闘機での飛び方だけだわ。そうでなければ、少し厳しいわ」
「ですか……」
その意味に、少しカオリの顔が曇った。
ユーリは黙ってカップケーキをほおばり続ける。流石にこの空気の意味が解らないわけではなかったし、下手に口を出そうとしてもなんと言えばいいのかわからなかった。
再び食堂に沈黙が降りてくる。皆、自然とカップケーキにかじりついた。
「あ、美味しい」
「なら良かった。作った甲斐があったよ」
ユーリがそう言うと、女子力高いなぁ、と部員の一人が苦笑いと共にこぼして、つられて皆も笑い出した。
「そうよ。私も、ユーリ君に家事やら何やら、いろいろ世話してもらってるもの」
咲江がくすくすと笑いながら言うと、皆は目を丸くしてユーリを見た。
「専業主夫じゃん、穂高君!」
「そうかな……そうかも」
言われて思い出すのは家事に明け暮れる日々。主夫と言われると確かにそんな気がしてくる。あ、そうだみんなの服洗濯しておかないと……。
そうこうしているうちに皆ティーセットを平らげ、談笑が進んでいる所にふとユーリが腕時計を見る。見ると、だいぶ時間が経っている。本来の目的を忘れるのはいけないだろう。
「皆、そろそろ練習に移ろう」
「そうね、そろそろアイドリングも終わっている頃だろうし」
咲江とユーリが立ち上がる。部員もはっとしてやや慌てながら立ち上がって、二人を追って食堂から出ていく。
再びホールに戻ってくると、簡易サーバーは既に起動が完了しており、表面に淡い桃色が結晶格子の様に時折走っている。
ユーリは三角柱状のサーバーの、足元に置いていた幻術VRゴーグルを手に取る。それを頭にかけて、皆の方を振り向いた。
「じゃあ、皆持ってきた? 持ってない人はこっちでカバーするけど」
そう言うと、皆鞄の中から幻術VRゴーグルを取り出した。どうやら皆持っている――いや、違った。桜が小さく手を挙げる。
「ごめん、穂高くん、私はまだ持ってなくて……」
「大丈夫よ、私が代わりにやるわ」
咲江がそっと桜の手を取る。桜の頬が小さく朱色に染まった。
「じゃあ、皆各々横になって……恵那さん?」
「何?」
皆各々床に、鞄を枕替わりにして床に横になる中、一人だけカオリは床に座禅を組んで座り、VRゴーグルをかけた。よく見ると、靴下だと思って居たのは足袋だ。天狗らしい、と言う奴だろうか。
「大丈夫なの? それ」
「問題ないわ。この方が集中できるし」
まぁ、人それぞれか、と、ユーリは床に寝そべり、ゴーグルをかける。頭の下にはタオルを丸めたものを敷いて、クッションにした。
「じゃあいい? 始めるわよ?」
咲江が言う。ユーリはレディ、と親指を立てた拳を挙げた。
ゴーグルが起動する。すぅ、と意識が奥に落ちて行くような、空に吸い込まれていくような感覚。目の前に桃色の光が瞬いた。
気が付くと、ユーリは青空の中にいた。
「え、えええっ!?」
座標でも間違えたのか。青い空と延々と続く大地。重力の鎖に引かれ、地面に向けて落下する。ごうごうと耳元で鳴る風の音。ユーリは自分の恰好がフライトスーツになっていることに気付く。
「そういう、ことかっ!」
空中で竜人形態へ変身する。大地を歩く姿から、空を舞う姿へ。
自由落下中。今はディープストールの状態だ。ならば、と空力を生かして気流を掴む。自分の境界層を最適化していくと、自然と頭が下を向いた。翼の表面に、気流が張り付く。
術式展開。飛行術式が起動し、翼が白い光に包まれた。翼の後端から噴射光が伸びる。甲高い音が大きくなっていく。推力を翼で感じ、ユーリは緩やかにピッチアップ。ストールによる落下から水平飛行に移った。
咲江さんも酷なことをやらせる。ユーリは小さく苦笑いを浮かべつつ、眼下を眺める。山々が連なる眼下、その一角に滑走路を見かけると、一八〇度ロール。緩やかにピッチアップをするとスプリットSを描きながら高度を一気に下げていく。高度23,000フィートから4,000フィートまで、富士山二つ分ほどの高さを一気に降下。翼端から糸のような飛行機雲を引いた。
低高度まで降りてくると滑走路がよりはっきりと見えてきた。いつぞやの咲江の心象風景のそれだな、と思い出すと、滑走路端に何かが停まっているのに気づく。左の垂直尾翼だけが赤く塗られた、暗灰色の機体。間違いない、咲江のブラックオウルだ。人工筋肉製の翼をめいいっぱい広げ、その翼の先端は梟のそれの様に分かたれている。
ブラックオウルが後方から青い炎を引いた。ぐん、と弾かれたように加速し出すブラックオウルは、滑走路に沿ってフライパスするユーリに追いつくように加速し、すぐに地面から離れて空に舞い上がる。
のそり、とユーリの後方下からブラックオウルがユーリに並んできた。
「咲江教官?」
ユーリが小さく呼びかけると、すぐに返答が帰ってきた。頭の中に直接何かが繋がってくるような、独特な感覚。霊力リンクのそれだ、と気付いた頃にはブラックオウルがユーリを追い越して上昇。ユーリもそれについていく。
『感覚補正のテストをしましょう。軽く飛んでみて、感覚と仮想現実の差がないか、注意して観測して』
「わかりました」
ブラックオウルが緩やかに左旋回。ユーリはブラックオウルの右後方に位置しつつ、追従する。翼端の後方乱気流に引っかからないように注意しながら簡単なマニューバを繰り返す。
『次、インメルマンターンよ』
「ウィルコ」
ブラックオウルのノズルがすう、と細まると同時にエンジンの音がひときわ甲高くなり、機体が加速を始める。ユーリもそれに追従し、噴射光が煌めいた。小さくブラックオウルのノズルと水平尾翼が動き、ブラックオウルは緩やかにピッチアップ。大きな弧を描きながら空へと昇っていく。二基で600キロニュートン近い最大推力を叩きだすエンジンは、オーグメンターを作動させなくてもブラックオウルの機体を垂直上昇させるだけの推重比を生み、減速しないままブラックオウルは垂直に上昇。そしてゆっくりとピッチアップを続け、上下さかさまの水平飛行へ。そのまま一八〇度ロールし、インメルマンターンを完遂した。ユーリもそれに続く。
『違和感は?』
「ないですよ、ばっちり感覚通りです」
『なら良かったわ。戻りましょうか』
水平飛行していたブラックオウルが左に大きくロールし、スライスバックに。大きな弧を描きながら下降していく機体をユーリは追いかけていくと、すぐに滑走路に正対した。
「咲江教官から先にどうぞ」
『ウィルコ。先に着陸』
ブラックオウルが滑走路にアプローチする。人工筋肉製の翼が広がり、それ自体をエアブレーキとしつつ、速度と高度を同時に落として滑走路に吸いこまれるようにして降りていく。タイヤが滑走路のアスファルトに触れ、白煙が上がる。
『こちらは着陸したわ、どうぞ』
「ラジャー。アプローチに入ります」
ユーリはオーバーヘッドアプローチ。逆側から滑走路に入り、滑走路の中ほどに着陸した。誘導路を走って格納庫へ向かう。駐機場にはキャノピーの開いたブラックオウルと、何人かの人の姿。
「穂高君!」
こちらの姿を見て手を振ってきたのは桜だった。見ると、千早を羽織った巫女服の姿をしている。だが少し普通の巫女服とは違っていて、赤色の袴はなんだか桜色にグラデーションがかかっているように見えるし、白衣と千早には鱗の様な模様があるし、髪飾りに至ってはまるで角の様だった。
「その服は? 霊服って訳でもなさそうだけど」
「うーん、昔お祖母ちゃんの家で着させてもらった巫女服が、確かこんな感じだったと思うんだけど……」
そう言って自分の服装をしげしげと眺める桜。見ると、皆各々、霊服と思われるどこかファンタジックな姿になっていた。カオリに至っては、物語の中の天狗の着るような道士服だ。皆各々不思議がっていると、横からフライトスーツ姿の咲江が歩いてきた。
「幻術仮想世界で動かすアバターは、何も設定していなければ自分が一番霊的に安定する服装になるわ。きっとそのせいね」
「なるほど……これが私の『霊服』なのかー……」
霊服とは、いわば着る本人に最適化された霊力で駆動するウェアラブルコンピュータだ。認識が霊力に関わってくる以上、やはり霊服の見た目と言うのはその人にとって『しっくりくる』恰好であるのだろうか。ユーリは自分の暗灰色のフライトスーツを見下ろす。ユニオン軍の民間放出品のこれは、完全にユーリに合わせて作ったものではない。自分に最適化した霊服は、一体どういう見た目になるのだろうか? 一人だけミリタリーなフライトスーツを着ているユーリは、どこか疎外感の様な感覚を味わう。
「まあ、飛ぶにはこっちでも問題ないわ」
横からコツコツと、一本歯下駄でアスファルトを鳴らしてカオリが歩いてきた。その姿は、どこか板についている。他の部員も、問題はなさそうだ。
「いいんじゃない? こういう姿で飛ぶのは、新鮮でしょう?」
「まぁ、確かに」
咲江が言うのにユーリが振り向くと、彼女の姿は人の姿からいつもの悪魔の姿になっていて、服もフライトスーツから、黒いウェディングドレスのような霊服姿になっている。咲江は軽やかにジャンプすると、ブラックオウルの翼に飛び乗り、腰掛けた。
「気ままに飛びなさい。大丈夫、モニタリングは続けておくわ」
「それは……どうも」
ユーリはなんだかむずむずしたような感覚を覚えつつも、気持ちを切り替えていく。わざわざここに来たのは飛ぶ練習をするためだ。空に上がろう、そうすれば無関係だ。
「じゃあ、練習を始めようか」




