03/Sub:"衣替え"
「今日の予定はこれで終わりですわね」
アンジェリカが席から立ち上がる。鞄を持ってきて取り出したのは、教科書とノートだった。
「課題が残っていますわ。やらないと」
「今日出た課題だよね」
英語の課題。父親と母親から幼いころから英語のコミックや番組などを見せてもらっていたので馴染みはある。しかしそれとこれとは話が別で、課題は面倒だった。
「試験も近いですわ。勉強も進めないと」
「レポート形式なら有難いんだけどなあ」
「あら? 現代文と日本史はレポートですわ」
「よりによってそれかあ」
ユーリは自分の勉強セットを持ち寄ってテーブルにつく。ただ試験のために暗記するわけにはいかない。身につけなければこういうのは意味がないとは、アンジェリカが普段から言っていることだった。
「いいではありませんの、ユーリは物理と数学は優秀な教師と先輩方にマンツーマンしてもらっているのですから」
「まあ大学教授はねえ……」
最近ユーリは大学に、実験のアルバイトとして顔を出すたびに物理や数学などを教えてもらっていた。彼らはユーリにそれらの学問を分かりやすく、そして楽しく教えることに長けていたし、ユーリもそれを実感していた。
「なら今度は、ユーリがわたくしに教えるというのはいかがで?」
「物理と数学を?」
ユーリが意外そうな表情でアンジェリカを見ると、彼女はさも当然、と言わんばかりの平然とした顔を浮かべている。
「ええ」
「ふむん……まぁ、時間的余裕があれば、ね」
そう言うと、アンジェリカがあら、とユーリのそれに意見を入れる。
「教えるというのは、存外大きな学びの機会ではありますのよ?」
「学び、かぁ」
ユーリはアンジェリカを見つめる。彼女に自分が勉強を教えるとなると、まず教える範囲を完全に把握する必要があるし、それを分かりやすく解説するためにその基礎の部分から理解しておく必要があるだろう。そう考えると、確かに教えるのは大きな学びになる気がする。
「なら、さ」ユーリは手元でくるくるとペンを回しながら言う。「アリシア姉さんと、アンナも呼ぼうよ」
今度はアンジェリカが悩む番だった。課題をこなす手も止まって、眉間に皺を寄せて唸っている。そうしてしばらくうめいた後、ライム水をぐい、と飲んで息をついた。
「……ええ。いいでしょう、皆でやった方が効率が上がるでしょうし」
「すごく悩んだね」
アンジェリカにとってどうも皆で勉強会と言うのは苦渋の決断の様だった。何が彼女をここまで悩ませたのか、生憎ユーリにはわからなかった。
「さ、早く課題を片付けましょうか」
「うん」
少しご機嫌斜めにアンジェリカが呟くのに、ユーリも続いて課題にとりついた。
「起立、礼」
クラス委員であるアンジェリカの声が教室内に響く。すっかり衣替えでブレザーの冬服から夏服になっており、襟が赤いセーラー服を着た彼女はユーリには少々まぶしく見えた。男子制服も涼しげな青いセーラーで、速乾性の生地は着ていて着心地が良かった。教室内はクーラーが聞いているとはいえ、流石に少し暑い。
じんわり、と席に着いたユーリからドラゴンブレスが漏れ出す。空気中の水分が凝結して薄く白いもやとなって、床に垂れ落ちて行く。前の授業であった体育の熱がまだとれていないのか、ユーリの隣の席に座って汗をかいていた男子生徒が、これ幸いにと胸元をつまんで風を服内に送り込んでいた。
教壇ではクラス担任の先生が来週の予定や今後の予定等を生徒に伝えていた。その中に期末試験という単語が聞こえて、ユーリは小さく顔をしかめた。周囲に気付かれない程度に小さくため息をつくと、再び担任の話に耳を傾ける。
「起立、礼」
ホームルームが終わり、やっと帰れる、とユーリが小さくこぼすが、すぐに自分が掃除当番だということに気付く。面倒だが、やるしかない。
机を各々教室の後ろに下げ、ロッカーから掃除用具を取り出して掃除を始める。掃除当番は日替わりで、それぞれ教室の座席順の縦列ごとに班分けされている。ユーリは箒を動かしながら、床のゴミを集めていく。掃除が行き届いているのもあって、基本的に床は綺麗だ。
「穂高ってさ」
同じ班の男子がユーリに話しかけてくる。ユーリは手を動かしながら、横目で彼の方を向いた。
「なに?」
「いや、思ったより家庭的なんだなって。それだけだ」
男子生徒は集めたごみを丁寧にユーリの集めたごみに合流させる。手慣れてはいたが、ユーリのそれに比べたらどこかぎこちない。
「生きていくために必要なことだ。覚えておいて損はない」
「まぁ、それはそうだが……そうだよなぁ」
彼はユーリとの距離感を掴みあぐねているようだった。どんな人物だったか、あまりユーリにも印象は無いが、おそらくムードメイカーの様な性格なのだろうか。こうして自分にわざわざ話しかけてくるのはそういう人種だろう、と推察する。そこで、ふと奥を見ると、他の掃除当番の班が女子だけだったことに気付く。そう言うことか、と小さく納得した。
「ちりとり取ってくる」
「ああ、頼む」
ユーリは小さく肩をすくめつつ、ロッカーからちりとりを持ってきて床のゴミをすくってゴミ箱に流し込んだ。
誰に言われるでもなく、誰がリーダーと言う雰囲気もなく、掃除は進む。後ろに集めていた教室の椅子や机を前に持っていき、教室の後ろ半分も同じように掃除を行う。ユーリと男子生徒がてきぱきと掃除を進めているせいか、手持無沙汰になっていた女子は教卓や黒板の掃除を和気あいあいと行っていた。
「そう言えば穂高」
「なに?」
「穂高って、いつのまに飛行部に入ってたんだ?」
あれのことか、とユーリは文化祭のアクロバット飛行のことを思い返す。どうやらあれのことを彼は言っているらしいとユーリは察した。
「飛行部に入ってるわけじゃないよ。あの時飛び入り参加しただけ」そこでユーリはふと、手を止めて彼の方を向いた。「あ、これアビエイタージョークね」
あび……? と男子生徒は聞きなれない単語に疑問符を浮かべるも、ユーリの飛行部に入ってはいないという単語に目ざとく食いついた。
「飛行部に入ってないのか穂高!?」
「え、うん」
急に熱量が上がった男子生徒にユーリは思わずたじろぐ。目を輝かせて彼はユーリに詰め寄ってくる。
「穂高! 陸上部に興味はないか!?」
「陸上?」
なるほど、彼は陸上部だったのか、とユーリは納得する。確かに鍛えてはいるが、無駄に筋肉をつけているわけではなく絞ってもいる。長距離を走るのに適してはいそうだ。
「僕、陸上競技なんてしたことないよ」
「いいや、見て分かる。その筋肉のつけ方、歩き方、呼吸の仕方、磨けば絶対光る!」
確かにユーリはフライトする時以外も、トレーニングも合わせて走っている。アンジェリカやアリアンナと一緒に走ることもあるし、最近はよく咲江と一緒に走っている。彼女のランニングは軍隊式で、朗らかな掛け声で一緒に走るのは楽しい。しばしばアリシアが引きずり出されて走ることもあった。ああ見えてアリシアもユーリ達についてこれる程度にはスタミナがある。
「確かに、僕は飛行部に入ってないけど、特別顧問にはなってるんだ。だからそっちに注力したい」
「あー……くそっ、折角優秀な人材だったのに」
ごめん、とユーリは小さく謝る。
「ちょっと男子! 掃除さぼらないで!」
「あー悪い悪い!」
女子から声が駆けられ、ユーリは小さく肩をすくめた。男子生徒はごめんごめん、と言いながら机を戻す作業に戻る。ユーリも彼を手伝った。
教室がすっかり元の状態に戻り、掃除班は黒板や教壇の掃除をしている。
「ごみ、捨ててくる」
「あ、お願い」
一人の女子生徒に声をかけてユーリはゴミ箱を持って教室を出ていく。さほど溜まっていないのか、軽かった。ほぼゴミ箱の重量だな、とユーリは思った。
ユーリが出ていった教室で、男子生徒に女子生徒が話しかけた。どこか興奮したような様子で語り掛ける。
「ねえ、あの穂高君に、どうやって話しかけたの?」
「え、いや、普通に部活に勧誘しただけだし」
女子生徒に詰め寄られるようにしてたじろぐ男子生徒。信じられない、と言わんばかりの表情で、女子生徒はユーリの出ていった方を見ていた。
ユーリはゴミ箱を掴んで校内を歩く。歩いているほかの生徒にぶつけないようにして裏手のごみ集積場に持っていくと、そこには委員の生徒と用務員の男性がゴミをゴミ袋に入れていた。
「お願いします」
ユーリがゴミ箱を差し出す。あいよ、と力強くゴミ箱を用務員が受け取ると、ごみ袋の上でゴミ箱をひっくり返した。ざらざらと紙くずや鉛筆の削りカスがゴミ袋に流れ落ちていった。
ゴミ箱を受け取って、再び教室へ向かう。集積場には同じように掃除を終えてゴミ箱を持ってきた生徒がぞろぞろと集まってきており、ユーリはその流れに逆らう様にして歩く。
「あれ、穂高君?」
声がかけられる。思わず聞きなれた声にそちらの方を向くと、そこにはゴミ箱を抱えた桜がいた。
「霧島さん、こんにちは」
「穂高君も、こんにちは」
お互い挨拶を交わす。彼女も掃除当番の様だ。
「アルマ部長は元気?」
「うん、元気だよ。穂高君が教えるようになってから、飛び甲斐があるって、いつも張り切ってる」
そう困ったような口調で言う桜だったが、表情はうれし気だった。
「穂高君は?」
「僕はこの間、また大学の依頼で飛んできた。それ以外は、いつも通りだ」
「わぁ……テストパイロットだね!」
そうキラキラと輝く――片方の目は物理的に輝いていた――瞳で言う桜。
「カオリちゃんも、テストパイロットやるんだー、って、張り切ってアルバイト探してたよ」
「恵那さんが?」
「うん、穂高君に負けてられないって」
ライバル視は変わらないようだ。ユーリは苦笑いを浮かべつつ、ごみ箱をもちなおす。
「じゃあ、教室の掃除があるから」
「うん、じゃあねー……って、あ、穂高君!」
桜が言うのに振り向く。彼女もゴミ箱を持ち直し、列の流れに沿って歩きながらユーリの方を振り向いて言った。
「今日の部活、忘れないでね!」
「もちろん。この後、ちゃんと行くさ」
ユーリは片手をひらひらと器用に振ると、その場を去った。




