01/Sub:"エクスペリメント・フライト"
銀翼が、青空を切り裂く。
「ウェイポイント4を通過、目標まで残り3キロ」
『残り3キロ、了解。バルーンを放出する。進入を許可』
「バルーン放出了解。アプローチに入る」
通信を聞いてからユーリは緩やかに速度と高度を落とし始める。翼を広げ、抵抗を増しつつ揚力を確保する。対気速度がみるみるうちに落ちて行く。140、120、100。10,000フィートから降下しつつ、目標の1,500フィートを目指す。目の前に広がるのは山と山の間、千曲川が侵食した土砂が堆積してできた盆地の平野だ。その一角、ARグラスのHMDに表示されている目標を目指す。ウェイポイント5を通過。いよいよだ。
ユーリはいつものフライトスーツ姿に、深紅のARグラスを着けていた。バンドでしっかりと頭に固定されていること以外は、スポーツ用のサングラスの様にスタイリッシュな見た目のそれに、様々な情報が表示されている。
「ウェイポイント5通過、アプローチ」
通信機につぶやく。ぐるりと一八〇度ロール。天地がひっくり返り、背面飛行の姿勢に。そのままユーリは緩やかにピッチアップし、地面へ向けて吸い込まれるように急降下を開始する。翼がさっと白い減圧雲のヴェールを纏い、すぐに瞬いて消えた。高度が凄まじい勢いで落ちる。ユーリはさらにピッチアップ。スプリットSを完遂し、水平飛行に戻ってくる。高度は目標の1,500フィート。対気速度200ノット。凄まじい勢いで後ろに流れていき、ブラシをかけたようにかすれる眼下の景色。川と河川敷が交互に流れていく。ユーリの視線は、真っすぐ進行方向に向けられている。瞬きする間も惜しんで、真っすぐそれを見据える。HMDの視界の中に表示される、四角い緑色の、ターゲットマーク。その右下に表示される数字が、みるみるうちに減っていく。ユーリは腹にハーネスで巻き付けた装置のそれを、引っ張り出して空に流した。
流したそれは、空中でばね仕掛けにより展開する鉤爪だった。メカニカルな音と共に、傘の様に畳まれていた鉤爪が開く。三股のそれは、釣り針と言うよりは錨の方が似ている。鉤爪は気流に流されてユーリの後方に垂れ下がった。HMDに表示される数値は、残り3,000メートル。
視界の真ん中に、白い小さなバルーン、そして赤いリボン。
一瞬で視界のすぐ下を、白いバルーンとリボンが通り過ぎていった。同時にぐい、と胴体のハーネスが締まる。その感触を感じた瞬間、ユーリは急上昇。翼端から白い、糸のような飛行機雲を空に引く。力はどんどん強くなっていき、そしてあるところで急になくなった。ユーリは上昇を続ける。
『成功だ! パッケージは無事に飛んでったぞ!』
「了解。水平飛行へ移行後、回収します」
ユーリは高度5,000フィートへ上昇後、小さく進路を調整。そしてそのまま上昇率を緩やかに落としていき、水平飛行に移った。腹部に取り付けた装置から伸びる細いロープを、釣り竿のリールの様な小さなウインチで巻きとっていく。釣り糸よりやや太い程度の黒く細い糸は、頼りないがこう見えてCNT繊維製で、聞いたところによると大型トラックを持ち上げられるほどの強度があるらしい。そうは聞いていてもその糸の細さにどこか不安を覚えつつも、ユーリは糸を巻き取っていく。糸を巻き取った先にあったのは、割れてビニール袋か何かの様にたなびく風船と、その中のフックをしっかりと保持して食虫植物の様に閉じた鉤爪だった。リールをロックし、その先にたなびく糸を手動で手繰り寄せる。
「おっと」
どうもこの糸、滑りやすい。バランスを崩さないように、そして進行方向に注意しながら飛行しつつ、糸を手繰り寄せるというのはやってみるとなかなか気を遣う。そうして手繰り寄せた糸を肩に輪にして掛けていって、その重みをわずかに感じ始めたところで、ようやく終点が見えてきた。黒い細い糸が、急に白いリボンの様なものに変化していて、その先にぶら下がっているのは、ランドセルほどの白い箱。ユーリは慎重にそれを抱えると、ようやく一息ついた。
「無事に回収しました。これより帰投します」
『お疲れ様。きっといいデータが取れているだろう』
通信機の向こうで若い男の声が響く。
今回の実験は、いつもの大気物理学・気象学の研究室のそれではなかった。声がかかったのは、人間工学の研究室。なんと、大昔に絶滅したはずの『フルトン回収』を復活させようとしているらしい。需要はあるかどうかはともかく、飛行種族によるフルトン回収の可能性を模索したいらしく、それで今回ユーリの所に大学経由で話が回ってきた。報酬も、いつものよりも少し色目がついていた。
ユーリが両手に抱えている白い箱は、内部にダミーの重りと各種センサーが入っている。どういったものが運べるのか、そういうのに関して計測するらしいが、回収した側のユーリとしては、これは中に『壊れ物』が入っていたら間違いなく無残な姿になっているだろうな、というのが率直な感想だった。あまり重いものや大きい物だと、飛行時のバランスを崩すだろう。なかなか問題は多そうだ。
ユーリは緩やかに左旋回。一八〇度旋回後、高度を緩やかに落としつつ、速度を同時に落としていく。先程のコンバットマニューバすれすれのものではない、『紳士的』な降下。翼をゆっくりと広げ、魔術式で翼表面の気流と境界層を制御し、高揚力装置のそれの様に揚力と抵抗を増やしていく。ランディングポイントを目視で確認。障害物なし。
「これから着陸します」
『了解ですわ、着陸を許可』
無線機の向こうから聞こえてくるアンジェリカの声。ユーリは小さく笑みを浮かべつっつ、着陸地点に向けてゆっくりと降下していく。100ノット。地面まではもう500フィートほどしかない。ILSもPAPIもない中、高度計の表示とHMDの表示に時々目をやりつつ降下。フライトパスマーカーは着陸目標地点の少し手前を示していた。ARグラスはフライトスーツの機関部に搭載された超音波式のAOAセンサーの情報を、素早く表示する。ユーリはそれと自分の感覚に誤差がないことを感じつつ、最終アプローチに入る。眼下の千曲川の水面が途切れ、河川敷の草原に切り替わった。
高度100、50、40、30、20、10。機首上げ。
翼を大きく広げ、失速する勢いで抵抗を増す。それで対気速度をほぼ殺し、地面に触れるようにタッチダウン。残った勢いを、小走りしながら翼をはためかせて打ち消す。完全に地面に降り立ち、翼を畳むと研究室のメンバーと、涼しそうな白いシャツと赤いスカートのアンジェリカが寄ってきた。研究室のメンバーにパッケージを渡すと、ユーリに群がって腰の装置のベルトを外し始める。まるで帰還した戦闘機だ、とユーリはどこかおかしく感じた。
「お疲れ様ですわ、ユーリ」
「どうも」
アンジェリカが差し出してきた水筒を受け取ると、口をつけて傾ける。スポーツドリンクの柑橘類の様な味が喉を通って胃に落ちて行く。地上はもうすっかり梅雨が明けて夏で、むわりと包み込むような熱気が満ちていた。この熱気は太平洋の方から日本にまで北上してくるものらしい。気象学の教授に教わったことを思い出しながらスポーツドリンクを飲むと、なんだか南国にいるような気分になってくる。
「いやあ、無事に済んでよかった」
ユーリに話しかけてきたのは、若い男の助教授。人間工学の研究グループの一員で、今回の実験をユーリに持ち込んできた本人だ。ユーリの装置の取り外しが終わり、大きなウェストポーチの様なそれをもってぞろぞろと研究生が片づけを行う中、ユーリはあ、そうだ、と先程の感想を述べた。
「引っ掛けた後に荷物を回収するのが、結構難しかったです。何らかの機構か、それかいっそのことぶら下げっぱなしの方がいいかもしれません」
「ふむ……他に何か、気づいたことは?」
ユーリは、研究生が開けているパッケージをちらりと横目で見て、それから小さくため息をつきながら言った。
「『割れ物注意』の荷物は、引き受けない方がいいかもしれません」
「あー……まぁ、予想はしていた範囲だ。ショックアブソーバーを改良できるまで、それは課題だな」
「あのリボンの様な見た目のが、でして?」
アンジェリカがパッケージの先に繋がっていた物を指して言う。
「そうだ。あの中にケーブルを折りたたんで入れていて、両側から柔らかい接着剤で挟んである。強く引っ張ると、接着剤が剥がれつつ抵抗となる仕組みだ」
ほう、とアンジェリカが感心したような声を上げる。
「ともかく、君が来てくれて良かったよ。はい、報酬だ」
そう言って懐から取り出した茶封筒を渡してくる。ユーリはそれを受け取ると、失礼、と言って中身を確認する。
「……こんなに?」
「いや、実のところ、成功するとは思ってなかったんだ。事前実験の時は失敗もあったし、実験も断られてた」
あー、とユーリは納得したような声を上げる。正直、ユーリでも今回のこれは難しいと思った。降下しつつ、飛行速度を維持したままフックに物を引っかけるというのは至難の業だ。横風があったりしあたら、ユーリでも上手く行っていたかどうかわからない。
「もう少し、回収装置を改良する必要がありそうですわね」
これが研究の道楽ではなく、世に解き放つために研究するのなら。アンジェリカの言葉には、そういう意味が重ねられていた。
「そうだねえ……最終的には、人の回収を行いたいとも思っている」
「ふむん?」
ユーリが今度は声を上げる番だった。助教授は、どこか恥ずかし気に、だけど目を輝かせながら言う。
「ヘリやティルトローター機でさえ着陸できないような場所で荷物のやり取りをできるのは、君たちの様な飛行種族だ。だとすると、緊急の人の搬送や荷物の回収など、応用できる分野は多い。私はそう考えている」
飛行種族の配達便はすでにサービスが行われているが、あくまで市街地などだ。それには着陸場所が限られる、というのもある。その制限がなくなると思うと、確かに魅力的な面もあるだろう。
まぁ、と助教授が少し困ったように言う。
「人を運ぶ実験は、なかなか難しいだろうね。運ぶ人の命が関わってくる訳だし」
「あら、それなら問題なくてよ?」
そこで、アンジェリカが言う。彼女は胸を張って、胸元に手を当てて言った。
「わたくしは吸血鬼ですわ。地面に落下して染みになったくらいでは、なんともありませんわ」
「あー、アンジー、前に首が飛んだって言ってたよね」
アンジェリカのその発言とユーリの反応に、助教授はすこしたじろくが、すぐに気を取り直してぎこちない笑みを浮かべた。
「ま、まぁ、じゃあその時は君たちにまたお願いするよ」
「えぇ。貴方がたの研究が実を結ぶことを、心から願っていますわ」
それでは、ごきげんよう。アンジェリカが恭しく挨拶をするのに、ユーリも挨拶をしてその場を離れる。土手の上に、大学の共用車の銀色のバンが止まっていた。
「お待たせしましたわ」
「見てたわ。凄いわね、穂高君」
土手の上に昇ると、そこにいたのは百合香だった。白い半そでのシャツに、赤みがかった黒いタイトスカート。クールビズというやつだろうか。
「ともかく、無事に終わって良かったです」ユーリは、ちらりとバンの方を見る。「わざわざありがとうございます。送り迎えまで」
「いいのよ。教授も、紹介した手前ってものがあるもの。ほら、乗って」
そう言って三人でバンに乗り込む。アンジェリカとユーリは後部座席に、百合香は運転席に。ドアを閉じると、後片付けをしている研究グループと助教授が見える。彼がこちらに気付くと、手を振ってきた。
車が走り出す。彼は、姿が見えなくなるまでずっと手を振っていた。




