31/Sub:"オペレーション:インセンティブ・アフタヌーン"/後編
『こちら穂高、問題ないよ。盛大に盛り上げておいた』
カオリからの通信が入る。ユーリがそれに返答すると、勘弁してよ、と通信の向こうでカオリが苦笑いを漏らす。
『ハードル上がっちゃったじゃん。ちょっと見えたよ。凄い機動だったね』
『だったら何よりだ。こっちも特訓した甲斐があったよ――上昇を開始。FL30まで上昇』
ユーリは緩やかにピッチアップ。それと同時に推力を増し、速度を維持したまま高度を上げていく。ほぼ垂直に近いハイレートクライム。
『特訓? 自主練もしてたの?』
カオリがユーリの合流に備えて幅の広い編隊を組みながらユーリに尋ねる。
『うん。咲江先生と』
『咲江先生……あぁ、吾妻理事長補佐代理、だったっけ?』
『うん、あの人』
『え? あの人飛べたの?』
通信の向こうでカオリが疑問符を浮かべるが、ユーリはそうだよ、とどこか嬉しそうに返した。
『あの人、パイロットだよ』
『……嘘!?』
ユーリは驚いているカオリの居る高度まで上がってくると、緩やかに上昇率を落とし、水平飛行に移る。そしてそのまま滑らかに編隊の真ん中に滑り込んで、綺麗な逆V字の編隊を組んだ。
『さぁ、後半戦だ。みんな、行くよ』
『了解』
全員で綺麗に編隊を組みながら、緩やかに旋回。編隊を崩すことなく、空に弧を描く。大きな円を描いて、校庭の上空に戻ってくる。
『スモーク、準備』
『レディ』
ユーリの合図で各員がスモークのハンドクリップを軽く握る。あとはもう少し強く押すだけだ。
『オンマイマーク……3、2、1、マーク!』
一斉にグリップを握りしめ、スモークが噴き出る。全員で飛行機雲の縞模様を青空に引きながら、校庭上空に差し掛かった。
『さあ、開幕だ――オンマイマーク。3、2、1……ブレイク、ブレイク!』
綺麗な逆V字から、翼たちは一斉に散開。空に綺麗な白い扇を描き出した。
観客席から歓声が上がる。散開した翼が描く模様は地上の人々の目をくぎ付けにし、ひとつ、またひとつと空に新たな模様が描かれていく。
開け放たれた教室の窓から、この季節には珍しい涼しい風が吹き込んでくる。風に乗って、観客席の歓声が流れてきた。
その様子を、アリアンナはただ窓から見上げていた。彼女の帽子は脱いで椅子に掛けられ、編んでいた三つ編みは解かれてその長い髪を風にたなびかせている。彼女の紅い瞳は、空を舞う蒼穹の銀龍と、青い空を映していた。
教室はすっかり人がいなくなっていた。みんなユーリの飛行に見入って、教室を飛び出して校庭に走っていった。おかげで仕事にもならない。
「相変わらず、綺麗に飛びますこと」
一人、残っていたアンジェリカがアリアンナの横に来て、そっと窓枠に手をかける。散開した翼がまた一つに集まり、綺麗な編隊を組んで上空をフライパス。ユーリの飛行術式が響かせる、遠雷の様な轟音がこだまする。
アンジェリカとアリアンナ。二人きり。
「告白、したのでしょう?」
アンジェリカが何の気なしに言ったことに、アリアンナは思わず彼女の方を振り向き、目を見開いた。アンジェリカは小さく微笑みを浮かべて空を見上げているだけで、こちらを見向きもしない。
「ユーリ兄さんから聞いたの?」
「いいえ」
なら、とアリアンナが言おうとしたところで、アンジェリカがゆっくりと彼女の方を振り向く。柔らかい笑みを浮かべるアンジェリカ。それは、とてもじゃないが恋敵に向けるような表情ではなかった。
「わたくしは貴方のお姉ちゃんですわよ? 妹のことくらい、お見通しですわ」
「……はは」
アリアンナは力なく笑うと、再び空を見上げる。先程の逆V字から一転して、一列に編隊を組んだユーリ達が校舎の上で旋回する。完璧にタイミングと軌跡を一致させた旋回。その緩やかな弧の一番内側にいたユーリだけが、鋭く、翼の端から飛行機雲を引いた。
「それで」アンジェリカは優し気な口調で続ける。「返事は、貰えまして?」
「いいや、『少しだけ待って』だって」
アリアンナは空を見つめ続ける。銀翼が青空を切り裂いていく。
「あら、ならよいではないですか」
アンジェリカがそう、どこか呑気に言う。アリアンナが小さく彼女を睨みつけると、それを見越していたかのようにアンジェリカは不敵な笑みを浮かべてアリアンナを見つめ返していた。
「ユーリの『少し待って』は、本当に『少し』ですわよ」
「……どうして、そう思うの?」
青空の中、順々に逆V字の編隊が分かれる。白いスモークを引きながら、空で各々綺麗な円を描き、そして再び編隊に戻る。中央のユーリは縦に大きな円を描いた。
「あら? 貴方はユーリのことが信じられないの?」
「そんなわけ!」
ない、と言おうとしてアリアンナは言葉を詰まらせ、そしてそのまま不安げなまなざしで空を見上げた。アンジェリカはそんなアリアンナをじっと見つめると、小さくため息をついて、少し困ったような笑みを浮かべる。
「わたくしは」アンジェリカはちらり、と空を見やり、そしてアリアンナに向き直った。「ユーリを、信じていますわ。必ず、答えを出すと。わたくしの隣に戻ってくると」
「……ボクは」
アリアンナは、ただ空を見つめ続ける。
白い雲が散る青空の中、銀色の翼を翻し、竜が空を支配する。遠雷の様な轟音を響かせ、翼で対流圏の濃密な大気を切り裂き、爪痕の様に飛行機雲を残して重力の鎖の外側へ。
「ボクは……ずっと、このままがよかったんだ」
アリアンナはぽつり、ぽつり、と。降り出した雨の様に静かにつぶやきだす。
「ユーリ兄さんと、アンジェリカ姉さんと、アリシア姉さんがいて。みんなで集まって騒いで、暮らして、ユーリ兄さんのことは、みんなが好きで……」
「いいえ。わたくしとユーリは、あの青色の先へ行く。ストラトポーズを、超える」
「……だよね。うん。そうだよ」
アリアンナは空を見上げたまま、心があふれるようにつぶやき続ける。それをアンジェリカは、静かに見つめた。
「ボクには、そんなのいらなかったんだ」アリアンナの視界の中で、ユーリが太陽と重なった。「ただ、お兄ちゃんで、あの帽子をかぶせてくれた頃のままのユーリお兄ちゃんで、いてほしかったんだ」
その声には、どうしようもない、身勝手なアリアンナという少女の願望が込められていた。
二人の間に沈黙が流れる。ふわり、と温かい風が教室に吹き込んできた。
「アンナは、それでよくて?」
「……そんなわけ、ないよ」
この気持ちは、そうやすやすと区切りをつけられるものではない。
変わるのが怖かった。変わっても一緒にいて欲しかった。この想いは、決してそう簡単にあきらめて、まるで微睡の時に見る朧げな夢のように、忘れてたまるもんか。
そんなアリアンナの様子を見て、アンジェリカは、よかった、と安心した笑みを浮かべる。小さく驚いたような表情でアリアンナがアンジェリカに振り向くと、アンジェリカは静かに空を見上げた。
「なら、丁度いいですわね。それに向こうの答えも、出たようですし」
「答え……?」
アリアンナは、つられて思わず空を見上げた。
青空の中、端からほどけて一人ずつ降下していく編隊。その中央で、青空の中で輝く光。その光は小さく輝くと、急に速度を増してぐん、と高度を上げていく。青空の真っただ中へ、吸い込まれていくように。他の隊員も異変に気付いたのか、降下を途中でやめるが、通信があったのか再び降下を開始する。
光は緩やかに上昇をやめると、速度を増しつつ滑らかに旋回。細い糸のような飛行機雲を青空に引きながら空を切り裂いていく。白煙。光がスモークを炊き、なめらかな弧を描く軌跡に沿って白い弧を青のコントラストの中に描いてく。始めは滑らかに、そして途中で急旋回。一八〇度旋回して半円を描いたところで、急に軌跡が乱れた。
ポストストール・マニューバ。
途中まで行ったクルビットでそのまま急激に二七〇度進路を変え、再び半円を急旋回で描き、そして滑らかに旋回を続ける。
「……ああ!」
アリアンナの見つめる先、空に描かれたのは、大きなハートマークだった。
そうか、これがユーリ兄さんの『答え』なんだね。アリアンナは今、彼を理解する。彼の居場所は大空でも、そこに皆を連れていく覚悟がある。そのために翼を羽ばたかせる。
「大きな愛ですこと」アンジェリカは、満足げにほほ笑んだ。「わたくしたち皆でも、不足はないですわね」
観客席からの割れるような歓声が響く中、アリアンナはアンジェリカに小さく改まって、向き直った。アンジェリカも、アリアンナに向き直る。
小さく充血したままの目で、アリアンナはアンジェリカに、その想いを込めて言う。
「姉さん」
「なに? アリアンナ」
「ボクは、ユーリが好き」
「ええ、わたくしもユーリが好き」
しばらくそうして見つめ合う。そして、少ししてからお互いクスクスと笑い出した。
「モテる人を好きになるって、大変だね」
「ええ。でもその価値は、十分ありましてよ?」
「姉さんは、いいの?」
「ええ、わたくしは」アンジェリカは、どこまでも不敵に嗤う。「ユーリのことを誰が好きになろうと、ユーリはわたくしの隣にいて、ユーリがわたくしのことを愛していれば、それで全てですわ!」
ユーリに勝るとも劣らない彼女の『愛』を、アンジェリカは高らかに謳いあげる。叶わないなぁ、と、アリアンナは苦笑いを浮かべた。二人で青空を見上げる。梅雨の切れ間の、僅かな安定した大気の中、青空に浮かぶハートマークは静かに空に浮かび続ける。
「ユーリ兄さんも、これから大変だろうなぁ」
「ええ。でもみんなで幸せになると決めたんですもの。我儘は、押し通させてもらいますわ」
まずは、とアンジェリカが言う。
「アリシア姉様の中に、火をつけさせてもらいましょうか」
「咲江さんは?」
「もう手遅れですわ!」
そんな得意げに言うことかなぁ、とアリアンナは言うが、その顔はどこまでも楽し気だ。
空ではユーリが高度を落としてくる。銀色の竜が天界から地上へと戻ってきて、校庭の上空を猛スピードでフライパスした。遷音速の轟音が、校舎を揺るがした。呆れたように小さく肩をすくめるアンジェリカに、どこまでも楽しそうなアリアンナ。
二人は、ユーリを迎えに教室を後にする。
六月の温かい風が、開け放たれた窓の先の空から、教室に吹き込み続けていた。
夏が、すぐそこまで来ている。
すべて、圧倒的だった。
その前に、自身のちっぽけな疑念は、すべて吹き飛ばされた。
「……穂高、有理くん」
彼女は理解した。なぜ彼が、地上のあらゆるものに。人間関係だとか、責務だとか、序列などに、興味を持っていないのか。
「私は、どうして」
彼女は羨んだ。あの透き通るような群青は、鮮烈な紅と寄り添う。自分にそっくりで、自分とは正反対の、あの赤色と。
金色の髪の少女。青い瞳は群青を静かに映す。空を舞う銀色の竜。
――大空こそが、彼の居場所だったのだ。
皐月院絵理沙は、静かに空を見つめ続けていた。




