27/Sub:"執事喫茶"
客足はだんだんと衰えてくる。流石に昼が近くなると、喫茶店に入るわけにもいかないらしく、学食や表の屋台に向かう客が多くなってくるようだ。ユーリのクラスの出し物の喫茶店はもうがらんとしはじめていて、先程までの忙しさはなくなってくる。しかし、その分一人一人の客に対応する時間も長くなってきていた。
「それでは、行ってらっしゃいませ、お嬢様」
「はぅ……」
ユーリが退出する女子生徒に、ぴっちりと挨拶をする。女子生徒は顔を赤くしながら教室を出ていった。今のが最後のお客さんだっけ、とユーリは教室内を見渡す。教室内にはもう店員しかいなかった。
「お疲れ様」
男子生徒の一人がユーリにドリンクの入ったコップを渡してくる。ありがとう、とユーリは受け取ると、中身を飲み干した。口に抜けるさわやかな甘酸っぱい味。人工甘味料のない果実本来の味がする。アンジェリカがこの喫茶店の為に、実家の輸入業から格安のほぼ原価で仕入れた、ブラッドオレンジのオレンジジュースだった。
「大丈夫なの? お客さん用のでしょ、これ」
「みんなアイスティーばっか頼んで、余りがちだったからかまわねぇよ」男子生徒は、自分のぶん、と言わんばかりに自分のコップにジュースを注いで飲んだ。「珍しい味がするが、悪くないな」
取引している商店か、はたまた輸出業者と繋がりがあるのか、ゲルラホフスカ家でこの商品を取り扱うことは昔からあった。ユーリも、そういえばアンジェリカの家に遊びに行ったときに出されて飲んでいたのはいつもこれだったな、と懐かしい記憶を思い出す。
ユーリが首元のネクタイを緩めながら小さく息をつくと、隣の男子生徒が怪訝な目でユーリを見つめる。ユーリが小さく首をかしげると、男子生徒は呆れたようにため息をつく。
「いや、ハンサムな奴がやることは、何にしても絵になるな、って思っただけだ」
「ハンサム、とな」
「ああ、なんつうか、見た目の良さもそうなんだが……こう、立ち振る舞いとか、真っすぐ前を見てる所というか、軸がぶれてないというか……」
男子生徒は言葉が見つからない、と言った様子であー、とかうー、とか上に視線を逸らしながら唸っていたが、観念したようにユーリが持っていたコップにオレンジジュースを注ぐ。
「まあ、俺が思っていたよりも、かっこいい人間だな、と思っただけだ」
噂なんてあてにならんな、と言って男子生徒は自分のコップにジュースを注いだ。ユーリは、教室の中の様子をどこか俯瞰するようにして眺めてつぶやく。
「……噂なんて、人が聞いたことを自分なり解釈して、それを流しているからね。伝言ゲームと同じさ」
「なるほど、濾過して薄まった、ぼやけたプーってことか」
「そうだよ。自分の目で確かめるのが、一番だ」
ユーリの視線が自然と窓の外に移る。窓の外に広がるのは、空に散らばる雨雲だった雲の群れと、そしてその向こうに散らばる、青い空。空気中の粉塵が洗い流されて、澄み切った空気の先に見えるそれは、いつもよりも青く、深い色をのぞかせていた。
「そういえば」そこで、男子生徒は急に思い出したように言った。「穂高、午後の飛行部のアクロバットに出るんだっけか」
「そうだけど、それが?」
何か急な仕事でも入りそう? と尋ねると、いや、そうじゃなくて、と男子生徒が返す。
「いや、穂高が飛ぶの、折角だったらこの教室から見られたらなー……って」
男子生徒はどこか恥ずかしそうに言う。ユーリは冷静に、窓の方を見返した。
「別にいいんじゃないかな。この教室からはグラウンドが見渡せる。最上階に比べればだけど、十分特等席だと思う」
「! そうか、ならよかった!」
どこか楽しそうに言う男子生徒に、ユーリは小さく微笑む。
「戻りましたわ!」
はっきり通る声が教室の入り口から響いてくる。思わずそちらの方を振り向くと、看板を持ったアンジェリカと何人かの女子生徒が入口から入ってきた。どうやら、外回りの宣伝から戻ってきたようだ。
「お帰り、アンジー」
「あら、わたくしにはお嬢様と言ってくださらないの?」
そう意地悪に笑うアンジェリカに、ユーリは困ったような笑顔を浮かべるが、それでもどこか嬉しそうに、静かに傅いた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ええ、ただいま」
そう二人がやり取りすると、周囲から黄色い声が上がった。
「やっぱりあの二人、『絵になる』よねぇ」
アンジェリカが引き連れていた女子生徒の一人がどこかうっとりした様子で言う。ユーリは小さく肩をすくめたが、アンジェリカは胸を張って言った。
「当然ですわ。わたくしとユーリはいわば一心同体。わたくしのことを一番理解してくれているのがユーリで、ユーリを一番理解しているのがわたくしですもの」
自信満々に言うアンジェリカに、ユーリは心の中で随分見栄を切ったな、と思いつつも、まあその通りなんだけどね、と惚気る。安いコスプレ衣装とは言え、メイド服をぴっちりと着こなすアンジェリカは美しいと思っていたし、格好いいと思っていた。お互いの理解と、一蓮托生。二人の仲はそこまで深まっているとユーリは確信していた、アンジェリカも確信していた。アンジェリカがユーリの手に持っているものを見つけると、あら、と小さくつぶやく。
「あら、ユーリ、一口くださる?」
「はい、アンジー。お疲れ」
自分のコップをアンジェリカに差し出す。自分の飲みかけだったが、ユーリは気にせずに差し出した。アンジェリカも気にせずに受け取る。静かに、だけどんく、んく、とジュースを彼女は飲み干して、ふぅ、と小さく息をついた。
「ふふ、この味。やっぱり安心しますわね」
「でも、余りがちだったみたいだ。どうにかしないとね」
ユーリがそう言うと、ふむ、とアンジェリカは顎に手を当てる。
「あまりなじみのない物だから、でしょうか」
「いっそのこと、透明なコップを使ってみるのはどうだろう。見栄えがすれば、他のお客さんのを見た別のお客さんも気になって、頼むかも」
「なるほど、それはいいかもしれませんわね」
まだ予算が残っていたはず。今日、帰りがけに百円ショップで透明なコップを買うか、プラスチックの透明なコップを買えればいいだろう。
すっかり教室は休憩ムードに入っている。アンジェリカも、この時間帯には客は来ないのを見込んでいたのか、どこかリラックスした様子になっていた。
「そういえば」
教室の中の様子を、隅の方で静かにアンジェリカと二人眺めていたユーリは、ふと思い出したことをつぶやいた。
「あら? 何かありましたの?」
「いや、アンジーがいない間、皐月院さんが来たよ」
ほう。そうアンジェリカが言うと同時に、彼女の目に剣呑な光が宿った。
「ユーリ、何かされませんでした?」
すると、ユーリは少しわざとらしく首を横に振った。
「別に、何もされてないよ。ただお客さんとして来て、それに従業員として対応しただけだ」
「……そうですの」
そう言うと、アンジェリカは顎に手を当てて何やら考える姿勢を取る。彼女にとっては、どうやら絵理沙とユーリが接触したということがそこまで気がかりな事象らしい。大袈裟だよ、とユーリは思わずつぶやいた。
「だと、いいのですけれどね」
「あー、妙に敵対視されてる、とか」
「ご明察」
アンジェリカは小さくため息をついた。ユーリも彼女の様子に、あのような感じで毎回喧嘩腰で突っかかられては溜まったものではないだろうな、とどこか同情的な気持ちを抱いた。
「ユーリ、貴方も似たような対応を?」
「うーん、だけど」ユーリは先程の絵理沙とのやり取りを思い出す。「どこか、敵意と言うよりは、違う雰囲気がしたなあ」
「ふむん?」
アンジェリカが興味深そうな瞳で見つめてくる。ユーリはうん、うん、と小さく頷いて
先程までの感覚を整理し、言語化する。
「なんというか、敵意というよりは、余裕がない様な。あと、これは思いすぎかもしれないんだけれど」
「構いませんわ。貴方がそう感じた、その情報だけで価値がありますから」
アンジェリカがそう言うのに、ユーリはなら、と直感的に思いついたそれを口に出す。
「なんか、羨ましがられてる。そんな感じがする」
ユーリがそう言うと、アンジェリカは小さく目を丸くした。よっぽど意外だったらしく、目を白黒させている。そんな彼女の様子が少しおかしくて、小さくくすくすと笑うユーリに、アンジェリカは眉を顰めた。
「何か、不思議なことでも?」
「いや、だけどこれは完全に僕の勘なんだけれど」
ユーリは、アンジェリカを見つめる。彼の、金色の竜の瞳に、アンジェリカの紅い吸血鬼の瞳が映り込んだ。
「皐月院さんとは、仲良くなれそうな気がする」
「ほう?」
「なんて言えばいいのだろう。初めて会った時からそうだったんだけれども、なんだか彼女、アンジーに似てる気がするんだ」
「わたくしに?」
「うん。理由はわからないけれど」
鳩が豆鉄砲でも食らったような表情で小さく呆けるアンジェリカ。ユーリも、なんでそう思ったのか、それもわからなかったが。
「……わたくしも、もう少し彼女と話してみるべきなのかしら」
アンジェリカが小さくつぶやく。ユーリのその直感的な感想に、何か思うことがあったようで、その物言いはどこか憂いを含んでいた。ユーリは大丈夫、とアンジェリカに優しく語り掛ける。
「いざとなれば、僕も手助けするよ」
「あら? 貴方に?」
ユーリは優しい微笑みをアンジェリカに向けながら続ける。
「アンジーは、僕を皆と引き合わせて、僕に地上を教えてくれた。だから、今度は僕の番だ」
「……生意気ですわ!」
アンジェリカはユーリにさっと向き直ると、両手でむにむにとユーリの頬をつまむ。ユーリは小さく笑う。その光景を、周囲の生徒は小さく頬を染めながら見ていた――その時だった。
「うわっ!」
裏手の、仮設厨房の方で悲鳴が上がる。弾かれたようにユーリとアンジェリカが即座に行動。厨房に駆け込む。
「どうしましたの!?」
アンジェリカが叫ぶ中、厨房の中では、腹の部分が真っ赤に染まった男子生徒の姿。床に転がるのは、ブラッドオレンジジュースのコップ。
「ご、ごめん、手が滑って、思わずこぼしちゃって!」
男子生徒が叫ぶ。ユーリは、とりあえず無事なようで小さく安堵のため息をついた。
「しかし……これでは、洗うのが間に合いませんわね」
アンジェリカがそう言うのも納得だ。男子生徒の服は腹部にかけてそれこそ血の様に真っ赤に染まっていて、これから急いで学校の洗濯機を借りて干したとしても午後には間に合いそうにはない。生憎、コスプレの衣装には限りがあって、予備はなかった。
そこで、ユーリに小さく天啓が降りる。ユーリは自分のシフトを思い出しつつ、二人に対して提案する。
「僕の衣装を使えばいい。生憎体形は似てるから――彼には少し小さいかもしれないけど、着れるはずだ。僕は午後はシフトから外れてるから、着る必要はない」
すまん。そう男子生徒が言うのにユーリは気にしないで、と言ってその場を後にして更衣室に入る。いそいそと服を脱いでいると、しゃっ、とカーテンが開いて中に人影が入ってくる。飛び込んできたのは、アンジェリカだった。
「あ、アンじ――むぐっ!」
口を手で覆われる。アンジェリカの表情は、どこか不満げであった。
「ユーリ、わたくし、貴方に仕事をもう少し頼みたいところでしたの」
「仕事?」
「ええ。午前中はわたくし。午後は、フライトの時間まではユーリにこれを頼むつもりでしたの」
そう言ってアンジェリカが持っていた物を掲げる。持っていたのは『メイド&執事喫茶』の看板。
「宣伝を、僕に?」
「ええ。ユーリ、ひいき目に見ていたとしてもかなりハンサムですし、これ以上ない適役でしたのに。生憎わたくし、学園祭だからと言って手を抜くつもりはありませんでしてよ」
ううむ、とユーリは唸る。先程男子生徒に言われたのもそうだが、どうやら自分の業務に対する影響は自分が思っている以上に大きかったらしい。だが優先順位を考えると、宣伝する自分よりもシフトに入る彼の方が優先度は高い。どうしたものか、とユーリは服を脱ぎかけの状態で考える。
「あっ」
考えて、そこで、更衣室の壁に掛けられたままの、銀色のウィッグが目に入った。




