22/Sub:"予兆"
どこか強烈に疲れた気がする。先程まで見えていたアリシアの痴態は見なかったことにして、ユーリはアンジェリカと自分の部屋に入る。入ると耳に飛び込んでくるのは、シャワーの音。
「アンジー?」
帰ってきていたのだろうか。ユーリは風呂場の前を素通りしてタンスに向かう。引き出しを開けて着替えを取り出すと、きゅっ、と小さな音と共にシャワーの水音が途切れる。
「アンジー、今日の夕飯は――」
「あ、ユーリにぃおかえり」
えっ、と声がかかった方向を振り向くと、そこにいたのは裸で、髪をほどいたアリアンナだった。一切を隠そうとせずに呑気に髪をタオルで拭いている彼女に、思わずユーリは悲鳴を上げた。
「きゃああああっ⁉」
思わず女の子の様な悲鳴を上げるユーリに、アリアンナはきょとんとした顔を一瞬浮かべた後、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「ふふふ、ボクの身体、じっくり見てみる?」
そう言って首にかけていたタオルを、まるでコートを広げるかのように両腕で広げてユーリに見せびらかしてくる。彼女のスラっと長い両腕両脚と、豊かな女性の象徴、そして白い雪原の様な肌が露わになって、思わずユーリは反射的に顔を逸らした。
「ふふふ」
どこか楽しそうに、だけど不満をにじませた笑みを浮かべるアリアンナ。ユーリがその笑いにびく、と小さく身体を震わせると、静かにアリアンナは前に、ユーリの方に歩き出す。
「アンナ、やめよう、こういう悪戯は、流石に笑えないよ」
「……へぇ、悪戯、かぁ」
妙なニュアンスに思わずユーリがアリアンナの方を向いた瞬間、彼の身体は宙を舞っていた。滑らかな、旅客機の離陸の様にふわりと宙に投げ出されて、気が付くとユーリは天蓋付きのベッドに背中から着地していた。思わず目を回していると、目の前がぬっと暗くなる。
「ねえ」アリアンナがベッドに音もなく上がり、ユーリの上で四つん這いになった。「ボクのこれは、悪戯かな?」
「な、何を……?」
アリアンナの、いつもは頭の後ろで一束の三つ編みにしている髪は解かれていた。彼女の長い髪がまるでカーテンの様に垂れ、ユーリの視界は薄暗い金色と、その先のアリアンナの貌だけになった。彼女の紅い瞳は様々な感情がごちゃ混ぜになったように揺らぎ、頬の紅潮はシャワーの熱ではなさそうだった。
「ねえ、ユーリ兄さん」
アリアンナの呼び名が、変わる。まずい、とユーリが思った瞬間、彼女の身体が、ぐぐ、とのしかかってきた。
「ボクのこの気持ちも、悪戯だと思う?」
「アリアンナ……」
義妹。アンジェリカの妹であり、幼いころから一緒にいた妹分。いつしか背が抜かされ、大人びた容貌になっても、彼女は変わらなかった。変わらないと、思っていた。その半分願いの様な思い込みを放置していた結果がこれだ。ユーリは目の前で自分の自由を奪っている彼女の気持ちに、答えを出せずにいた。
彼女の想いを受け入れる、それはアンジェリカへの裏切りになる。それは、ユーリとしては選びたくない選択肢だ。
「ユーリおにいちゃん……」
アリアンナが漏らした言葉にびくりと身体がこわばる。さわさわと身体を撫でられる感触と、ベッドからアンジェリカの匂いが立ち上ってきて脳が上手く動かなくなってくる。
「いけない事、してみる……?」
ゆっくりと、アリアンナの唇が目の前に近づいてきて――。
「――待って、アンナ」
ユーリがそっと、彼女のうなじに手を当てて押しとどめる。そのままゆっくり押し返すと、彼女はそれに抵抗なく従う。ユーリに跨った状態で、小さくうなだれる。
「……」
沈黙。そっと、ユーリの上から降りようとするアリアンナを、そっとユーリは抱きしめた。シャワーを浴びたばかりの彼女は温かく、薄いシャツを通して彼女の熱が伝わってくる。びくりと小さく震えたアリアンナが、おそるおそるユーリの背中に手を回してくる。
「……答えは、きっと出す」
ユーリがそう小さくつぶやくと、アリアンナがユーリをかき抱く腕の力が小さく強まった。ユーリは小さなころからそうしてきたように、彼女の背中を撫でてやる。徐々に、アリアンナがユーリを抱く力が弱まっていった。
「だから、今は待ってて」
「……うん」
そっと、アリアンナがベッドから降りる。小さくベッドのスプリングが軋み、どこかふらふらとした様子で洗面所に入ると、服を着ているのだろう、布の音が静かに響いた。
シャツとホットパンツだけを履いたアリアンナ。どこか頼りない足取りで部屋のドアに手をかけた。
「待って」
ユーリがそう言うと、アリアンナの手が止まった。ユーリはそっとベッドから降りると、アリアンナのもとにまで歩いていく。そうして小さく背伸びをすると、そっと彼女の左の頬に口づけをした。
「……とりあえず、今はここまで」
「……ずるいよ、ユーリにぃ」
そう言いつつも、うれしさが見える表情を浮かべてアリアンナは部屋を出ていった。
再び部屋に静けさが戻る。ユーリはベッドに再び腰掛けると、アリアンナが階段を登っていく音を聞き届け、そこでようやく深呼吸をするように深いため息をついた。
ユーリの心の中を、苦い罪悪感と甘酸っぱい感情が同時に埋め尽くす。頭を抱えたい気分でもあったが、手にアリアンナの熱が残っている気がして、頭に触れるのはどこか気がはばかられた。
「どうしよう、か」
アリアンナがユーリに向けている感情。それは間違いなく男女の恋慕の物だというのは前からうすうす気づいてはいたが、ユーリはアンジェリカに対してその感情を抱いている。
じゃあアリアンナへは?
家族としての愛情だけなのだろうか。だがアリアンナのことを家族としてだけではなく、一人の女性としても見ている自分はいないと言えるのだろうか。ユーリの頭の中でぐるぐると思考が回り続ける。
こんこん、と静かな部屋にノックの音が響いた――窓から。
「……?」
思わず音の方をユーリが向いて、そこでひっと小さく悲鳴を上げた。
そこには、窓の外に張り付いて部屋の中をギラギラと見つめるアンジェリカの姿があった。しかも丁寧に霊服である。
このまま開けない方がいいんじゃないか、とユーリの中で短絡的な発想が生まれたが、彼女の姿を見てすぐに霧散する。弾かれたようにベッドから降りると、窓まで近づいて行って開ける。アンジェリカは静かに開け放たれた窓から中に入ってくる。ヒールが静かに音を立てた。
「お楽しみのようでしたね」
「ぷぇぁ」
真顔でユーリに向かって言うアンジェリカに、彼がつぶれた蛙の様な声を上げる。その様子を見ていたアンジェリカは、ふっと表情を崩してほほ笑んだ。
「冗談ですわ」
「冗談に聞こえないよ……」
「それは貴方が冗談を冗談と思わなかっただけですわ」
そう言ってアンジェリカは霊服を解除した。赤いスカートに白いシャツの普段着を着た彼女がそこに現れた。腰が抜けたようにユーリはふらふらとベッドに腰を下ろす。アンジェリカは腕を組んで小さくため息をつくと、ユーリの隣に座った。肩と肩が触れ合うほどの距離。彼女の、薔薇の香りが漂ってきて鼻腔をくすぐる。
「で、ユーリはアンナのことはどう思っていますの?」
直球で尋ねてくるアンジェリカ。ユーリはどう答えるべきか迷って、結局思ったことをそのまま口にすることにする。
「……少なくとも、家族としては大事に思ってるよ」そうして、少し迷って次の言葉を紡ぐ。「同時に、義理の妹だけじゃなく一人の女性としても見ているかもしれないのは確かだ」
そう言うと、アンジェリカは意外にもどこか安心したような笑みを浮かべる。その表情に思わず面食らっていると、彼女は急に、かつ滑らかにユーリに顔を寄せると彼に口づけをする。ユーリの唇に柔らかい感触と、視界がアンジェリカの顔でいっぱいになった。数秒のふれあいののち、アンジェリカは静かにユーリから唇を離す。
「なら、問題はなさそうですわね」
え? とユーリが小さく声を上げると、アンジェリカは身体をベッドに投げ出す。彼女の視線は天蓋の方を向いているが、彼女の焦点はその先の屋根裏部屋で結ばれているようだった。
「貴方がアリアンナのことをそう見てくれているのなら、何も問題はありませんわ」
「え? え?」
疑問符を浮かべるユーリに、アンジェリカは含み気な笑みをただ浮かべるだけだ。混乱をしているユーリをよそに、アンジェリカは上半身をベッドから起こす。そしておもむろに、シャツを脱いでユーリの膝に乗せてくる。
「まあでも、けじめはつけませんとわね」
そう言ってするするとスカート、手袋やストッキングを脱いで、あっという間に下着姿になるアンジェリカ。ユーリが思わず脱いだ服を投げ渡されているのに混乱していると、スタスタと洗面所の、風呂場のドアを開いた。
「ユーリ、わたくし、今日はゆっくりお風呂に入りたい気分ですの」
「あ、うん」
「お背中、流してくださる?」
有無を言わさない、と言った雰囲気の言葉。ユーリは、ただただ頷いてアンジェリカと共に風呂場に入るしかなかった。




