20/Sub:"寄り道"
高高度にズーム上昇をかけたユーリは、ハイレートクライムの状態から緩やかに水平飛行に移る。高度は45,000フィート。旅客機の飛び交う高度よりも高く、この高度を飛んでいるのは長距離用の超音速旅客機か、戦闘機だけだ。境界層を挟んで頬を撫でる気流は、既にマイナス五〇度近い。対流圏を超えた成層圏の、稀薄な大気を大きく吸い込む。オゾンの匂いが、小さく鼻を刺した。
いつもとは違う、妙な充足感。マニューバが上手くできたことだけだろうか? そうではないと自分でも何となくわかるが、その正体がうまくつかめない。高高度を緩やかに左旋回し、熱したナイフでバターを切る様に滑らかに空に弧を描いていく。
まあいい、とりあえず降りよう。
一八〇度ロールすると、ダークブルーの空とスカイブルーの大地がひっくり返った。そのままピッチアップし、推力をアイドルへ。翼を小さく折りたたみ、ほぼ自由落下の様な体勢で地面へと真っすぐ降下していく。広がる日本列島の南の海上に、雲の列が連なっているのが見えた。きっともうすぐ梅雨だろう。
成層圏から対流圏へ。湿った空気が身体を包み込む。暖湿気が上層大気に入り込んでいるのか、いつもよりも温かいような気もする。降下を続けると、どんどん身体を圧迫する力が増してきた。大気の重みを肌で感じながら、電子航空免許端末をチェック。進路が重なる機がないことを確認し、TCASの警報にいち早く反応できるように心がける。
高度20,000フィートを切った。上昇と下降の間で位置がずれたようで、進路にあるのは北アルプスの山々だ。ユーリは緩やかにピッチアップし、降下率を落としていく。同時にアイドリング状態だった推力を徐々に増やし、水平飛行へと移る。高度13,000フィート。周囲の山々ともうさほど変わらない高度だ。もうもうと水蒸気を上げる焼岳を横目に見つつ、降下。谷筋の真ん中を飛ぶ。ときおりちらほらと見える自動車道は、すぐに山の中のトンネルへと吸い込まれていく。
谷筋をゆっくりと、丁寧に飛ぶ。飛行術式の音が谷あいに反響してこだまの様に響く中、右へ、左へ、緩やかな旋回を繰り返して飛ぶ。そうしているうちに谷は途切れ、山に囲まれた盆地が目の前に広がった。空港が近いので、そちらの管制空域や航空路に触れないようにしながら大きく迂回。湖を目指す。
緩やかに降下しつつ丘を越えると、目の前に黒い、大きな湖がぬっと姿を現した。帰ってきた、と思いつつ、離陸した場所を思い出して目の前の地形と照合する。そうやって、離陸した湖岸に向けて降下していった。湖岸の上を陸から湖へ向けてフライパス。眼下でわっと声が上がるのが聞こえた気がした。左に九〇度ロールし、急旋回。対気速度と高度を一気に殺す。一八〇度の旋回を終えて、オーバーヘッドアプローチ。水面に触れそうな高度まで降りてきたところで、翼をゆっくりと広げて抵抗と揚力を同時に増していく。
機首上げ。ほぼ垂直に立てた翼が一気に空気に押し付けられ、失速。びりびりと伝わる振動を感じつつ、翼端渦で盛大に湖面を泡立てながら、ユーリは軽やかに湖岸の砂の上に降り立った。
うまく着陸できたな、と思って顔を見上げると、こっちに向かって走ってくる飛行部員の方々。先頭を走るアルマのドスドスという足音が響く。うわっ、とユーリが小さく叫び声をあげる間もなく、彼はアルマに正面から抱きしめられ、全員にもみくちゃにされた。
「すげえ、すげえよ穂高! お前がいれば百人力だ!」
「むぐ、むぐお」
「すごいよ穂高君! 穂高君なら大会も行けるよ! 絶対!」
「穂高! さっきのあれどうやったんだ!? 教えてくれ!」
「これが成層圏の匂いかぁ……」
真っ先に突撃してきたアルマに思いっきり抱き着かれ、呼吸困難になる中必死で空気を求めて顔を上げる。もみくちゃにされる中、声をかけてアンジェリカが一人一人ユーリに絡む飛行部員を引きはがしていく。
「ほら皆さん、落ち着いてくださいまし。これから時間はたっぷりあるのですから」
含みを持った言い方をするアンジェリカを、ユーリはどこか恨めし気に見つめた。
「――ということがあったんです」
「へぇ」
週末。休みを持て余していると、同じく休みの咲江がユーリに声をかけてきて、二人で買い物に出かけることになった。昼になり、おなかも空いてきたところで何か気の利いた店を紹介しようとしたところ、ユーリの腹が盛大に鳴った。咲江は温かい笑みを浮かべると、お昼にしましょうか、と笑った。
そうしておすすめの店、として連れてこられたのは、商店街から少し外れたところにある、小さな、昔ながらの中華食堂。咲江は慣れた様子であんかけ焼きそばを一つ頼むと、ユーリにも聞いてきた。彼は、同じあんかけ焼きそばの大盛りを頼んだ。咲江はそれに焼売を頼むと、二人で向かい合わせの二人席に座り、そして今に至る。
注文した時に代金を支払い、もらった赤い硬紙の食券をテーブルに並べる。
「いいじゃない。いろんな飛び方を見る、って言うのは、いい経験になるわよ」
「でも、僕に教えられるか、って言うのもありまして」
ユーリは手元の、水の入った透明なコップに視線を落とす。給水機から氷水として水と一緒に出てきた小さな氷は、水の中で今にも溶けてしまいそうだった。
「教えるのも、勉強の一つよ」
「咲江さんも、そうだったんですか?」
すると、咲江は柔らかく笑った。
「ええ。もちろん」
咲江はユーリの眼を見つめる。彼女の桃色の瞳が、ユーリの不安そうに揺れる金色の瞳を見据えた。
「育てるってのは、案外面白い物よ? 自分の技術を教えた人が、どんどん自分に近づいてくる、ってのは」
「僕は、咲江教官に近づけていますか?」
ユーリがそう咲江に言うと、彼女は小さく目を見開いたあと、楽しそうな笑みを浮かべた。
「ええ、もちろん。だけど」咲江の眼がすう、と細まる。「簡単に、追いつかれる気もないわよ」
「……望むところですよ」
ユーリも冷や汗をかきながら、咲江を見返して言う。追いつける日は遠そうだが、追いつくつもりだ。そんなユーリの考えていることが察せたのか、咲江は不敵な笑みを浮かべた。
「お待たせしました」
そう言って横からゴトン、と静かに重そうな音を立てて置かれる皿。湯気を上げるそれに盛られていたのは、山盛りのあんかけ焼きそば。えっ、と一瞬停止するも、咲江はこれこれ、と言いながら割り箸を割る。
食べきれるだろうか、と思ってユーリも箸を割る。食べきれなかったら持ち帰りかなあ、と箸を突っ込んでみると、サクサクと音がした。む? と思って中華あんを箸で避けてみると、なるほど、揚げたかた焼きそばが中にはあった。揚げたてなのか、ほんのり熱気を帯びている。上手く割って箸でつまんであんと絡め、口に運ぶと、なるほど、これは旨い。
「美味しいです」
「でしょ? 昔からお気に入りなの」
どれくらい昔からお気に入りなんです、とはさすがに無粋だと思ってユーリは言葉を飲み込む。色褪せたプラスチックの醤油さしから、中に入った酢をかけてみると、香ばしい香りがふわりと立ち上った。
サクサクとしたかた焼きそばの食感に、和風の中華という、矛盾した風味を醸し出しているあんかけのあん。『昔ながらの』という言葉が似あうそれに、ユーリは言いようもない安心感を覚え、箸を進めた。
「あ、こっちもどうぞ」
そう言って咲江が焼売を勧めてくる。そこでユーリは、丁度両手が箸と皿をもつ手でふさがっていることに気付いた。
「あらあら」
そう言うと、咲江はからしを小さくとって焼売に載せると、醤油を垂らし、小さくふー、ふー、と息を吹きかけると、おもむろに差し出してきた。
「はい、あーん」
箸先の、湯気を小さく上げる焼売。ユーリの眼が焼売と咲江の間を行ったり来たりする。ニコニコと笑みを浮かべる咲江の表情を見て、ええい、ままよと焼売にかぶりつく。
「……美味しい!」
「でしょ? ここの手作りなの」
なるほど。ゴロゴロとした具はもっちりと口の中に絡みついてくる。皿を見ると不揃いな皮を見ると、工業製じゃなく手作りを貫いているようだ。もちもちとと口の中の食感を楽しんでいると、肉汁があふれてくる。美味しかった。
今度、アンジェリカやアリアンナ、アリシア姉さんと行きたいな、と思って箸を進める。あんを吸って程よくふやけた麺は、小さくサクサクと音を立てた。
「こんな店、知りませんでした」
「私がここに住み始めてから、ずっとあるのよ」
そうしみじみと語る咲江に、ユーリは思わずほう、と小さく息をついた。
「ずっとですか」
「ええ。ずっと」
ユーリも産まれた時からこのあたりに住んではいるが、この店は知らなかった。いつも使う商店街の、ほんの少し路地裏に、こんな店が転がっていたとは。まだまだ知らないことも多いのかな、と自分で自分を顧みる。
思えば、部活の件もそうなのかもしれない。人に教える、という自分を磨くとは少し寄り道をすることによって、得られることもある。そう言うのは人生において、あちこちに転がっているようなものなのだろうか。『急がば回れ』とは、よく言ったものなのか。
難しい顔をしながらユーリがあんかけかた焼きそばを食べていると、咲江が考え事は後にしましょう、と言ってきた。
「そんな顔、してました?」
「ええ。とっても。少なくとも、ご飯を食べる顔じゃないわ」
ユーリは、どこかばつが悪そうにすみません、と言った。気にしてないわ、と咲江が言うと、二人同じタイミングでかた焼きそばをほおばった。
「このあと、買い物でいいですか?」
「ええ。そのつもりだったし」
咲江が引っ越してきてから、いろいろと一人暮らしから集団生活に変化して、足りない物などが出てきた。必要なくなったものもあるが、そう言うものは少ない方だ。年季の入った冷蔵庫と洗濯機は、流石に捨てることになったらしい。アンジェリカ達の屋敷に引っ越してきて、最新式の洗濯機に触れた彼女はまるで未開の文明人が文明に触れたそれのようだった。
「とりあえず、枕を買いたいわ。ずっと使ってた枕、もうすっかり萎びちゃって」
「それは……首が痛くなりそうですね」
「ええ。胸が重いのもあって、冬場は大変だったわ」
そう言って困ったような顔でその非常に豊かな胸を揺らす。この場にアリシア姉さんがいなくて良かったな、とユーリは小さく苦笑いを浮かべて、かた焼きそばを口に運んだ。




