19/Sub:"アクロバット"
「なかなか楽しいことになりそうですわね」
アンジェリカがユーリの隣まで歩いてくる。これも君の想定通りかな、と聞きたい気分だったが、彼女の嬉しそうな表情をみて、やめた。満足げな笑みを浮かべたままのアルマがユーリのもとに歩いてきて、言う。
「休憩が終わったら、悪いが早速穂高には飛んでもらう。どこまで飛べるのかを知っておきたい」
「わかりました。もう少し休んだら、離陸します」
「頼む」
そう言うアルマの後ろで、上級生たちがそれはそれは期待に満ちた目でこちらのことを見るのに、ユーリは背中に冷や汗が流れる思いだった。もっとも、冷や汗はフライトスーツに吸いこまれて重りにしかならないが。
アルマが去って他の上級生と今後の予定を話し合っているのを遠巻きに見ていると、アンジェリカがユーリの傍まで歩いてくる。
「緊張することはありませんわ」
「誰のせいだと思ってるのさ」
そうユーリが小さく抗議の視線を向けると、アンジェリカはあら、と平然とした様子でユーリを見返す。
「いいじゃないですか。貴方が選んだ道ですもの」
「……そうだね」
ユーリは、手元のスポーツドリンクの水筒にドラゴンブレスを掌から流し込む。小さく手元でパキパキと音がして、良く振るとシャリシャリと音がした。ごくごくと音を鳴らして飲むと、ひんやりとした甘い液体が喉を通って胃に流れ落ちていく。冷たさは胃袋から脳にじわじわ上がってきて、頭が冷えて思考がクリアになってくる。
「じゃあ、行ってくる」
ユーリが立ち上がりながら言うと、アンジェリカが親指を立てた。
「ええ、ユー・クリア・フォー・テイクオフ」
ユーリがアルマに声をかけると、あっというまに準備が整う。いつの間にか湖岸の灰色の砂浜で、準備運動をしているユーリの後ろにずらりと飛行部の面々が並んでいるという状況に、思わず散歩やランニングをしていると思われる人々も立ち止まって不思議な様子でこちらのことを眺めていた。
「準備はできてますよ」
ユーリがアルマに言う。
「ああ。こちらも大丈夫だ。じっくり見ててやるから、本気で飛んで来い!」
大声で言うアルマに、ユーリは苦笑いと小さく肩をすくめて返す。
大勢が見つめる中、ユーリは砂浜で、湖に向かってクラウチングスタートの姿勢を取る。翼を白い光が多い、低い唸り声の様な低音が響き始める。飛行術式、駆動開始。霊力流量安定。白い光で覆われた翼の後ろから、青い霊力の噴射光が輝き始め、ぐぐ、とユーリの手足が砂浜に食い込み始めた。
進路目視クリア。クリアフォーテイクオフ。
低音が一気に高音に跳ね上がり、大きな音を響かせて霊力の噴射光がダイヤモンドコーンを連ねて伸び、弾かれたようにユーリは駆け出した。盛大に砂煙を巻き上げ、弾かれたように加速を始める。翼を流れる気流が揚力を生み、翼が大気を掴み、一瞬でユーリを重力の鎖から解き放った。足が地面から離れ、湖面に白い波を盛大に起こしながら加速。
急激にピッチアップ。推力と翼の気流が湖面を盛大にかき乱し、白いしぶきを上げる中ユーリは一気に推力を上げた。噴射光が湖面を貫く。まるで発射された地対空ミサイルの様に一気に空に向かって飛び込んでいくユーリ。
「すげえ……」
湖岸で見ていた部員の一人が無意識につぶやいた。まるで放たれた矢の様に急上昇していくユーリの翼の端から、白い、糸のような飛行機雲が伸びていく。これまでに見せたのとは、明らかに違う鋭い機動。
ユーリは上昇しつつ推力を弱める。アクロバット飛行ということだ。ポストストール・マニューバを積極的に使った方がいいかもしれない。そう思って推力をアイドリングにすると、重力に引かれてユーリの対気速度が落ちて行く。やがて、翼から空気が剥がれる。失速。
「あっ……オイオイオイ」
部員の一人がユーリの失速に気付く。慌てて声を上げた部員の視線の先で、ユーリは失速したまま、くい、と頭を地面に向けると、再び加速を開始する。ハンマーヘッドターン。呆気にとられる部員の先で、ユーリは姿勢を180度変えて急降下し始めた。速度が回復したところで再びピッチアップ。水平飛行に。
ユーリは地上での様子を横目に見ながら緩やかな旋回に移る。せっかくだから失敗してもいいくらいの気持ちで、派手な、自分の限界ぎりぎりを攻めてみようか。そう思って脳内で機動を考える。ああして、こうして……よし。
腹積もりが決まると、ユーリは急加速。そのままゆるやかに上昇し、そして一気にピッチアップした。翼から剥がれる気流。失速した。そのまま左右の推力バランスを小さく崩し、時計回りのヨー方向に緩やかに回転し出す。一周、二周。三周目に入ったところで、対気速度がほぼゼロになった。回転は収まらない。ユーリの頭上に湖面が来たところで、ユーリは丁寧に90度ピッチアップ。再び頭上に空が戻ってきて、翼の抗力でヨー方向の回転を抑え、再び加速し出す。翼が再び大気を掴み、揚力が戻ってくる。
「っ! やった、やった、上手くできた!」
ヨー方向の安定制御。咲江に見せられて以来できなかったそれに、ようやく成功できたことでユーリの脳にアドレナリンが一気に湧出した。もっとだ、もっと行けると彼の本能が呼びかけ、脳内が多幸感で満たされる。フライヤーズ・ハイ。
すでに地上で見ていた部員の脳内処理が追いつかないまま、ユーリは急加速した。翼端から白い糸のような飛行機雲を引いて、まるでスプーンでアイスをくりぬくかのような、滑らかで鋭い旋回。翼が減圧雲を纏って白いドレスを纏う中、身体を押さえつける心地よいGに心を躍らせるユーリ。青空に浮かぶ太陽を眺めながら次のマニューバに入る。速度を維持したままインメルマンターン。高度を稼いで再び旋回。空に大きな8の字を描き、180度ロール。地面が頭上に、眼下に空。高G旋回を行いながらスプリットS。湖面ギリギリまで降りてきて水平飛行。そのまま湖岸と平行に飛びながらエルロンロール。90度ずつ、ロールして静止、ロールして静止を繰り返し、部員の見ている前をフライパス。姿勢が水平に戻ったところで再び急上昇。ピッチアップを続けながら大きなループを描き、斜め下を向いたところで180度ロール、再びピッチアップして、大きなメビウスの輪を空に描いた。キューバンエイト。
「すごい……」
圧倒的なマニューバの数々に言葉を失う飛行部員の横で、アンジェリカが腕組みをしてユーリの機動の数々を眺めつづけていた。今日は彼も調子がいい。さっき迷いを振り切ったのも関係しているのか、翼が軽い、という表現が似合いそうな飛び具合だった。頭上をユーリが轟音を響かせながらフライパスする。さぁ、次は何をするのかしら、とわくわくした感情がアンジェリカの心を埋め尽くした。まるで、初めてユーリの飛行に目を奪われた、あの日の様に。
もっと速く、もっと鋭く、もっと高く!
叫びたい心と体を腕組みで無理やり押さえつけながら、アンジェリカはユーリの飛行をただ見つめ続けた。
ユーリはシャンデルを連続して行い、空に規則正しく斜めの波模様を描いていく。高度が目的の所に来たところで再び降下、再び高度を落としていく。めまぐるしく動く高度と対気速度。湖岸に向けて真っすぐ飛びながら急激にピッチアップ。同時にロールをし、空に鋭い螺旋を描いていく。バレルロール。上空と低空、湖面と湖岸を目まぐるしく行ったり来たりを繰り返し、空にありったけの軌跡を描く。
ふと、湖岸の部員の人だかりをフライパスのついでに見やる。その端でどこまでもまぶしく輝く紅色。
湖面ギリギリの水平飛行から緩やかに上昇し、急激にピッチアップして再び空気を振りほどく。縦に一回転してクルビット。まるでサーカスの空中ブランコの様な軽業を繰り返し空の中で行い、青空の中にいくつも軌跡を刻んでいく。
ユーリは急上昇。真っすぐ上昇し、空に向かって突き進む。推力を切り、速度と高度が入れ替わっていく中、そのタイミングを静かに図る――ここだ!
ユーリは急激にピッチアップ。翼から空気が一気に剥離し、重力に抗って空を飛ぶ魔法である揚力が翼から消えうせて失速の空へ飛び込んだ。ユーリは運動量に従ってくるくると縦回転を続ける。一回、二回、三回。空と地上が目まぐるしく入れ替わる。重力に従って上昇速度が落ち、上昇から頂点で落下に転じた。四回転したところで再び地面を向いた。クアドラプルクルビット。水面を向いたところでくるりと軽やかに360度ロールし、ピッチアップして湖面を盛大にかき乱しながら上昇に転じた。そしてそのまま推力を絞り、空中で静止する。ゆっくりと空中で直立した状態のままホバリングし、ゆっくり湖面にまで降りてきた。噴射が湖面を盛大に揺らす中、ゆっくりとフィギュアスケートのそれの様に時計回りに一回転。正面に唖然とする部員たちがいる湖岸を捉えた。竜の、アビエイターの視力で捉えた人だかりの端。輝かしい紅色の彼女は、真っすぐ空を指さした。
飛行術式の高音が一気に響き渡った。噴射光が湖面を貫き、盛大に水しぶきと白煙をまき散らした。湖に咲いた飛沫と氷の白い花。その中央を貫いて青白の輝きが空へと駆け上っていく。ベイパーコーンを一瞬纏い、音の壁を貫いて一気に竜が上昇していく。空高く、ダークブルーの高みへと。
唖然とその光景を見ていた部員。そして桜。そんな彼女にポン、と肩に手を置く感触。
「どうです? わたくしのユーリは?」
桜は呆気に取られてぱくぱくと口を開いたり閉じたりするしかできなかった。その向かいではアンジェリカがどこか得意げな表情を浮かべていた。
「あれこそが星空へ続く翼。わたくしは、あの翼で、どこまでも遠く、未来へ飛んでいきたいと願って――いえ、飛んでいきますわ」
「穂高君と、ゲルラホフスカさんは」
「ええ。最早恋人や婚約者とでは言い表せない――一心同体、とでも言うべきなのかしら。こういうものは」
青空の中で、白い軌跡を残しながら青空の真ん中へと真っすぐ突き進んでいく白い輝き。その輝きを映した紅い瞳は、どこまでも力強く燃え盛っていた。
「苦労も多いですわ。簡単ではなく、困難である」アンジェリカは、小さく漏れ出るようなため息をこぼす。「ですけれど、だからこそやる価値がある。だからわたくしは、ユーリのパイロットなのですわ」
桜が見つめるアンジェリカの表情は、どこかとても力強く、まるで太陽の様に感じた。




