15/Sub:"エアレース"
静かな空だな、とユーリはグラウンドの片隅で空を眺めながら思った。時刻は放課後。梅雨入りも近いというのに晴天。大気はひどく安定していて、嵐の前の静けさ、と言った雰囲気をにじませていた。先日の台風は梅雨前線を南洋の温かい空気と共に一気に北上させ、気象庁から梅雨入りが宣言されたばかりだった。実際明日は雨の予報だ。梅雨前線という暖湿気の津波はもう眼の前まで迫っていて、季節を冬から夏に変えようとしてくる。雨の続く梅雨は、フライトにはつらい季節だ。体操服姿のアンジェリカが、ユーリの隣で静かに風を受けている。
「待たせたな」
アルマがユーリに声をかけてくる。彼女は先日のフライトスーツを身にまとい、引き連れている飛行部員はざっと10名ほど。半分はアルマと同学年のようで、残り半分はユーリと同学年か、近い学年の様だ。それぞれスカイブルーの競技用フライトスーツを着ている。グレーの、いつものフライトスーツを着ているユーリと対照的だった。
「そこまで待ってないですよ。こちらもさっき着いたばかりですし」
「そうか……お前のそれ、随分と、その……」
アルマや上級生、そして下級生の一部もがユーリのフライトスーツに興味津々だった。だろう。『お下がり』とは言え負荷の大きな軍用の物を着て空を飛ぶ飛行種族なんて、早々いるものではない。
「気にしないでください。こちらの方が慣れているので」
「そ、そうか。何はともあれ、よろしく頼む」
アルマがさわやかな笑顔を浮かべて手を差し出す。ユーリも笑みを浮かべてその手を握り返した。
「ええ。どうぞよろしく」
握手を交わす様子を、上級生の後ろで複雑そうな表情で下級生が眺めていた。ユーリはそちらに一瞬、視線を移してすぐに真正面を向く。
「良いフライトにしましょう」
ユーリが言うと、アルマは豪快に笑った。
ルールは簡単。指定されたウェイポイントを通過して着順を競う。オーソドックスなエアレース形式。ルールはアンリミテッド。他者への攻撃以外なら何でもありの、自信のすべてを尽くす空。ユーリは負けるつもりはなかったが、純粋にこのアルマと呼ばれる竜の、存在を知ってみたいと興味が湧いていた。
「じゃあ、これを」
手渡されたのはゴーグル形式のHMD。気象観測の時につけた時の物よりも小型で、軽量だった。バンドの付いたスポーツグラスと言った見た目だ。ユーリがそれを装着すると、アプリケーションが立ち上がってGPS信号を拾い、AR空間にウェイポイントをリングで表示する。
「はっきり言うが」
部員がそれぞれ離陸位置に向かう中、アルマがユーリに話しかけてくる。
「正直、お前には勝てる見込みは薄い、と思っている」だが、と彼女は強気な口調を崩さずに続ける。「負けるつもりはない」
そう来なくちゃ、とユーリは、自然と笑みを浮かべた。
離陸位置に横並びになる。グラウンドいっぱいに広がっているわけではないが、多種多様な翼を広げてスタートの姿勢を取っている様子はなかなか目立つようで、他の運動部が何事かと練習の手を止めてユーリ達を見守っていた。
「オンユアマーク」
ずらりと並ぶ飛行部員とユーリ。その脇に立っていた体操服姿の桜が空に響く声で叫ぶ。すう、と小さく息を吸うと、目の前に広がるのは青空。
ぐぐ、とクラウチングスタートの姿勢で翼を広げる。翼の表面を青白い飛行術式の光が覆っていき、低い唸るような術式の駆動音がじわじわと高くなっていく。
ユーリ。
そう言われた気がして、ユーリはふとその方向を振り向いた。ゴー、と叫ぶ桜。一斉に走り出し、飛び立っていく飛行部の部員達をよそ眼に、彼は声の主を見つけた。
ユー・クリア・フォー・テイクオフ。
飛行術式の音が跳ね上がった。青白い霊力光のストリーマーがダイヤモンドコーンを描いて噴き出、弾かれたようにユーリが駆けだす。まるで空が歓迎しているかのように、大きくその翼をひと羽ばたきさせると彼の身体は一気に空へと舞いあがり、地上の重力を振り切って蒼穹へと飛び込んでいった。
ユーリは出遅れたのか? そう思っていた天狗の少女、恵那カオリは自分の翼にまとわせた術式を制御しながら考えた。トップに躍り出ようとするものの、先頭を飛ぶアルマ部長との距離は大きく離れたままだ。実力に大きな開きがあるものの、こちらだって負けていられない。あんな案を通して、よりによってそれがあの穂高ユーリだなんて。
彼のことは風の噂で聞いたことがあった。とてもじゃないが、良いうわさとは言えないような内容。なんでも昔の大会で不正をしたとか。記者の捏造記事だとか、出版社の不法行為とかがその噂にはついて回っていたが、それはカオリにユーリへの疑念を抱かせるには十分な風の噂だった。
化けの皮を剥いでやる。
そう思っていたらこれだ。それみろ見たことか、とカオリは心の中で暗い笑みを浮かべる。このまま引きはがしてやる。そう思って翼をはためかせ――。
「……は?」
――銀色の閃光が、彼女の横を突き抜けていった。
ユーリは天狗の少女をエルロンロールしながら追い越すと、再び先頭のアルマに目を向ける。翼端渦に巻き込まないようにしたので姿勢が崩れたわけではなさそうだが、こちらに気を取られていたのか、一瞬姿勢を崩していた。回復操作に手間取っているようで、少々腕に不安が残る。
ユーリは推力を維持しつつ、急上昇。一気に速度と高度を入れ替え、落ちた速度で旋回半径を小さくして最短距離を飛ぶ。後ろから見ていた者には、それはユーリが空の中央で直角に曲がったように感じられた。再び高度と速度を入れ替え、ユーリは急加速。翼の端から白い飛行機雲を糸の様に引いて、滑らかに翼で空を切り裂いていく。
「来たな……!」
ユーリがアルマの横に並ぶと、彼女は額から汗を空気中に飛び散らせながら叫んだ。対するユーリは涼し気な表情で、どこまでも冷徹に彼女の後方を占有している。咲江ならこのユーリの位置からなら既にキルできただろう、とユーリは頭の片隅で考えた。
アルマは黒い鱗の竜の翼にオレンジ色の、炎のような飛行術式の光を纏って飛翔する。同じようなオレンジ色の噴射光を、翼の後ろからたなびかせながら彼女は懸命にユーリとの距離を引き離そうとするが、ユーリはその後ろにぴったりと張り付き続ける。
こいつ、自身のフライトエンベロープを熟知してやがる。そうアルマは心の中で冷や汗をかいた。ユーリは自信とアルマの飛行特性の違いを埋め、わざとアルマの後ろをなぞるようにして飛んできていた。
まだ、だいぶ余裕があるのか。
アルマは後ろを飛ぶユーリのことが、自分が思っていた以上の恐ろしい存在だと認識し始めていた。彼女には、ユーリが全力の数分の一も出していないことは、よくわかってしまっていた。
アルマ、ユーリが次のウェイポイントに向けて急旋回。全く同じタイミングでロール、旋回し、ユーリだけが鋭く翼の端から空に白い雲の糸を引く。まるで戦闘機だ。空を飛び、誰よりも速く、誰よりも鋭く、誰よりも高く飛ぶために作られた一つの進化の究極形だ。そうアルマは自身の後ろをなぞり続ける銀色の竜を、そう評価し始める。その気になれば、音の壁すらいともたやすく貫いて、雲を超え、空の彼方へと簡単に飛んでいけるのだろう。竜として産まれたアルマにとって、それは羨望の彼方にあり、仰ぎ見る存在である。
だが、しかし。
「は、はは」
自然と、口から漏れ出る笑い声。後ろにぴったりとついているユーリが彼女のその反応に、一瞬疑問符を浮かべる。だがすぐに、静かに翼を翻させると、息をするようにアルマの横に並んだ。銀色と黒。二色の竜の翼が空を切り裂いていく。
「ははははははははははは!」
漏れ出るのは、笑い声。たった一つの感情がアルマの心を満たし、精神を、理性を溺れさせていく。楽しい、楽しい、こいつと翼を並べて空を舞うのが、こんなにも楽しい!
どうか、この瞬間が永遠に続けばいいのに。そんな純粋な欲望が彼女の心を満たしていた時、ふと、ユーリの姿が動いた。自らかけた戒めを解いて、ぐんぐんと加速してアルマの横から前へと、どんどんその姿が小さくなっていく。
「あっ……」
思わず手を伸ばしたが、その姿はもう伸ばしたその手にすぐに隠れてしまうほどに小さくなっていて、翼に白煙を纏って視界の外へ消えていく。どんどん差が広がっていく。彼女の手の、届かないところへ。
――心の中を、途方もない喪失感が埋めようとしていたその時だった。
ユーリは速度を増す。アルマを追い抜かし、推力をさらに上げて次のウェイポイントに向けて高G旋回を行っていた時だった。視界の端に、追い抜かしてはるか後方にいた下級生の集団が目に入る。
そのうちの一人。翼を懸命に羽ばたかせているが様子がおかしい。対気速度が遅すぎる、とユーリがその違和感に気付いた次の瞬間、ふっ、と。まるで見えない何かに掴まれたかのように彼女の姿が下に、地面に向けて墜ち始めた。
失速だ。
そう気づいた次の瞬間。ユーリは推力を最大に、凄まじいGをかけて急旋回を行った。翼の表面から気流が一瞬で剥離し、くるりとユーリはその場でほぼ180度ピッチアップ。空中で一瞬バックしたのち、弾かれたように急加速を始めた。頭上に細い光の環、ホロウ・ニンバスが浮かぶ。
「ユーリ、何を!?」
「失速だ! パーン、パーン、パーン! こちらユーリ、部員の一人が失速した! 回復できてない、墜ちるぞ!」
意味が伝わるかどうかを考えずに、身に叩き込んでいたそれを叫ぶ。高度は3,000フィートもない。術式で制御できているかは不明だが、翼の抵抗もあって自由落下よりは遅いが地上に激突するまでそう時間もない。ユーリは自分の脳にアドレナリンが満ちるのを実感した。世界がスローモーションになる。この感覚は咲江と戦闘訓練をしている時のそれだ。推力を増し、まるで一筋の流星の様に空を駆け抜けるユーリ。一気に音の壁に手をかけ、そこで加速をやめる。180度ロールし、地上と空がひっくり返った。ピッチアップ。減圧雲が身体を覆い、急降下。失速し、重力の鎖にがんじがらめになったその部員を進路ベクトルに真っすぐとらえた。
『Terrain, Terrain, Terrain. Pull up. Pull up, Pull up.』
GPWSが悲鳴の様に叫ぶのを無視して垂直に、部員の元へ突っ込んでいく。きっと彼女の電子航空免許端末からも同じ音声が流れている事だろう。助けを求めて叫ぶ部員の声がユーリの耳に入ってくるが、彼は極めて冷静にマニューバを頭の中で計算した。目測距離はもう30フィートほど。対気速度差がかなりある中、ユーリは急激にバレルロールを行った。急旋回のバレルロール。計算しつくしたかのように一気にユーリの速度と部員の速度、高度が一致してユーリは部員――カオリを、がっしりとキャプチャする。高度は、もう200フィート。
一気にピッチアップ。同時に大推力で失った速度を無理矢理回復させる。凄まじいGがかかり、腕の中で小さくもがいていたカオリが一瞬で意識を失った。急降下から上昇へと一瞬で転じ、重力の鎖を引きちぎって再び二人は大空へと舞い上がっていく。腕の中で静かになったカオリを抱え、ユーリは学校のグラウンドへ向けて旋回する。まだあまり学校から離れていない。一人抱えたままグラウンドに降りるのは困難と判断し、校舎脇にあるプールへと進路を取る。二人分になった重量を、翼の境界層を制御して揚力を増しながら滑らかにプールの真ん中へ向けて降下していく。50、40、30、20、10。急激に翼の仰角を増し、高度数フィート、プールの丁度ど真ん中の空中で静止した。カオリをしっかりと抱えたまま、背中からプールの真ん中に落ちる。冷たい水の感触がユーリを包み込んだ。
「ぷはっ!」
カオリを抱えたままプールサイドまで泳ぐと、アンジェリカがこちらに手を伸ばしてきた。ユーリが彼女の、スポーツ用の全身フィット型タイツに覆われた腕をつかむと、吸血鬼の腕力でもって二人ごと無理矢理プールサイドに引き上げられる。
「ユーリ! その方は!」
「大丈夫だ、怪我はないよ」
高G機動で失神してはいるものの、血色が悪い様子はないし、息もしている。着水時に水を飲んだ様子もないようだ。アンジェリカが、カオリがつけていたARグラスを外して彼女の口元に持っていくと、吐息で小さく曇った。二人がかりで脇を抱え、日陰の壁にもたれ掛けさせる。
「大丈夫!?」
部員を引き連れてアルマと桜が戻ってきた。何事かと他の運動部の部員も野次馬の様にわらわらと集まる中、部長のアルマがカオリに向かって大声で話しかけ続ける。
「恵那! 大丈夫か、恵那!?」
そうして何度か声をかけられていたら、小さく彼女の瞼が動いた。
「ん……あ……あれ、私……ここは」
「学校だよ。危なかったね」
ユーリが冷静に言うと、彼女はゆっくりと、そしてきょろきょろと周囲を見渡す。
「そうだ……私、急に空から落ちて」
「失速したんだ。対気速度を落としすぎたか、それか仰角を取り過ぎたか。どっちにしろ、コントロール不能になってた。危ない所だったよ」
そう言うと、直前の記憶が急に蘇ったのか、ひゅっと顔が青ざめる。
「あ。あ、私」カオリがユーリをわなわなと見つめる。「あなたと部長の高度まで、上がろうとして」
翼が震え出した。翼で息ができなくなった。翼が空から離れていった。
「それが重力の感触だ。覚えておくといい」
「あ……うん」
そう言ってユーリは人間形態に戻ると、カオリを背負った。
「保健室に連れていきます。着水の時にどこか痛めたかもしれない」




