13/Sub:"スカイブルー"
「起立、礼」
クラス委員のアンジェリカが良く通る声で言う。ユーリはその声に従って席から立ち、礼を行った。ユーリは小さく息をつきながら自分の席に座ると、てきぱきと教科書やノートを鞄に詰め込み始める。今日は久々に天気がいい。放課後にフライトに出かけたかった。
「お待ちなさい、ユーリ」
周りが無秩序になる中、アンジェリカがユーリに話しかけてきた。ユーリが彼女の方を向くと、彼女は腕を組んでユーリを見下ろしていた。
「この後、学園祭の話し合いですわ。申し訳ないですが、勝手に帰るのは許しませんわ」
「あー……了解」
参加する気も毛頭もなかったが、話し合いの結果をアンジェリカに共有してもらう、というのは随分と情けないと思った。発言はしないにしろ、話し合いの内容だけは聞いて、記憶しておこう。ユーリは嫌そうな顔を隠しながら、アンジェリカに肯定の返事を返す。
アンジェリカがぴしりと伸ばした背筋で教卓まで歩いていくと、クラス全体に通る声で話し始める。
「では、これから学園祭の出し物についての話し合いを始めたいと思いますわ!」
彼女の声につられて、クラス内の無秩序が一斉に秩序に戻る様は、彼女のカリスマ性、というものだろうか。そんなものをユーリでも感じていた。
「では、ユーリ。書記をお願いしますわ」
「……ウィルコ」
アンジェリカが唐突にユーリに話を振ってくる。彼女の顔を見ると、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべてユーリの方を見ていた。してやられた。黙って聞いているだけのつもりだったのを、大方見抜いたのだろう。ユーリはしぶしぶノートを取り出してメモを取り始めた。
話し合いはてきぱきと進む。誰かが発言するたびにユーリのペンがノートの上を滑り、内容を記載していく。しかしこうしてやってみると、書記と言うのはなかなか大変だな、とユーリは頭の片隅で思った。書いている内容を確認するのが精いっぱいで、内容を吟味する余裕などない。そうして一瞬書き漏らしたことに気付き、慌てて追記して修正を行う。
話が進み、クラスの出し物は喫茶店になった。どうやら女子はメイド、男子は執事のコスプレをするらしい。話し合いが終わったところでユーリはノートを閉じた。手が痛い。
「お疲れ様ですわ。議事録は、後で電子化しておいてくださいまし」
「ウィルコ。帰る前にやっておくよ」
ユーリは鞄からARグラスを取りだして掛け、携帯端末とリンクさせる。目の前にバーチャルなキーボードと画面が表示され、ユーリは先程閉じたノートを再び開いてその内容をワードファイルに起こし始める。
「ねえ」
アンジェリカがユーリの向かい側に座る。ユーリはタイプする手を一瞬止めて、アンジェリカの方を見た。
「ユーリは、今回参加しますのね?」
すでに参加することが決まっているような物言い。ユーリは小さく眉を顰めて、ため息をついた。
「アンジーが参加しろっていうなら、するよ」
君は、僕のパイロットだからね。そう言うと、彼女は小さくため息をついた。
「ユーリ。わたくしは確かに貴方のパイロットですが、生憎水揚げされたマグロに跨ったつもりはありませんわ」
「マグロって……」
「飛んでみせなさい。ユーリなら、それができますわ」
そう言うアンジェリカの紅い瞳は、真っすぐユーリを見据えたままだ。ユーリはその瞳から目をそらさないように見つめ返し、そしてしばし、沈黙したのち目を伏せてため息をついた。
「わかった、やるよ。裏方の方が気が楽だけど」
「ふふ、よろしくてよ」
満足げな笑みを浮かべるアンジェリカに、ユーリはもう一度ため息をついて指を動かし始めた。
「ねぇ穂高くん」
ふと、横から声がかかる。ふとユーリとアンジェリカ、二人してそちらの方を向くとそこには桜が立っていた。
「霧島さん」
「やっほ。お疲れ様。ゲルラホフスカさんも」
桜がアンジェリカに挨拶をすると、アンジェリカも彼女に挨拶を返す。
「こうして話すのは初めましてですわね。アンジェリカ・マルグレーテ・イグナツ・ツァハ・ゲルラホフスカですわ。以降、どうぞよしなに」
アンジェリカが椅子から立ち上がって恭しく挨拶をすると、それに桜は一瞬面くらったものの、慌てて背筋を伸ばしてこれまた丁寧なお辞儀を返してきた。
「霧島 桜です。よろしくお願いします」
育ちがいいのだろうか。そんなことを二人のやり取りを見てユーリは何となく思った。とりあえず一旦ARグラスを外す。
「どうしたの? 霧島さん」
「あ、そうだ、穂高君は学園祭の出し物、クラス以外に参加する予定あったりするの?」
一瞬ちらり、とユーリはアンジェリカの方を横目で見て、それからごまかさずに答える。
「いいや、特にないよ」
すると、桜がぱあっ、と笑顔を咲かせてユーリの手を両手で取ってきた。
「ねえ穂高君! 飛行部の展示飛行、穂高君も参加してほしいの!」
えっ、と言葉を漏らすユーリとアンジェリカに、実は、と彼女は続ける。
「今年、新入部員の数が例年より多くて、それのせいであまり展示飛行の方に力が割けなくて……夏の大会も近いし」
その時、ユーリの瞳が桜も気づかないほど一瞬だけ小さく、そして鋭く細められたのを、アンジェリカは見逃さなかった。
「それで展示飛行ができる人員が欲しいって、探してた所だったんだ」
「なら安心なさい。ユーリの翼は、わたくしが保証しますわ」
唐突に会話に挟まってきたアンジェリカ。思わず目をぱちくりと瞬かせて桜は彼女の方を見る。
「アンジェリカさんも飛べるの?」
「わたくしはユーリのパイロットですわ!」
得意げに言うアンジェリカに対して、思わず場の空気が凍った。沈黙だけが場を支配する。意味が分からない、と言った雰囲気で桜が困っているのを見て、ユーリはため息をついて口を開いた。
「アンジーは僕のバディだ。僕の飛行性能は、彼女がよく理解している」
「……ああ、そういうことなのね!」
合点がいった、と言う風な雰囲気で桜が言うのに、アンジェリカが不満げな目でユーリを見つめるのを一旦横に置いておいて、ユーリは桜と話し出す。
「でも急だね。他の部員は納得するの?」
「大丈夫だよ。こう見えて、私、飛行部のマネージャーなんだから!」
そう胸を張って言う桜に、思わずユーリは驚愕と、感心の声を漏らした。同級生なのに一部活のマネージャーとは、そう簡単に務まる者ではないだろうに。思えばこうしてユーリをスカウトに来ている時点で、彼女の手腕には光るものがあるのかもしれない。
「それに穂高君、結構うちの部活で話題になってるんだよ? すごい奴がいるって」
「フムン?」
飛行部のメンバーと一緒に飛んだ覚えはなかったが、向こうは自分のことを知っているらしい。どこで機会があったのだろうか。桜の前では飛んでいたところを見られたこともあるが、そのほかにないかとユーリは記憶を探る。
「前の連休の時に、穂高君飛んで学校に来てたでしょ? あの時に部長が、君の飛び方が凄まじいって、興奮して言ってたんだよ」
あのバイト探しの時か、とユーリは記憶と現実が一致して小さく苦笑いを浮かべる。
「だけど、あの一度だけでしょ? それだけで判断するのは不味くない? 急いてはことを仕損じるって」
「あら? 百聞は一見に如かずとも言いますわ。同じ空を飛ぶ者同士、飛び方を見ればわかるのは貴方もよくご存じではなくて?」
アンジェリカが逃げ道を塞ぐように言ってくるのに、思わず言葉が詰まる。
「それに前、穂高君が公園に着陸してきたときの、あのスピードコントロール、翼の境界層制御、それに失速するような速度での機動、触れるようなタッチダウン。あれは、芸術と言っても過言じゃない」
そう言う桜の右目は、金色に輝いている。その真剣なまなざしを、ユーリも真正面から見据えた。桜の茶と金のオッドアイ、ユーリの金色の竜の眼が、交差する。
「お願い、ユーリ君」桜が頭を深々と下げる。「貴方に、空を彩って欲しい」
ああ。とアンジェリカはそこでどこか腑に落ちるような感触を得た。なぜ、普通の少女であるはずの霧島桜という少女に、彼がどこか親近感の様なものを感じていたのか。地上のあらゆることに興味を持たず、空で焦点が結ばれていたはずの彼の瞳が、なぜ桜でピントが合ったのか。
――彼女も、つまるところ『こっち側』だったのだ。
アンジェリカは、小さく苦笑いを浮かべる。
「せっかくの淑女のお誘いですのよ? 断るようでは紳士とは言えませんわね」
そう、どこか楽しそうに言うアンジェリカ。ユーリは小さく目を閉じて、それからこぼす様に言う。
「……わかった。だけど、何回か飛んで、お互いの技量を確かめてからだ。翼を並べるのは、簡単じゃない」
そう言うと、桜は満開の笑顔を浮かべて、ユーリの両手を取った。
「ありがとうユーリ君っ! 早速、部長に話を通してくるね!」
そう言って駆け足で教室を出ていく桜。残されたユーリとアンジェリカはお互い、顔を見合わせる。
「嵐みたいな子だったね」
「ええ。こないだの台風の様でしたわ」
そう言ってクスクス笑うアンジェリカに、ユーリは笑い事じゃないよ、と苦笑いを浮かべて返す。
「でも」アンジェリカは、どこか安心したような、それでいて一抹の不安も含むような笑みを浮かべた。「これも、良い機会だったのかもしれませんわね」
ユーリはその言葉に、ただ黙って窓の外を見やる。台風が過ぎ去った空は、もうすっかり濁って透き通るような青色から塗りつぶしたようなスカイブルーに変わっていた。空には層積雲が散らばっている。その空を、飛行部の部員が一列に編隊を組んで飛んでいく。とてもじゃないが、ダークブルーの空まで上がれるような飛び方じゃない。
『帰ってくるところがない人は、空を飛んじゃいけないの』
咲江の言葉がユーリの脳内でリフレインする。窓の外の飛行部員が飛行を終えて次々と地面に降り立っていく。地上に、重力に縫い付けられる。立って、大地を踏みしめている。途端に自分の足元がおぼつかない様な感覚。
「……そうだね」
向き合うべきなのかもしれない。そう小さくつぶやいた彼の言葉は、教室の喧騒に紛れて、アンジェリカだけに届いた後に、空中に掻き消えた。




