11/Sub:"あらしのあさに"
風が打ち付ける音で、思わず目を覚ました。
ユーリはぼんやりとした頭で上半身を起こす。薄暗い、ユーリとアンジェリカの部屋。窓に、まるで洗車中のスプリンクラーみたく叩きつける雨と、雨戸越しに窓をガタガタと揺らす強風。何とか枕元の携帯端末を指で探り当てて引き寄せ、時間と気象情報を見る。時刻は朝5時。大雨洪水及び土砂災害と、暴風の警報が出ていた。これは休校になるわけだな、とユーリは徐々に覚醒しつつある頭で思い出した。
ユーリとアンジェリカ、二人が観測した台風はあの後勢力を次第に増しつつ紀伊半島付近で上陸、勢力をほぼ保ったまま本州を縦断している最中だ。梅雨前線を引き連れるような形で巻き込んできたのもあって、混沌とした空模様を作り出していた。
ベッドからゆっくり降りる。小さくベッドが軋んで、ユーリの腰に添えられていたアンジェリカの手が滑り落ちる。何度か手持無沙汰と言った感じでシーツを緩やかに撫でていたが、いつしか力なく握り込まれた。
彼は静かに部屋を出る。屋敷内用のスリッパを小さくパタパタと鳴らしながら廊下を歩いていく。カーテンと雨戸は閉じられていて、真っ暗な廊下が続く中を歩く。風が強まるたびに雨戸が小さく揺れて、ガタガタと音を立てた。
薄暗い中、階段を降りる。ユーリの竜の視界は薄暗い中でもはっきりと周囲の景色を見ることができていたが、玄関のドアの曇りガラスの窓から淡い光が差し込んできて、そのせいでぼんやりと明るかった。階段をキシキシと小さくきしませながら、一階へ。
台所に向かおうとして、ふと、ユーリはダンスホールの方に向かう。ドアをゆっくりと開けると、そこには暗いダンスホールが広がっていた。そう広くはないが、それでも真っ暗な部屋が広がっている、と言うのはなんとも不気味だ。ダンスホールの、屋敷のドアと同じ向きにあった半円筒状の出窓は、雨戸で閉じられている。わずかな隙間から光が漏れてきていたが、それも部屋の暗闇に飲み込まれて、小さく光の糸を残して消えていた。ユーリは、そっとドアを閉めてダンスホールを後にする。
食堂へ向かう。先日油をさしたばかりの食堂のドアはとても静かに、そして滑らかに開いた。薄暗い食堂の中を、台所へ向かって歩く。
台所は真っ暗だった。流石に電気をつけると、電灯の白い光で真っ暗だった玄関が照らされる。広くはないが、清潔なキッチン。ユーリは冷蔵庫に向かうと、冷蔵庫のドアを開けた。扉の内側の棚に立てられている、牛乳パックやリンゴジュースの瓶。その中から透明な2リットルサイズの半透明のポットを取り出して、冷蔵庫を閉める。棚からグラスを取り出してポットの中身を注ぐと、水出しされたジャスミンの華やかな香りが小さく広がった。ユーリはそれを、喉をごくごくと鳴らして飲む。乾ききった大地に雨が降るかの如く、身体に水分が沁み渡っていく。ただひたすらに、喉が渇いていた。
ふと、食堂のドアが開く音。誰だろうか、と思っていると、パタパタと小さな、そして小刻みな足音が響いてくる。ひょっとして、と思ってユーリが台所の入り口に顔を向けると、ひょっこりと、いつものツインテールを解いたアリシアが顔を出した。
「あら、誰かと思えばユーリじゃない」
「うん、おはよう、アリシア姉さん」
ユーリにそう言うアリシアの顔は、どこかまだ眠そうだ。おおかた、学校が休みになると聞いて遅くまでゲームでもしていたのだろうか。
「あ、私にもジャスミン茶頂戴」
グラスをもう一つ取り出し、琥珀色の液体を注ぐ。ユーリがグラスを差し出すと、彼女はありがとう、と言ってグラスを受け取って口につけた。ごく、ごく、と喉をならしながら飲んでいるのを見るに、どうやら彼女も喉がカラカラだったらしい。
「ふぁぁ。ありがと、生き返ったわ。吸血鬼だけに」
「なにそれ、吸血鬼ジョーク?」
「吸血鬼ジョークよ」
流行っているのだろうか。ユーリは小さく肩をすくめた。
一瞬風が強まり、食堂の雨戸が小さく音を立てる。思わずアリシアもユーリも見つめ合う。恐る恐る二人で食堂を覗くと、雨戸は特に変化なく外の光をせき止めていた。
「今の……突風かしら」
アリシアがコップを静かにシンクに置きながら言った。
「かもね。メソ擾乱かもしれない」
ユーリは大学の教授に教わったことをぼんやりと思い出す。台風の風は基本、目を中心に渦を描きながら吹いているが、それは完全に滑らかな層流ではなく、時折乱流として小さく渦を巻いたりすることもあるらしい。そういうのは数キロとか、数十キロのスケールの、熱帯低気圧全体に比べると小さい現象で、ピンポイントでそこだけ風向風速が急変するような、擾乱を起こすらしい。メソスケールの擾乱、と言うことでメソ擾乱と呼ばれているようだ。
「へぇ、英才教育、ってやつかしら」
アリシアがユーリに、どこかからかう様に言ってくる。ユーリは小さく肩をすくめると、やんわりと否定した。
「でも、あんたはそれに何だかんだついていけてるんでしょ? かみ砕いたとはいえ、国立大学の研究の第一人者がするマンツーマンの講義に」
すごいことじゃない。そう言ってほほ笑むアリシアに、どこか困惑したようにユーリは笑い返す。
どこか心地の良い静寂が二人の間に流れる。静かに響く風の音だけをBGMにして、ただ時間だけが流れていく。
「……さて、私はもうひと眠りしますかね」
アリシアがそう言ってグラスをシンクで一洗いすると、食器乾燥棚に立てかけて台所から出ていった。ユーリも同じようにグラスを洗ったあと、ジャスミン茶の入ったポットを冷蔵庫に戻す。戻すついでに、冷蔵庫の中身を確認した。魚肉ソーセージが余っている。プチトマトとサニーレタスも余っていた。トマトの袋には『工場直送! 採れたて新鮮野菜!』と書かれている。昨日買ったものだが、痛んでいるなどの様子は見られない。これにしよう。
ユーリは冷蔵庫をそっと閉じると、電気を消して台所を後にした。静かに階段を上がって自分の部屋に戻ると、アンジェリカはベッドの上で横になったままだった。起こさないように静かにドアを閉めてベッドに滑り込む。横を向いて寝る静かに寝息を立てるアンジェリカをしばし、見つめる。彼女の、どこか凛とした印象を受け取らせる整った顔立ちが目の前にあって、彼はどこか変な気分になった。
ふと、自分の手に何かが触れた。すぐにそれがアンジェリカの手だ、と気付くと、彼女の手は何かを探す様にもぞもぞと動き、ユーリの手に絡みついてくる。あたたかい。
ユーリは、ふとその手を優しく握ったまま、アンジェリカに身を寄せた。吐息がかかるような至近距離で、ユーリは彼女の手をそっと自分の腰に持っていく。落ち着いた場所を見つけた、と言わんばかりに彼女の手がユーリの腰を撫で始める。どこかこそばゆく、くすぐったくも心地よい感触に、ユーリは小さく頬を染めた。ユーリは、静かにその感触になされるがままになる。
「……ん?」
ふと、違和感。どうも、撫でる手つきがいやらしい様な、だんだんと腰から尻に降りてきているような。どんな夢見てるのかな、と小さく苦笑いを浮かべながらゆっくりと身体を離そうとして――急に、腰を引き寄せられた。
「あら、もうおしまいなのかしら?」
「えっ――んんっー!」
突然ぱっちりと開く、深紅の、どこかぼんやりと輝いている瞳。ユーリが驚きの声を上げようとした瞬間、彼の唇がアンジェリカの唇にふさがれた。いつの間にか背中に回されていたもう片腕で、強く彼女に引き寄せられる。貪るようなキスに、なされるがままになった。
ふと、舌に小さく、冷たい、鋭い感触。すぐにそれはじんわりと温かい、心地よい感触に上書きされていき、アンジェリカがユーリの口腔内を蹂躙し続ける。吸い付く彼女の口の感触に、ユーリの瞳が思わず蕩けた。
ちゅぷん、と音が立ったのを錯覚するような艶めかしさで、ユーリの口からアンジェリカの口が離れる。彼女の舌がどこか名残惜しそうにユーリの舌の表面を撫でると、舌にあった温かい感触はすぐに消えうせた。
どこか上気した表情で、アンジェリカがユーリを見つめていた。
「ふふ、おはようございますわ。ユーリ」
「……うん、おはよう。アンジー」
どこか冷静になってきた頭で、一杯食わされた、とユーリは思った。彼女のそれは狸寝入りだった様だ。まんまと、獲物が罠にかかったというわけらしい。
「いつから起きてたの?」
「貴方が起きた時から、ずっと」
ユーリが小さく苦笑いを浮かべると、アンジェリカは悪戯が成功した子供の様ににんまりと笑みを浮かべた。ぺろりと、口紅がついたようにそこだけ小さく赤くなっていた上唇を舐める。
「ユーリが戻ってきたと思ったら、わたくしの腕の中にすっぽり収まろうとしてくるのですもの」アンジェリカは、ユーリの背中に回した手で彼の背面を優しく撫でまわす。「思わず、『むらむら』来ちゃいましたわ」
ジャスミンの香りのキス、でしたわ。そう言ってアンジェリカが小さく、触れるようなキスをユーリにする。ユーリは恥ずかしさで頭がいっぱいになりそうだった。
雨戸を風雨が叩く。雨と風による雨戸パーカッションは、喧騒の様相を呈してきていた。まるで大勢が騒いでいるようなそれが、薄暗い部屋の中の唯一のBGMだった。とてもじゃないがムードがあるとは言えないが、どこか心地よい音色にも感じる。
「咲江は?」
アンジェリカが呟いた。
「帰ってこれない、って昨日言ってた。基地で寝泊まりだー、って懐かしそうだったよ」
ユーリは、昨日かかってきた電話での咲江の口調を思い出す。残念がってはいるが、どこか楽しそうな口ぶりだった。テストパイロットに転向と言うことで、基地交代勤務ではなく、半分後方勤務の官執勤務にはなったが、それでも空に戻った彼女はどこか生き生きとしているようにユーリは感じていた。今回の台風で、職場からは帰れなくなったらしい。道路が冠水している個所もあるそうで、帰るのは危険との判断だそうだ。
「お休み、ですわね」
そう、どこか楽しそうな表情でアンジェリカが言う。学校は休校。課題もあるが、昨日の夜におおむね終わっている。
「二度寝、してみる?」
ユーリがアンジェリカに悪戯っぽく笑いかけると、アンジェリカもそっと身を寄せてくる。薔薇の香りがユーリの鼻腔いっぱいを満たす。お互いのぬくもりを感じながら、風雨の音をバックに、二人は微睡へと再び落ちて行った。




