第265話 非日常の合間へ
迎えが王都に到着したのは、そろそろ昼に差し掛かろうかというだった。
空戦ユニットだのなんだのとゴテゴテ装備された翡翠はいつも以上に嵩張り、後部ハッチから車内に入れば、折りたたんだ翼や増設された武装があちこちにぶつかって歩きにくい。
それでもできるだけ慎重に歩き、ようやく整備ステーションで青い鎧を脱ぎ捨て一息つけば、何故かファティマが目の前で尻尾をブンブンと大きく振っていた。
「えーと、なんだろうか」
彼女の機嫌は実にわかりやすい。いや、正しくはこれまでの付き合いでわかるようになった、と言うべきか。
そしてこう尻尾を振り回している時は、大概ゴキゲン斜めな時である。
「ボクの寝台にゴリゴリぶつかりましたね」
「あ、あぁ、すまない。装備が増えた分、どうしても後付けの寝台は邪魔で――いたたたたたた」
「ほぐろしんらいはほわえはらほーひてふれうんれすは」
「噛みながら文句を言わないでくれ。腕に刺さってる、八重歯がしっかり刺さってる」
こちらが全面的に悪いのは間違いないとはいえ、まさかいきなり腕を噛まれるとは思わなかった。
一応、こちらに怪我を負わせないよう気を遣ってくれているらしい。しかし、彼女の絶妙な力加減は甘噛みと呼べるほど優しい物ではなく、僕は顎に皺を寄せて激痛に耐えつつ、空いた手で橙色の頭をポンポンと軽く撫でて許しを請う。
その甲斐あってか、ファティマは渋々といった様子で腕を解放してくれた。
「もぉー……おにーさんじゃなかったら、腕をぶっちんしてたところですよ。お礼を言いたくてついてきたのに、いきなりなんてことしてくれるんですか」
「あぁその、今後もし壊してしまったとしてもちゃんと責任を持って直すから、腕を持って行くのは勘弁してくれない、だろうか」
「その時は寝台が直ってから考えますね」
「引きちぎってから考えられてもなぁ……」
真顔で無茶苦茶なことを口走る猫娘に、自分の背中は寒風に晒されるが如く冷たくなる。
彼女にとって僕の腕は、玉匣の寝台と等価であるらしい。
そう考えてしまうと少々心に来るものがあったが、この会話が馬鹿馬鹿し過ぎたからか、マオリィネは盛大なため息をついて眉間を揉んだ。
「はぁ……いきなり何を物騒な話してるのよ。キョウイチの腕が無くなったら、ファティマだって困るでしょう? 撫でてもらえなくなってもいいのかしら?」
少々過熱気味だった感情に冷や水を浴びせられたからか、珍しいことにファティマは激しく動揺した様子を見せた。
視線をあちこち彷徨わせながら怯えたように尻尾を足に巻きつけ、最後には縋るように歯型の残った腕にしがみ付いてくる。挙句その表情は、捨てないで、と言わんばかりのものだった。
「ぼ、ボクついカッとなって……おにーさんに撫でてもらえないのは、とっても、とっても困ります、から」
「そんな顔をしないでくれ。僕の方が困ってしまうじゃないか」
腕を引きちぎられるのは流石に勘弁してほしいが、だからといってファティマの悲壮な表情など見たくはないのだ。
だから僕はこれまでの物騒な言葉を冗談と受け取り、いつもと変わらない苦笑を浮かべながら大きな耳の間を優しくゆっくりと撫でていく。
そんな自分の様子にファティマは安心してくれたのだろう。抱き着く腕に一層力を込めて身体を寄せると、頬を擦りつけてゴロゴロと咽を鳴らしはじめる。
全く現金な娘だ。マオリィネは琥珀色の半眼を向けていたが、僕にはこの素直すぎる表裏の無さもまたファティマの魅力であり、許してやってくれと肩を竦めておく。
「貴方は本当に――ひゃっ!?」
すると彼女は自分の対応にも呆れたのだろう。何か言おうとしたものの、直後に背後から生えてきた焦げ茶色のキャスケットに、ビクリと身体を震わせて跳び退いた。
「驚かせてごめん。キョウイチ、少しいい? ポラリスのことだけれど」
「あぁ、どんな具合だろうか?」
「魔術行使によって消耗している様子は依然と変わらない。けれど、スノウライト・テクニカで療養していた時より落ち着いているように見えるから、じきに目を覚ますと思う」
シューニャからの報告に、僕は緩くファティマを離しながら安堵の息を漏らした。
エーテル遺伝子研究によって、人工的に植え付けられた超能力という兵器的特性。現代で魔術と呼ばれる才に関しては、残念ながら使用者の感想程度の漠然とした情報しかなく、その能力を行使することが身体に与えるダメージについては謎が多い。
だからか、マオリィネはシューニャの所見に首を捻った。
「けれどポラリスが使った魔術は、あの時と変わらないくらい強力なものだったわよ? それも連発していたのに、前より早く目覚める事なんてできるのかしら」
「私も魔術のことについてはほとんど分からないから、今の身体的状態を見てそう推測しただけ。ただ、ポラリスが特別な存在であることを考えれば、魔術の才能を急速に成長させたとしても不思議ではない」
「ホント、ポーたんは天才って奴だねぇ。魔術を使った後の疲れた感じって、身体鍛えても変わんないのが普通だし、アクアアーデンとか使うのだって楽して強い力を出せるようにするためだもん」
いつの間にかポラリスの隣へ潜り込んでいたらしいエリネラは、両手で頬杖をつきながら、ほへぇと感心したような声を漏らす。
見た目にしても思考にしても子どもっぽいところが多い元将軍様であるが、業火の少女というあだ名の通り、現代人の中では他の追随を許さないほど武勇と魔術に長けた存在であるため、シューニャもマオリィネも興味深げにその感想に耳を傾けていた。
「触媒の有無以外で消耗は変えようがない、ということかしら」
「それ以外で強くなったとか、魔術を使える時間が伸びたとかって話は聞いたことないなぁ。そもそも鍛えて強くできるなら、普通の魔術師がみんなアンプラトみたいなのにはならないだろー?」
「それは確かにそう」
アンプラトというのは確か、サラダに入っている豆苗のような非常に細い野菜の事だったと思う。なので、貧弱で痩せている、とかいう意味の言葉なのだろう。
触媒の研究ばっかりしてるからなぁ、というエリネラの言葉にシューニャも納得しているため、どうにも本来の魔術師とは随分インドアな存在であるらしい。無論、それ以外に魔術能力を向上させられないのなら、当然の形だったが。
ただ、今気にするべきは魔術そのものに関してではないため、僕は彼女らの間を縫って寝台の横にしゃがみ込み、穏やかな寝息を立てる白い少女の髪をふわりと撫でた。
「なぁに、体に何の異常も無ければ、元気になってくれさえすればそれでいいんだ。ポラリスが強力な魔術を使わないといけないのは、毎度毎度僕ら大人の都合のせいなんだからね」
魔術やホムンクルスの身体について、自分たちはあまりにも無知でありながら、それでも強すぎる力に頼ってしまうことは多い。
だからこそ、できるだけポラリスが魔術を行使することなく健やかであれるよう、僕は一層強く平穏な暮らしを求めねばならないのだ。
その思いは言葉にせずとも伝わったのだろう。皆一様に頷いてくれる。そのついでとばかりに、アポロニアは砲手席の入口から顔を覗かせた。
「だとしてご主人、この後はどうするッスか?」
「一旦家に戻ってダマルと合流するつもりだよ。怪我をするまで無茶をしてくれた子らの傷も、きちんと確認しておく必要があるからね」
気にするべきはポラリスの事だけではない。
今回の戦いでは、自分が到着するまでの時間を稼ぐため、全員が危険へ身を投じてくれたのだ。後できちんと報いるのは当然として、身体のケアは適宜しておく必要がある。
しかし、ファティマは包帯の巻かれた腕を持ち上げて首を傾げ、アポロニアは額を擦ってどこか申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「ボクはお仕事しただけですし、傷も全部浅いんで大丈夫ですよ?」
「自分も役目を果たしただけで大したことは――って言ってもダメ、ッスよね?」
「当たり前だろう。浅い傷から重い病気に繋がることだってあるんだ。状況的に無茶をしなければいけなかったのは理解しているが、それでももっと自分を大切にしてくれないと僕が困る」
いくらシューニャが彼女らの治療をしてくれているとはいえ、それは包帯とガーゼを用いた応急処置に過ぎない。
対する現代の衛生環境はあまりにも劣悪であり、傷の悪化や感染症のリスクを抑えるためにはまず身体を清潔にしつつ、必要に応じて薬を用いておいたほうがいいに決まっているのだ。
しかしアポロニアはといえば、砲塔から軽やかに降りてくると、何か含みがある笑みを浮かべながら僕の前に立った。
「なぁんでご主人が困るんスか?」
「いやそれは――あれだ。身内が危険に晒されていると思うと、気が気じゃないってことだよ、うん」
小柄な犬娘の不思議な圧力に、僕は1歩後ずさって頬を掻く。
家族が傷つけられて困るのは当然のことであろう。しかし、何やらアポロニアはファティマと顔を見合わせると、今度は2人そろって嫌らしい笑みをこちらへ向けてきた。
「な、なんだい2人して」
「ご主人が心配でたまらないっていうなら仕方ないッス。後で自分たちの事、ちあゃんと診てもらうッスよ」
「んふふ、そーいうことにしときましょーね」
僕は何を言われているのかサッパリわからなかったが、彼女らは随分と上機嫌であり、くるりと左右から腕に巻き付いてくる。おかげでシューニャとマオリィネからの視線が少々痛い。
そんな状況を打開してくれたのが、退屈そうに欠伸を漏らすエリネラだった。
「ねぇ帰るなら早くしよーよ。あたしお腹空いた」
「あ、あぁ、そうだね、そうしよう。シューニャ、運転代わるよ」
「……ん、お願い」
状況が整理できない以上、一時撤退とばかりに僕が運転席へ向かえば、ファティマは大切な寝台へよじ登り、マオリィネは後部座席へ腰を下ろし、アポロニアは砲塔の上へと戻っていく。
ただ、シューニャだけは僕の後ろをついてきており、わざわざ座り心地の良くない補助座席へ陣取った。
「運転で疲れただろう。後ろで休んでいてもいいんだよ?」
「私は平気」
いつもの無表情で短くそう告げられると、そうか、としか言えず、僕はエーテル機関を始動して玉匣を発進させる。
最早この巨体を隠す必要もないため、驚いて逃げる人々を横目に、堂々と北門へ向かって大通りを進んだ。
その途中、轍か何かを踏んで車体が動揺した折、シューニャはポツリと口を開いた。
「……マオリィネには、言ったの?」
「ああ。君たちの凄さが分かったよ。後出しだというのに、告白とは思った以上に緊張するものだ」
「そう」
ちらと視線だけを横に流しても、彼女の表情は相変わらずで内心は全く読み取れない。
ただ、短い沈黙の後、シューニャは視線を合わせないままで、また小さく呟いた。
「できれば……ファティたちも、あまり待たせないであげて欲しい」
「ああ、わかっているよ」
ハンドルを握る手に力が入る。
過去と弱さを盾にして、今まで散々待たせてきたのだ。それも腹を括れたのは、シューニャの勇気に背中を押されてようやくのことである。
誰かの感情に報いるのではなく、自らの気持ちを伝えねばならない。強い好意は自分の中にもあるのだから。
しかし、告白のことだけでなく、既に2人から了解を得てしまった将来の家族構成を想像すれば、身体は自然と震えそうになる。
それを必死に短く息を吐いて、落ち着け、まだ何も始まってすらいないぞ、と自分に言い聞かせて抑えこんだ。
「……私もまだ、皆に気を遣って我慢してる、から」
それは蚊の鳴くような声であり、半分も聞き取れなかったが、またチラと視線を向けてみれば、何故かシューニャは何もない壁と向き合ったまま硬直していた。
彼女が何を伝えたかったのかは正直分からない。だが、彼女なりに相当恥ずかしい言葉を呟いたらしく、ポンチョから覗く色白な肌は首まで赤くなっている。
――夫婦か恋人、ね。
軽く唇に親指を這わせれば、2人分の柔らかい感触と800年前の出来事が鮮明に思い出される。ついでに頭突きからきた血の味もだ。
恋人らしい触れ合いはまだまだ覚束ず、気恥ずかしさと彼女らを求めたい想いが半分ずつ思考を染めていく。
これがもし5人ともなれば、自分はおかしくなってしまうのではないか。頭ではそう思っていながら、心臓は不必要に高鳴るのだから始末に負えない。
「惚れるって言うのは、想像以上に大変なことだなぁ」
「……けど、苦しくない。ふふ、とても不思議」
翠色の瞳と視線だけを合わせ、頬を赤らめたシューニャと小さく笑い合う。
破壊された北門を越えた玉匣は、一時的に温かい我が家へ向けて加速する。それが恒久的な物となることを切に願いながら。




