第110話 手がかりへの道筋
往来のざわめきで目が覚めた。
体を起こして周囲を見回せば、いつの間にかダマルが帰ってきており、いびきをかいて眠っている。どうすれば骨の身体からいびきなどかけるのか知らないが、ガーガー騒音を垂れ流していなければ生きているか死んでいるかすら判断できないので、この機能は必須とも言えた。
――ダマルが居るってことは、昼前ぐらいか?
このところ連続の戦闘で疲れていたとはいえ、少々眠りすぎたらしく身体がだるい。顔でも洗えば多少は気も張るかと思い、ベッドから出ようとすれば、薄いシーツが何かに引っ張られていることに気付いた。いや、気づいてしまったと言うべきか。
「さみゅい……です」
グルグルとシーツを体に絡みつかせながら、そんなことを呟くのは薄着のファティマである。おかげで僕は状況が呑み込めず硬直した。
昨夜のことはハッキリ覚えている。支配人騒動の影響でシュラフを玉匣の中から持ち出せなかったため、仕方なく藁の煎餅布団で眠ったのだ。無論、その時は1人で。
つまり自分に落ち度はない。そう確信した僕は、とりあえず彼女に事情説明を求めることにした。
「あー、その、ファティ? 君はなんで僕のベッドに居るんだい?」
「ぅにゃ……もーちょっと寝てましょうよぉ……おにーさんのことも、ちゃーんとあっためてあげますからぁ」
「寝ぼけてるな……僕ぁコンビニ弁当じゃないんだが――っとぉ!?」
まだまだ寝足りないのか、彼女は蕩けるような笑顔をこちらに向けると、腕を伸ばして絡みつき、そのままベッドへと押し倒された。
幸せそうにゴロゴロと咽を鳴らすのはいい。なんなら頬を摺り寄せてくるのも、可愛らしいの一言で片づけられる。しかし、薄着で健康的な肢体で抱き着いてくるのは少々頂けない。それも寝起きであるため、男性諸氏には生理現象と言えば理解できるだろう。
「これは……流石に不味い……ぞ」
「おにぃさぁん、えへへ」
「えへへじゃなくてね。あーもう……寝れるわけないでしょうが」
顔を洗うよりも余程効果的な目覚ましであり、眠気など最早欠片も残っていない。
軍服越しに伝わる身体の柔らかさは、最早凶器と言っていい。それも逃れようと藻掻こうものなら、ファティマはより強く押さえ込んでくる上、動くだけで身体の凹凸がはっきりと感じられて余計に理性を削ってくる。挙句、くすぐったそうにする彼女の声さえ、やや官能的にさえ感じてしまう有様だ。
「ファティ……さん……! 頼むから……起きて、くだ、さい……ッ!」
「やぁですよぉ」
「や、やぁじゃなくて――コラ、上に上ってくるんじゃありません! 結構エマージェンシーだよこれ!?」
横から押さえつけているのが面倒くさくなったのか、彼女は仰向けになった身体をよじ登ろうとしてくる。しかし、そこには自己の意志で制御できないパーツが存在するのだ。
それも身をかわそうと彼女の体に手を伸ばせば、ファティマはこれまた色っぽい声を出してくれるので堪らない。
「んぁっ……んふふ、くすぐったいですよぉ、じっとしてくださぁい」
「ちょっ!? そういうこと言うんじゃないよ!! め、メーデー、メーデー!!」
以前発情した時を思い出すような甘い声に、堅牢に作り上げたはずの理性が儚くも吹き飛びかける。最早なりふり構っていられない状況に、僕は助けを求めて廊下に向かって声を上げた。
それに呼応してうっそりと顔を出したのは、寝ぼけ眼のアポロニアである。その鬱陶し気な表情さえ、自分には天使の微笑みに思えたほどだ。
「朝からうるさいッスよぉ……何ッスかもぉ――って、い、い、いきなり何やってるッスかこのエロ猫ぉ!?」
「アポロ、助けて! 僕の方が色々ヤバい!」
「んぇっ!? あ、えっと、が、合点承知!」
一瞬、彼女は何か狼狽えたが、すぐに表情を引き締めるとファティマの上に跨り、勢いよく両脇腹に手を突っ込んだ。
途端にファティマはカッと金の双眸を開くと、エビのように体を跳ねさせて床をゴロゴロと転がった。
「ふにゃあぁあっ!? なななな、何するんですかこの変態犬!?」
ファティマは相変わらずくすぐられるのに弱いらしく、さっきまでの眠たげで蕩けそうな表情はどこへやら。まるで猫そのものになったかのように四つん這いに構え、尻尾を山なりにしてシャーと叫んで威嚇している。
一方のアポロニアは目標は達せたとばかりにため息をつき、腰に手を当てて彼女を睨みつけた。
「エロ猫に言われたく無いッスよ。男性の寝所に潜り込むとか、猫も乙女としてもうちょっと恥じらいを持つべきッス」
「ぼ、ボクはエッチな事なんて考えてませんもん! ただ、おにーさんをあっためてあげようって思っただけですし」
「なーにを言ってるッスか。別に凍えるような気温でもあるまいし。大体、ご主人だって憔悴して――ないッス、ね?」
呆れたように振り返ったアポロニアは、何故かシーツの一点を見つめてごくりと生唾を飲み下す。
名誉のために言っておくが、これはあくまで寝起きに起こりうる生理現象であり、つまり制御ができるものではない。だからといって見せびらかすようなものでもないため、僕は勢いよく彼女らに背を向けたが。
「あーその……別にそういう考えだったわけではなく、ですね」
「わ、わわ、分かってるッスよ!? ただその……ご主人もたくましいって言うか――」
「何がですか?」
「そういうこと言わなくていいから! ファティも、観察しに来るんじゃありません!」
流石に羞恥に耐えかねて、僕はやや前かがみになりながら逃げるように部屋を飛び出した。しかし廊下に出るや否や、騒ぎを聞いて起き出してきたシューニャと鉢合わせてしまう。
「キョウイチ……何をそんなに騒いで――変な姿勢だけど、どうかした?」
「いや、何でもない。何でもないから覗き込まないでください」
寝ぼけているらしいシューニャが、不思議そうに首を傾げているうちに、僕はそそくさと階段を下る。下手に状況を理解されれば、暫く汚泥を見るような目を向けられ続けるのは間違いないのだから。
――娼館にでも行った方がいいだろうか。
そんなことを考えさせられる昼下がりだった。
■
「流石は英雄様ね、今回は色々と助かったわ」
そんなことを言いながら、マオリィネは上機嫌に薄められていない果実酒を煽る。
彼女が是非お礼がしたいと言うので、ディナータイムに揃って夜鳴鳥亭の酒場に顔を出してみれば、店を貸し切っての立食会が協力者一同を招いて催されていた。
マオリィネ曰く、捕縛されたポトマック子爵の邸宅から、フリードリヒ・デポールとの癒着関係を示す書類が発見され、一族揃ってお縄に着いたとのこと。
その書類の内容はクローゼの予想通り、奴隷化したキメラリアを安価でコレクタユニオンへ卸す対価に、奴隷解放の費用が低減することで出る利益の一部を、ポトマックへと横流しするという、至極単純でわかりやすいものだった。
また、フリードリヒに関しても、クローゼが持ち帰った蛇行剣とタグリードの遺体によって衛兵隊に捕縛命令が出されたが、間もなく王都北部の農地で遺体が発見されている。
あとはポトマックから芋づる式に、キメラリア奴隷化推進派の貴族は裏を洗われることになり、その発言力は大きく低下するに違いない。デミであるマオリィネにとって、これは非常に大きい話であり、心底嬉しそうな笑顔を弾けさせていた。
「ああ、こんな痛快なのはいつ以来かしら! あとは女王陛下が裁かれるのを待つだけよ」
「随分手際のいいこった。まるで俺たちは体のいい釣り餌だな」
ダマルはどうにも上手く利用されたように感じたらしく、兜の奥から訝し気な声を出したが、彼女はまさかと肩を竦めて見せる。
「最初から全部わかっていたなら、貴方達に疑われるような真似するもんですか。ねぇクローゼ?」
「……その節は、本当に申し訳ありませんでした」
クローゼは耳が痛そうに表情を歪めながら、深く深く腰を折った。
彼には副支配人という立場がある以上、身内の対立を見ず知らずの他人に話すわけにもいかず、結果としてあのぶっきらぼうな警告になってしまったとのことである。
それも今になっては、過ぎた話に過ぎないが。
「まぁまぁ、共闘を受け入れておいて今更蒸し返しませんから」
「感謝します……コレクタユニオン本部にもこの件は報告しましたので、追って支部の再編に関する沙汰もあるでしょう」
どこか安堵した様子で彼は眼鏡の位置を直すと、赤い果実酒が注がれたグラスを煽る。どうやら今まで余程気を揉んでいたらしい。
ただ支部が再編されるという内容に、シューニャが興味を持ったらしく首を傾げた。
「フリードリヒが死んだ以上、次の支配人はクローゼに?」
「少なくとも新支配人が着任するまでは、私が暫定的に指揮を執る事にはなるでしょうが、それ以降はなんとも。まぁ自分が忙しくなることは間違いないですがね。フリードリヒの息がかかった職員を一掃しなければ、本部に何を言われるかわかりませんから」
「おお、一気に引っこ抜けそーですね」
「人員不足の心配がある」
一網打尽にできるとファティマが感心する一方、シューニャは支部の運営そのものに問題が起こる懸念を示す。
なんといってもクローゼが孤立するくらいに、王都支部はフリードリヒの支配が行き届いていたのだ。協力者の基準によるとはいえ、大半の職員が処分の対象になりかねないことは自明の理であろう。
職務経験者を纏めて解雇するようなことになれば組織の機能不全は避けられず、しかも現代において文官職の人材を確保するのは簡単ではない。
それをクローゼは重々理解しているらしく、げんなりと肩を落として懇願するような視線をこちらへ向けた。
「そうなのです、そのためこれは提案ですが――アマミ・コレクタの皆さんは、コレクタユニオン職員などにご興味はございませんか?」
「はい?」
いきなりのヘッドハントに、つい声が裏返った。
「アマミ・コレクタの皆様は、少数でも精鋭リベレイタを制圧できるほど優れておられる。そんな皆様にコレクタユニオンの直属部隊として戦っていただけるなら、これほど心強いことはありません。それにロール氏は書類仕事にお強そうなので、ぜひ協力して頂きたく……」
余程追い込まれているのか、余りに突拍子もない話が次々と口から転がり出る。なんならコレクタに所属していないはずのダマルとアポロニアまで、ヘッドハント対象に含まれているらしく、全員がぽかんとしたのは言うまでもない。
それこそ放浪を始めてすぐならば、この提案に飛びついたことだろう。何せ現代では得難い定職である。それだけに、何故か妙な笑いが込み上げてきてしまった。
「ハハハ、いや、すみません。せっかくのお誘いなのですが、自分は遠慮しておきます。権謀術数の世界は肌に合わないものですから」
「まぁ相棒がこういう以上、こちとら一蓮托生なもんでよ。わりぃな兄さん」
「ボクはおにーさんのリベレイタですし」
「自分もご主人についていくって決めたッスから、申し訳ないッス」
「私もキョウイチと行動を共にしている以上、職員にはなれない」
いつもは涼しい顔をしているクローゼも、ここまで一斉に袖にされてしまえば、流石に堪えたらしく、がっくりと肩を落とす。
そんな姿にエデュアルトが爆笑し、マオリィネがほら見なさいとばかりにため息をつく。ウィラミットに至っては興味もないらしくヤスミンを撫でており、結果として同情的な視線を送るのは、ジークルーンとハイスラーくらいのものだった。
「そう、ですよね……いや、わかってはいたのですが、ハハハ」
打ち砕かれた淡い希望に、彼は乾いた笑いを漏らすことしかできなかったのだろう。
それに心を動かされたという訳ではないだろうが、シューニャは少し考えてからポツリと呟いた。
「――職員にはなれないけれど、力を貸せないことはない、かも」
「と、申されますと!?」
今までに見たことの無いほどの機敏さで、クローゼはまるで縋るようにシューニャに詰め寄った。
その迫力に彼女は相当驚いたのだろう。慌てて僕の背中へ隠れると、そこから覗き込むようにして、自信なさげに声を漏らす。
「き、キョウイチの名でグランマに応援を求める手紙を書けば、バックサイドサークルからなら優秀な人材を回してもらえるかもしれないというだけ。バッジの紋章を蝋印で添えれば、証拠にはなるはず……だから」
「り、リロイストン支配人に直接手紙、ですと?」
「キョウイチからと言えば、流石に破り捨てられることはないと思う。それに今回の首謀者であるフリードリヒは、記憶違いでなければグランマの推薦で支配人になったはずだし、キョウイチに噛みついたと伝えれば――あるいは」
グランマは自分に首輪をつけようとして失敗したが、目的はどうであれバッジだけは外させないようにと心を配っていた。それをシューニャは弱点と見たらしい。
暫くクローゼは彼女の提案を暫く悩んでいたようだが、やがてじわりと頭を下げ、絞り出すような声で頼み込んだ。
「ご迷惑でなければ……是非ともお願いを申し上げます」
「――ただし交換条件がある」
だが、シューニャには打算があったらしい。背中に隠れたままの彼女がピッと人差し指を立てると、クローゼは僅かに頭を上げて冷や汗を一筋流した。
「条件、と、言われますと……?」
「私たちはテクニカを探している。だからコレクタユニオンが持つ位置に関する情報と、可能なら推薦状も出してほしい」
これにはクローゼも硬直した。
テクニカの情報や推薦状となれば、一支部が扱える情報かどうかさえ定かではない。対価としては非常に重い要求だが、それでも手紙という命綱を手放したくないという葛藤からか、彼は頭を下げた姿勢のままで何事かブツブツと呟いた。それをファティマが小声で、なんだか気持ち悪いですよ、なんて言うものだからアポロニアに背中を叩かれている。
そうしたまま待つこと暫し、ようやくゆっくりと持ち上がった彼の顔は、まるで決死の覚悟を決めた兵士のようだった。
「貴方がたの示された優秀さを鑑みれば、テクニカへの推薦を本部に打診する要件は満たしていると言えるでしょう。ただ推薦も情報も本部の判断ですので、絶対にお伝えできるとは言えませんが――」
「それが副支配人権限でできる全てならば、私に異論はない。それでいい?」
「任せるよ」
シューニャは確認のためかこちらを見上げたが、僕が頷いたのを見て2人はガッチリと契約の握手を交わして見せた。
これにより、自分たちははじめて、テクニカへの切っ掛けを掴むことができたのである。




