第三話
今回は短めになっています。
ドアを開けた瞬間に広がる森の香り。この家はまるで木々に囲まれているような、そして今にも動物たちが飛び出してきそうな雰囲気が漂っている。
目を閉じ、深く息を吸った。何故だろうか、ここの匂いや雰囲気はいつも俺に安らぎを与えてくれていた。それほど訪れているわけではないが、だからといって緊張はしない。気軽に訪れることができるような、そんな家だった。
……本人がいれば、の話だが。
「学園長?」
彼女が不在であれば、彼女が泥棒対策に家にかけた魔法により、家に入った瞬間植物の蔦が襲ってくる。いや、それは泥棒対策というよりかは悪戯小僧への対策であるため、蔦もあまり攻撃性はなくただ「侵入者」を捕らえるためだけに動く。マナーをしっかり守れ、と言いたげに。
今日はそれが無い。つまり学園長はこの家にいるということ。いや、そもそも扉が自動で空いた時点でそれは確かだ。
しかし姿が見えない。いつもであれば、その言葉通りすぐに飛んでくるはずなのだが。
「学園長……?」
不安に思い、もう一度彼女を呼んだ。返事は、ない。
――どういうことなのか。もしや彼女の身に何かがあったのか、と心配になったその時。
「あああレオンきゅん! 私の愛しのレオンきゅんではないか! ごめんよぅ寝ぼけ眼で入室許可をしちゃったから、誰が来てたのか見てなくて――」
……と、階段の最上段から飛び降りて飛んできたのは、探していた学園長本人だった。その勢いのまま俺に抱き着いてきたため、共に床に倒れこむ。とても良い音がその場に響いた。……痛い。
「がくえ、んちょ……」
「ああ、ごめんね! 愛しいレオンきゅんの姿が見えたから、つい」
語尾に星が飛んでいそうな表情で言われたため、若干の苛立ちが溢れてしまったのはご愛敬だろう。そもそも誰が来たのか分かっていないのに入室許可を出すなとか、そんな状態になるまで仕事をするな、など言いたいことは沢山あったが、一先ず伸ばされた手を素直に取り、立ち上がった。
さて、この子供のような言動、見た目をしている彼女が、ソーレ学園の学園長であるプリム・ソーレ・ヴァーパスだ。
身長は俺の胸の高さほどしかなく、顔立ちも幼いためよく子供だと勘違いされるらしい。だが、彼女は立派な成人女性である。この幼い見た目は彼女が「エルフ族」と人間のハーフであることが関係していた。
そのため、身長が低い以外にも、例えば尖った耳やアーモンド形の大きな瞳などのエルフ族にある特徴が見られる。森の木々のような深緑の髪は耳より高い位置でツインテールにされ、それも彼女が幼くみられる原因の一つなのではないだろうか。
ちなみに、ゆうに百歳を超えているらしい。
「さてさて、ヴェルダイナくんよ。私に何か用があって来たのだろう? なんでも仰せ、叶えてやろう」
「何ですかその口調は……あと、俺の呼び名も固定してくださいよ」
そう言うと、こちらは新緑を想像させる翡翠の瞳が輝き、「この口調はとある小説に出ていた王様の真似なんだけど~」と語り始める。
しまった、触れなかった方がよかったか。彼女は稀に、いや、たまに……よく……暴走し、このように誰も話を聞いていなくとも自分の好きなことを語り続けてしまう。が、今は俺の話を聞いてほしいため、気は引ける――こともないが、彼女の話を中断させる。
「学園長、俺のお願いはですね」
「おお、そうだった! レオンきゅんは何をお望みなのかな?」
「……髪を、切ってほしいのです」
「髪を?」
彼女は呆気に取られた表情をしたものの、すぐに笑顔を浮かべた。
「もちろん! 他でもない君のお願いだ。叶えないわけがないよ!」
***
鋏が擦れる音と、髪が床に落ちる音。そして、互いの息遣いが耳に入る。
静かな空間だ。視界の端に見慣れない魔法道具が散乱しているが、それには目を背ける。あれに触れては先程の二の舞だ。
「この感覚、懐かしいね」
温かく、柔らかな声が聞こえた。彼女にしては珍しく落ち着いている。
きっと穏やかな表情を浮かべているのだろうが、振り向く事ができないため確認もできない。目の前の鏡に映るのも、いつもの表情をした自分の顔だけで、彼女の姿は隠れていて見えない。曖昧な返事だけを返した。
「最初に会ったとき、真っ先に髪の毛を切ったんだっけ」
覚えてる? と問いかけられ、軽く頷く。確かに彼女と出会い、この学園に来た後に最初にしてもらったのは大分傷んで汚れてしまっていた髪を切ることだった。
「懐かしいなぁ……。けど、君から来るなんてビックリしたよ」
あの後も何度か彼女に切ってもらっていたが、そういえば俺から頼んだのは初めてだった。いつもはあまりにも伸びた俺の髪を見た彼女が堪えきれず、無理やり切らされていた。
何となく。そうぶっきらぼうに答えるも、今度は何かをからかうような声色へと変化していた。
「もしかして、好きな子でもできた?」
「違います」
「そっか、あの小さかったレオンきゅんが……お母さん寂しいよ。でも、頑張るからね」
「何をですか。それに、もう一度言いますが、好きな人ができたわけじゃありませんからね」
彼女は聞く耳を持たない。ああ、これもまた暴走癖か……と内心ため息をつく。
――だが、「母親」という点に関して、否定することはできなかった。
心の奥底で稀に彼女を母親のように慕っていたのも事実。あのような幼い見た目ではあるが、俺を一番親身になって支えてくれたのは彼女であり、それに救われたこともまた事実。
……だからこそ、どんなに苛立たせられようとも、不思議な呼び名で呼ばれようとも、彼女を嫌うことなどできなかった。
「そうかそうか。で、お相手は誰なんだい?」
「違いますからね」
存在しない俺の好きな人を探索している彼女を横目に、俺は、ふと笑みをこぼした。鏡の中の俺も、その紫の瞳を薄く細めていた。