女執事の格闘指南
翌日の午後――
やることも無く俺は宮殿の中庭にあるベンチにかけて、空に輝く昼過ぎの天球を見上げていた。
魔法を使えなくなるまで、前回と同じペースならおよそ三ヶ月ほどだ。意識の退行もその頃からひどくなっていく。
ヘレンのおかげで記憶を保持できても、レベルドレインで最低限の戦闘力さえ失ってしまうのはまずい。
ドナの「一緒にお風呂に入りましょう」という罠を「ぼ、僕、一人でできるから! 信じてドナママ!」の殺し文句でやんわり回避することで、前回よりは力を持たせられそうだが、時間稼ぎでしかない。
俺の足下では青い獣が前足を身体の内側に畳むようにして、あくび混じりで座っている。
「これからどうするつもりなんだいゼロ?」
「外に出るための口実が必要なんだが……さてと、どうしたもんかな」
石化する奇病――白魔法を歪めた例の呪いは、魔法的な効果すら打ち消す万能薬の完成で終息する予定だが「材料集めに行きたい!」というべきか。
正直、少し鍛え直す時間は必要だ。けど、材料の素材を落とす魔物の倒し方は前世の時に心得ている。
ドナが許しちゃくれないだろうな。宮殿から出ないよう言われてるくらいだし。
俺が冒険者としてやっていけると、どうやって証明したものか……。
「おや、お坊ちゃまこんなところでなにをなさっていらっしゃるのですか?」
宮殿の建物から執事服姿の黒豹系獣人族――レパードが、キビキビとした足取りで姿を現した。
俺はベンチに座ってで足をぶらつかせながら言う。
「あのねレパードお姉ちゃん、僕ね……強くなりたいんだ」
「お坊ちゃまは白魔法の達人にございます。充分にお強いのでは?」
「えー、ぜんぜん強くないよ。守ったり癒やしたりは、ちょっとはできるけどぉ」
腕組みをして大ぶりな胸を下から支えるように持ち上げつつ、レパードは「ふむ」と声を漏らした。
「ではお坊ちゃま、私が護身用の格闘術をお教えいたしましょう。魔法が使えない状況で、きっと役に立つでしょう」
格闘術? 常闇街の執事というのは荒事にも精通しているらしい。
「ほ、本当に!? やったー!」
魔法無しでレパードを屈服させれば強さの証明になるな。
女執事は軽く襟元を緩ませると、上着を脱いでベンチの背もたれにかける。
「まずはお坊ちゃま、暴漢になったつもりで私に襲いかかってください。押し倒すことができれば私を好きになさってけっこうですよ」
そいつはご褒美だ。スケベ心が奮い立ち、やる気も三割増しである。
「よーし、じゃあ行くよ!」
ベンチから跳ねるように立ち上がって、俺は正面からレパードに向かっていく。
レパードは構えもとらない。隙だらけだ。
誘っているのが見え見えすぎて、まっすぐ行きづらいな。
こちらも最初から、まともにぶつかっていくつもりはない。リーチの差は大人と子供で大差がある。
彼女が腕を伸ばせば届く寸前のところで、俺は彼女の左側に跳んだ。
瞬間、レパードの身体がコマのように回転して、後ろ回し蹴りが俺の胴体をなぎ払う。
「――ッ!?」
寸前の所で腕を十字に組んで蹴り足を受け止めた。
「おや? お見事にございますお坊ちゃま。その身のこなしでしたら、こちらも少し本気を出させていただきますね」
いかに身体能力を強化していないとはいえ、こちとら炎竜王に氷神も倒した経験があるんだ。
「あ、あのぉ……教えてくれるんじゃないのレパードお姉ちゃん?」
「しばらく私もたぎる相手がおりませんでしたので、お坊ちゃまでしたこの身体のうずきに応えていただけるかと」
トン……トン……トン……と、その場で軽くジャンプをすると、彼女はリズミカルにステップを踏み始めた。
拳闘士が使う“足”の技だ。
華麗な足捌きで翻弄するようにゆらゆらと俺に近づくと、いきなり抜き手が俺の顔面めがけて飛んでくる。
腕で払ってやり過ごした。
が、レパードは構わず下がるどころか、さら一歩踏み込んで、当て身で俺を吹き飛ばす。
というか、俺が後方に自ら跳んで衝撃をいなしたのだ。
三メートルほど距離が開き、仕切り直しといったところか。
にしてもやっかいだな、あの足捌きは。こちらの呼吸を読んで絶妙のタイミングで仕掛けてくるのは、黒豹の本能か。
レパードはその場で軽く一礼した。
「真に素晴らしい判断力にございます。お坊ちゃまはただ者ではございませんね」
護身術のレクチャーそっちのけだ。
「まぐれだよ。それより護身術を……」
「まぐれは二度三度とは続きませんよ!」
こっちの話なんて訊いちゃいない。レパードはグッと身をかがめた。低い姿勢から、今度はまっすぐ猟犬のように俺に迫る。
襲ってきてるのはそっちじゃないか。どっちが暴漢だ!
クロスレンジまで距離を詰めるや、レパードの右肩が動いた。リズミカルに軽く“振る”ような右のジャブが飛んでくる。
避けるのを諦めガードしながら、続くレパードの左ストレートを待った。
俺の予想はまるで未来でも予知していたように、ドンピシャだ。続く、ジャブと比べれば大振りになる左の強打を、俺は下からかちあげるようにしてそらす。
瞬間、レパードの表情が唖然となった。
「なん……ということでしょう」
動きが止まったところを逃さず、俺はタックルで彼女の腰より下を掴んで持ち上げた。
「よいしょっと! とりあえず落ち着いてレパードお姉ちゃんってば!」
レパードの下腹部におでこが触れる。カッターシャツの布ごしに、鍛えられた腹筋の感触があった。
日頃から相当な修練をしているみたいだ。スピードはレパードが上。だが、寝転がしてしまえば、自慢の脚力も使えまい。
バタンッ! と、彼女の背中が庭園の芝生についた。
そのまま彼女の腹に馬乗りになって、俺は拳を振り上げる。
もちろん寸止めで「勝負ありだね!」という流れにするつもりでいたのだが……。
レパードは瞬きもせず、俺に殴られようがかまわないと言わんばかりで、じっと俺の顔に……見とれていた。
赤面している。呼吸も荒い。
「ハァ……ハァ……お坊ちゃま。私の負けにございます。どうか、お好きになさってくださいませ」
「お好きに……って、しないよなにも! けど、これで勝負ありだよね?」
「私はまだ屈服してはおりません。トドメを刺すのをためらうと、手痛いしっぺ返しを食らうものですよ。お坊ちゃまはお優しいですが、その甘さが……ッ!」
突然、腹筋でもするようにレパードは上半身を跳ね起こすと、俺の左腕をとった。
あれよあれよという間に、身体を入れ替えられて俺の方が組み敷かれる。
レパードは俺の腕に巻き付くようにして、左手の腱と関節を“極め”た。
腕ひしぎ十字固めである。
俺の腕はレパードの胸の柔らかさを感じながら、激痛に襲われた。
「痛い痛い痛い痛い無理無理! まいりました!」
「勝負ありのようですねお坊ちゃま。私のフットワークを封じるために、寝技に持ち込む判断はよろしかったのですが、実は私はどちらかといえば、寝技の方が得意なのですよ……夜の方も」
パッとレパードは俺の腕を解放した。痛みはすぐに引き、最後に付け加えた彼女の言葉にも軽く引く。
いや、ご褒美だのノリノリになってやる気を出した俺が言うのもなんだけど、普通にこちらの顔面狙いはしてくるし、口振りこそ丁寧だが子供相手に言うようなことじゃないだろ。
まったく、彼女こそ常闇街の執事らしい。
軽く背中を叩いてから、上着に身を包んでレパードは言う。
「腕力こそありませんが、お坊ちゃまの戦闘センスには目を見張るものがございます。記憶を失う前は、相当な使い手だったに違いありません。もしや、力をお隠しなのでは?」
「え、ええと……身体が勝手に動いただけだから!」
「左様ですか。ではそういうこととしておきましょう。ところで、私に何か相談があるのではございませんか?」
こちらの気持ちを汲んでいるのか、はたまた見透かされてしまったのか。
「あのね、僕……外に出たいんだ」
「それはまたどうしてです?」
ここは奇をてらわずに行こう。
「僕の魔法で石化の病気は治せたけど、他にも治す方法があるかもしれないんでしょ?」
錬金ギルドや万能薬の話は、マリアの病状が悪化する直前に出た話だ。
今回も俺はその場に居合わせている。
「万能薬の材料集め……ですか」
「うん! まだ力が足りないと思うから、どこかで修行はしなくちゃね」
再び腕を組んで、レパードはそっと自分の顎先を軽く指でつまんでから、小さく息を吐いた。
「承知いたしました。ドナ様の説得は私もお手伝いいたしましょう。子供ながらに最果ての街までたどり着いたお坊ちゃまのことです。生まれながらの冒険者なのでしょうから」
そう言うとレパードは「装備に関しては、お坊ちゃまのサイズに合ったものをご用意いたします。ドナ様がお帰りになり次第、相談いたしましょう」と、言い残して彼女は宮殿の建物内に戻っていった。
足下で青い猫が俺の膝に顔をスリスリさせる。
「危うく正体がバレかけたねゼロ」
「まあ、半分バレてるようなもんだろうけどな。俺がタダのガキじゃないって、レパードは気づいてるみたいだし」
ナビは「そうかもしれないね」と返す。
再生する俺の正体に気づいていないお前が言うと、ちょっとしたギャグだな。




