退行化対策
美少年天使族として、俺は再び宮殿に戻ってきた。
クインドナの養子になり、マリアの奇病を治療しおえて三日が過ぎた。
夜――与えられた子供部屋は真っ暗だ。明かりもつけずにベッドから出ると、俺は部屋の大きな窓を開いてテラスに出た。
夜空の天球の月明かりよりも眩しいくらいに、眼下には、魔力灯の色とりどりの輝きが賑やかに明滅している。これからが常闇街の稼ぎ時だ。
今夜はドナが常闇街の会合で宮殿を留守にする。チャンスは今しかない。
それにしても……大いなる油断だった。
今思えば、ドナの養子になってからしばらく、彼女のスキンシップを受ける度に俺の意識は子供に退行していったんだ。
どういう仕組みかはわからないが、彼女が息を引き取った瞬間に俺の記憶はほんの一瞬だけ戻った。
おかげで記憶を持ち越せたんだが、彼女が俺を庇わなかったら、なにがなんだかわからないまま再生できたか怪しいものだ。
クインドナは俺にとって最愛にして最強の敵……ってのは言い過ぎか。
彼女が俺を……息子を守ろうとした気持ちは俺にだってわかる。
これはあくまで仮定だが、ドナが着ぐるみだったり肌の露出が少ない服を好むのも、直接触れた相手に何かしら影響を与えてしまうから、それをドナ自身が恐れているため……かもしれない。
それでも抑えきれずに俺に触れてしまうのは、仕方ない。だって可愛いもんな俺。俺可愛い。
で、どうしてそんな推論に達したかというと、しばらく見ていなかったステータスを確認したのがきっかけだ。
※警告 レベルドレイン発生 戦闘力の低下に注意
この一文に気づけなかったのも、最果ての街に天使族として到着してから、魔物と戦い修練するような状況が一度も無かったためだ。
レベルドレイン。
ガーネットに超一流の鍛冶職人の腕前があるように、シルフィに黒魔法の高度な知識と錬金術の技術があるように、ヘレンに黒い死神の如く超級魔法を使う力があるように、ドナには触れた相手から奪う力がある。
だからって、彼女のほっぺにチューを嫌がると、ドナは「今から自殺します」って言わんばかりに悲しそうな目をするんだよなぁ。
なので、現状、彼女の溺愛スキンシップを受け入れる方向で進めている。
二度目の養子生活は順調だが、もちろんこのまま進めば前回の二の舞いだ。
なので俺は、部屋のテラスで独り彼女の名を呼んだ。
「ヘレンお姉ちゃん……いるんでしょ?」
もはや俺の正体を隠し立てする必要は無いのだ。
「……私は……困惑している」
漆黒の翼が月明かりの中で羽ばたいた。
重さを感じさせない軽やかな足取りて、黒衣の死天使――ヘレンがふわりとテラスに降り立つ。
俺が常闇街に潜入する前に、彼女には今回も俺に中級白魔法を上書きしてもらった。
目的は魔法の性能向上じゃない。すでに中級は取得済みだ。
「よかった。僕のこと心配で、ずっと見守っててくれたんだ」
「……回答不能」
ヘレンは表情を引き締める。感情は無いというけれど、緊張の面持ちだ。
彼女が呼びかけに応えて姿を現したということは、こちらの目論見は上手くいってたみたいだな。
問題は子供部屋のベッドの上で、身体をくるんと丸めて寝息を立てているナビだ。眠っているのは素振りだけで、俺の声を聞いていないとも限らない。
「あのねヘレンお姉ちゃん。僕に白魔法を教えてくれた時のこと、覚えてる?」
「…………」
彼女は無言のまま頷いた。
「じゃあ、僕がどうして欲しいかわかるよね」
「……それがゼロ君の……いや、貴方の望みなら……了解した」
そっと俺の前に膝を折って視線の高さを合わせると、ヘレンは――
その薄く透明にも近い淡いピンクの唇で、そっと俺の口を塞いだ。
「……んっ……貴方が……入ってくる。ああ……すごい……」
いや、誤解を招くような口振りだな。というか、なんでキスなんだ。おでこをくっつけあうだけでもいいのに……ああ、俺がその……エロスの化身みたいだと記憶を読み取って、ヘレンなりに理解した結果か。
抵抗せず彼女に身を委ねる。その間、俺は指先一つ動かせず彼女に支配されてしまうのだが、構わない。
そっとヘレンは俺から離れると、月明かりに頬を赤らめて呟いた。
「……貴方ではなく、これまで通りゼロ君と呼称を継続……情報共有と欠落部分の上書きを完了。2%を修正」
「ぷはっ! び、びっくりしたよヘレンお姉ちゃん。いきなりその……チューなんて」
「……情報分析の結果、ゼロ君の喜ぶ方法を選択」
やっぱり俺がどういうやつか、彼女は理解しているみたいだ。
「……任務継続」
呟くとヘレンは夜の闇に溶けるように消えてしまった。
背後でむくりと青い猫が身体を起こす。
やっぱり油断ならねぇな。ナビはトコトコとテラスに出てきた。
「驚いたよゼロ。キミは子供なのに手が早いね。それに、今のはもしかしてシスターヘレン?」
「あ、ああ。ヘレンは俺が心配で、こっそり見守っててくれたみたいだな」
「どうして彼女がそばにいると思ったんだい? 気配を感じたりしたのかな?」
「願望さ。居てくれたら良いなって……そしたら本当にいたんだ。偶然だよ」
ナビは不思議そうに首を傾げた。
「ところでゼロはみんなの前では子供らしく振る舞うけど、ボクと二人の時は大人っぽかったりするよね。どうしてだい?」
「大人の方が素で、子供っぽくしてるのは周囲を油断させて相手の心に隙を生むためだ。情報収集がしやすいだろ。そして、お前は騙す必要がないんだから、素で話してもいいっていう寸法さ」
ナビは小さく首を縦に振った。
「なるほどすべて考えてのことなんだね。さすが選ばれし者だよゼロ」
ふぅ……どうやらナビも気づいていないみたいだな。
今回のやり方なら、一線を越えたことにはならないらしい。
俺はヘレンと同期することで、彼女に記憶の一部をあずかってもらうことにしたのだ。
教会で初めて……といっても、俺にとっては二度目だが、ヘレンと繋がった時に、教会の暗殺者たるシスターは俺が見た“世界の行く末”を知ったはずだ。
ヘレンがその手で俺を殺める未来も、俺がガーネットと結ばれて外の世界に出た結末も、シルフィと最強魔法について夢を追いかけた日々も……情報が彼女に流れ込んだに違いない。
自分の心の内側を他者に開放するのだから、俺としても非常に恥ずかしい。
しかし、ドナのレベルドレインで記憶まであやふやになるのを防ぐには、この方法が好適に思えた。
ただ、ナビに関してはヘレンも認識できていないらしい。
青い猫が丸くなる部屋のベッドの方には、彼女は一瞥もくれなかったからな。
ともあれ、今や彼女は俺の半身とも言える存在だ。どうしてそこまでヘレンを信用できるのかといえば――
「私が……君の幸せな世界を守るから」
今度は一緒に守ろうぜ。ヘレンだってエルフの探求者たちを見殺しにする任務が、本当に正しいとは思っちゃいないんだろう。
だが未だニコラスティラ司祭の“命令”の強制力も健在だ。
死天使の宿命から彼女を解き放ち、完全に味方に引き込まないとな。
なんだかこの言い方、天使を堕とすような背徳感があるぞ。
我が手に堕ちろ! フーッハッハッハッハッハ!
と、冗談を言っている場合じゃない。
困り事はヘレンだけにはとどまらない。
今のところ俺を“魔法の才能がある不思議な子供”と思っているクインドナについても、問題は残りっぱなしだ。
ヘレンの協力で自分を忘れることはなくなったが、ドナのスキンシップで魔法力含め、能力ダウンは免れない。接触を拒否できなくもないのだが、それではより深くドナを知ることができないのが、痛し痒しだ。
俺はクインドナを知りたい。
教会のニコラスティラ司祭に情報を流すためではなく、彼女のしてくれる“お話”についても、ずっと心に引っかかったままだった。
勇者と破壊神の戦いの結末――
ただの創作かもしれないが、真実の物語かもしれない。であれば、それを知っているドナ自身が俺には気になる。
考えがまとまらんが……。
まあ、何が言いたいのかというと、これからも課題は山積みってことだ。




