第55話「王子は堪える」
全て計画のうちだった。そうは言えない。余は痛みを覚えたし、カロンの苦痛は比ではないだろう。それでも、彼がいつか〝こうなる〟だろうことは分かっていた。
瞳に宿るは仄暗い憎しみ。瞼には郷愁。その奥には憧憬が宿っていた。
こうならなければいい。ならないで欲しい。そう思っていた。それでも止める手立てはなかった。
余に出来るのは彼の傍らで〝弟〟で在ること。彼の中で余が弟である限り、裏切りはないものと確信していた。
狂わせたのはアジュールの魔女。彼が余の〝友人〟になったばかりに悲劇が起きた。心を傾けたから。欲しいと思ったから。〝兄〟を蔑ろにしたばかりに企みにも気付いてやれなかった。
悔しいと思う。けれども、これでよかったという思いも本当だった。悲劇で生まれた絆は何物にも代えがたい。
カロンが語った〝想い〟は言葉にならなければ絶対に、ひも解くことが出来なかった。根深い憎しみ。塗り替えられない記憶。心を蝕む哀愁。吐露できない黒暗も、きっと晴れたことだろう。
痛みは痛みでしか癒せない。新たな罪を抱えることになっただろうが、全ては彼が選択したこと。それを重々承知しているカロンならば、きっと明るい笑みを取り戻すことだろう。
「それが偽物じゃなきゃいいのだがな」
償い終わった後、カロンは戻ってきてくれるだろうか。兄の存在は余にとって代えがたい存在だ。なにもしなくていい。しなくていいから傍に居て欲しかった。
存在こそが心の支え。彼にとって〝家族〟がそうだったように、余にとってもカロンがそうだった。
これから以前のような関係が保っていけるか不安で仕方ない。結局、命のやり取りをしてしまった。一番したくなかったことを余は彼に誣いたのだ。少しばかり冷静になった頭では、すぐに気付くことだろう。その時、彼はまた余に笑みを向けてくれるだろうか。
疑心。不安。哀愁。混ざり合った感情がどろりと崩れ落ち歪む。
形を成さないからこそ厄介なのだ。見えない思い。宿る感情。崩れる心。誰しもが抱える、そんな醜い怪物をいなすことが出来なくなった時。人は堕ちる。罪に手を染め、周りの人間を貶める。
そういうのが横行する世界だ。けれども余の近くに在る人間は、そうじゃないと信じたかった。あくまで信じるだけだ。淡い願いが現実であれ、と。
カロンが自らを犯人だと吐露した時。覚悟を決めた。やっと、やっと向き合える。向き合いたい。向き合おう、と。
余の言葉は何一つ届いてなかったのだ、と嘆いてはいけない。悲しんではいけない。心を痛めてはいけない。彼にとって大切な家族。その家族を傷付けるという選択をさせてしまった自身を罰するべきだと思った。
けれども、彼の話に耳を傾ける最中。余の頭の中では常々疑問が浮かんでいた。〝なぜ〟〝どうして〟〝なんで〟顎の骨が砕けそうなほど奥歯を噛みしめて、胸部を這いずる痛みを堪えた。
やはり信じていたからだろう。カロンを信じていたから、真っ先に否定の言葉を聞いて嬉しくなった。
このまま否定し続けてくれたなら、例え嘘でも信じよう、と。信頼とはそういうものだ。絆とはそういうものだ。家族とは、兄弟とはそういうものだ。
そんな間違いを連ねる脳漿に洗脳されそうになりながら、その後の絶望を受け入れた。先行したのは落胆。彼に対してではない。こんな現実を招いてしまった自身に肩を落とした。
歪んだ言葉を真っ直ぐ突き付けられ、泣きそうになる。弟で在るからこそ、彼を包み込んではいけない。慰めてはいけないと思った。余には余の矜持があるように、カロンにはカロンの矜持がある。
ならば、どうすればいい。迷子の子供のような感情が余を侵す。いつでも寄り添っていたつもりだった。兄としての敬意も、カロンという人間に対しての敬意も払っていたつもりだ。彼を認めていたし、そう伝えていたつもりだった。けれど、全ては彼を傷付けていただけだった。
どうすればよかった? 何が正解だった? 他に優しさの容はあったのか?
言葉を連ねることも出来ず、立ち尽くす余。なんでもない表情を繕うことしか出来ず、いい案も浮かばない脳漿に恨み連ねる。結局、出た答えは〝謝罪〟。思わず訊ねた問いの答えに安堵し逃げた。
しかしリクは違う。彼は余に怒りをぶつけ、真っ直ぐにカロンを見据えた。間違いを正し、正論を翳し、怒声を上げたのだ。どこまでも綺麗な言葉だった。彼の透き通った髪のように、澄んだ瞳のように真摯な言葉。無駄な色などない怒りの感情。
場を震わせたのはリクの思い。揺らいだ瞳は、カロンの心を溶かした。凍てつくばかりだった彼の心臓を救い出す様はまさしく聖母。男だなんて信じられず、なによりも美しい魔女だった。
彼の菓子が美味しいのは心が籠っているからだろう。
〝美味しくなれ〟
〝美味しいって言って欲しい〟
それは願い。彼の優しが象った思い。カロンに対してもきっとそうだった。
〝助けたい〟
〝助かって欲しい〟
だからカロンも素直に受け入れることが出来たのだ。
全てを狂わせたのは魔女。けれども解けかけた縁を結び直してくれたのも魔女だった。
空色の魔女は本当に不思議だ。美しい者が手掛ける芸術を、もっと広めたい。誰かの笑みの為に自らを犠牲にする彼を知って欲しい。
努力が認められる国であってほしい。悲しい想いをする者がいない国であってほしい。願いは止まることを知らず、哀しみが背を押す。
だから目頭を熱くするのはコレで最後だ。これからは痛くなる喉も、しっかり諫めよう。〝こんなこと〟で立ち止まってはいられない。
〝クローディ〟にとっては哀しいことでも、〝王子〟にとっては些末なことでなければいけないのだから。
「朝は、あんなに晴れていたのにな……本当に空は女のように気まぐれだ……」
頬を伝う雫は鼠色の空に隠そう。明日も笑って「美味しい」と告げなければいけないから。
余を癒してくれるのも、やはり魔女なのだ。そう思うと笑みが零れる。たった一人の執務室で、余は僅かに頬を吊り上げた。