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第1話「魔女は転生した」

 俺はパティシエだ。菓子を作り、夢を売り、人々の心を満たす。そんな、幸せな職業に就いている。

〝美味しい〟とは魔法の言葉だと思う。この夢売りの仕事は、けして楽ではない。それでもこの仕事を続けていられるのは、菓子作りが好きだから。

 十人並な答えかもしれない。でも、俺の菓子作りに対する情熱は十人並ではない。そう胸を張って言える。

 何故なら俺の身体は甘味を受け付けない、特殊な体質だからだ。味覚は正常だと思う。甘いモノは甘いと感じるし、辛いモノは辛いと感じる。

 けれどこの舌が甘味を感知した瞬間、俺の身体は悲鳴を上げ、胃の内容物をその場にぶちまけるのだ。

 しっかり〝美味しい〟と感じるのに、〝もっと食べたい〟そう思うのに。俺の意思に反し、この身体はそれを受け入れてはくれない。

 それでも俺は菓子作りの道に進み、パティシエという職業に就いた。理由はたった一つ。菓子作りが好きだから。


 ()ュバン状になった()ータ・ジェノワーズの生地が。

 ()レーム・シャンティイの綺麗なツヤが。

 ピンとツノが立つほど、しっかり泡立てられた()レンゲ。

 完璧な焼き目のクッキー。

 綺麗に膨らんだ()ュー生地。

 適切な温度管理が必要な()コーン。

 段々と艶が出る()ンパリング。


 どれをとっても菓子作りは素晴らしい。例えそれを口に出来なくても、俺は作っているだけで全てが満たされていた。

 睡眠時間が削られても、力仕事が辛くても、恋愛が出来なくたって、菓子を作っていれば幸せだった。

 一人立ちして店を開いた時には言い様の無い昂揚感に襲われ、心が満たされていくのを感じた。

 今では人気店と言われるまでに成長したこの店も、ここまでくるのは容易な道のりではなかったが、今を思えばそれも伏線と言えよう。

 味見をしないケーキ店が、ここまで波紋を呼ぶとは、俺自身、思いもしなかった。

 勿論、雑誌にはいい意味で取り上げられていたが、ネットではそれなりに叩かれていたし、俺のことを奇異の目で見る人もいた。ここの菓子は本当に安全なのか、と。

 新しいモノや奇抜なものは、バッシングを食らう。俺自身、好奇な目でも見られてきたし、それを売りにしているのだ。叩かれても仕方ないと思う。

 それでも、俺の毎日は満たされていた。仕込みをして、菓子を作って、売り捌く。連日完売の日々が日常になれば、毎日、空のショーケースを眺めて笑みを深めた。

 昨日だって同じだった筈だ。空のショーケースの前で歓喜に胸を震わせて、翌日の仕込みをして店を後にした。

 シャワーを浴びた後は髪も乾かさず、ベッドに傾れ込んだが、それもいつものこと。

 そして、朝、目覚めた俺は驚愕した。目の前に映る景色が違う事に。

 いつもなら日差しも差し込まない時間帯に目が覚めるにも関わらず、カーテンからは零れんばかりの朝日が差し込んでいる。

 そればかりか、俺はこの部屋の景色を知らなかった。水色のカーテンなんて買った覚えはないし、ベッドはやたら固い。天井は無地の白で、壁紙だってなんの変哲もない白の筈だ。それなのに今は木造りの、やたら暖かみのある空間が広がっていた。さっぱり意味が分からない。

 おまけに寝返りどころか、身体が全く動かせないのだ。拘束されているような圧迫感は無い、にも関わらず身体が全く動かない。

 極めつけは声も出せないこの状況。いや、出せるのだ声は出せる。けれど、言葉にならない。呂律は回らないし、口を動かす事も困難。


「オギャー!?」


 やっと出せた声はまるで赤ん坊のようだ。いや、これは俺の声ではないし、まるでというより赤ん坊そのまま。

 すぐさま女性が現れ俺を腕に抱く。巨人と思える程、大柄な女性が連ねる言葉は、耳にした事がない言語で一層混乱を招く。

 けれど、温かかった。優しく笑みメロディを口遊むそれは、無邪気で可愛らしい。

〝母〟という言葉が浮かんだ。快活なのに少女ではない。慈愛を含んだ眼差しも〝女性〟と表現するには違和感があった。

 心を落ち着かせ、己の手を確認すれば紅葉のような手が俺の意思で動いている。

 自分が赤ん坊になったことに気付くのまで、さして時間は掛からなかった。

 しかし、それでは終わらない。俺は赤ん坊になったのではなく、所謂、異世界転生を果たしていたのだ。

 一度だけ、従業員に借りたブルーレイで見た事があるアニメがそんな話だった。内容は、高校生が異世界へ行って勇者になるという、面白味の無い話。最後まで見れず、唯一捻り出した感想は〝菓子が作れなくなったら困るな〟である。

 実際俺は、この五年それだけを考えて生きてきた。この世界の母が菓子作りする様を眺め、手を出し、怒られ、焦がれ、夢想までした菓子作り。

 この際、言葉が分からないとか。誰か分からない人が両親とか。そんなことはどうでも良かった。

 俺は施設育ちで両親はいないし、幸い赤ん坊から健やかに成長出来たので、普通に学び、不自由しない程度に、読み書きが出来るようになった。それこそ、母国語と言える日本語に引けを取らないほどに。

 けれど、まだ五歳の幼子には、菓子作りに携わる資格も与えられないらしい。手を出そうとすれば母なる人は怒りを浮かべる。

 最近では甘味を摂取出来ない俺を思ってか、菓子作りすらしてくれなくなった。そう、俺は身体が違うにも関わらず、甘味が摂取出来ないままだった。

 もしかしたらこれは心の病気で、既に脳に刷り込まれているんじゃないかと思える程。

 けれど、それも今日でお終いだ、とばかりに俺は母を玄関先で見送った。


 五歳になった俺に、母は留守番を任せると言って出掛けていったのだ。三時間は帰らないと告げる母に、俺は歓喜で震えていた。

 三時間もあれば十分だ。菓子が作れる、と。

 五年。実に長い五年だった。別に俺は菓子作りさえ出来れば、元の世界に戻れなくとも問題はない。実際、五年も経てばすっかりここでの生活に慣れてしまい〝帰りたい〟と思う事すらなかった。

 近所のおばさんが作ってくるクッキーを真似しよう。そう決め、生地を捏ねていたその時。母が大分早い帰宅をした。

 そこで俺が思ったのは「ヤバイ、気味悪がられる。どうしよう」だ。

 五歳児では、上手い言い訳をしてはいけない。それでは逆効果だ。散々逡巡し、言葉が出ない俺が見たものは母の涙だった。

 理解出来なかった。その時、母が口を酸っぱくして話したのは、この国にある特有の法律と菓子職人に対する名称だった。

一応のお菓子用語解説


*リュバン状:卵を白っぽくなるまで混ぜた際、垂らすと文字が書けるぐらいまでなった状態。


※パータ・ジェノワーズ:全卵と砂糖を泡立てて作る、共立てスポンジ生地のこと。普通のスポンジ生地を思い浮かべてくださればいいです。


○クレーム・シャンティイ:生クリームに砂糖を加え泡立てたもの。要はホイップクリームのことです。


●メレンゲ:卵白に空気を含ませて、角が立つまで泡立てたもの。3種類の作り方があります。


◇シュー生地:正確にはパータ・シューといいます。普通にシュークリームのシューのことです。デンプンの粘りでキャベツのようにドーム状に膨らむ生地。同じシュー生地から作るフランスの伝統菓子に、エクレア、パリブレスト、クロカンブッシュなどがあります。


◆スコーン:スコットランド料理の、バノックより重いパン。小麦粉、バター、牛乳、ベーキングパウダーなどを混ぜ合わせて作ります。イギリスのティータイムには欠かせないお菓子です。


☆テンパリング:お菓子によく使われるクーベルチュールチョコレートの風味を損なわず、つややかに仕上げる為に温度調節をすること。主に3種類の方法があります。因みにクーベルチュールチョコレートとは、カカオバターが31%以上含まれているチョコレートのことです。

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