『竜宮』
“あなたは、〈わたしは金持ちだ。豊かになった。わたしには欠けているものは一つもない〉と言う。
しかしあなたは、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることを知らない。”
旧横須賀基地、『ワダツミ』。
現在、日本国内で護衛艦の運用を可能としている、数少ないシェルターのひとつである。
『ワダツミ』の統括責任者、海上自衛隊一等海佐の渡部邦彦は執務室で『ラオデキア』からの通信を受けていた。
ノートパソコンの液晶画面に、陸上自衛隊の制服を着た壮年の男が映っている。
「――ああ。完全抗体に関する臨床データは、すでにこちらのラボに回してある。フェンリルの受け入れ準備は万全だ」
『そうですか。先ほどこちらに、『ワダツミ』派遣チームから定時報告が入りました。彼らは予定通り、順調にルートを南下しております』
通信相手は、人類の希望――フェンリルの『ワダツミ』派遣計画を立案した、陸上自衛隊の三隅准尉だ。
かつて、海上自衛隊と陸上自衛隊は犬猿の仲であったが、こうして世界が崩壊した今、呑気にそんなことを言っていられる余裕などどこにもない。
『渡部一等海佐。フェンリルには彼の姉がそちらにいる可能性がある、と告げて送り出しております。彼女の不在がわかれば、おそらく相当精神的に不安定になるでしょう。くれぐれも、彼の負担を増やすようなことはなさらないでください』
三隅の言葉に、渡部はやんわりと苦笑した。
「フェンリルはまだ、九歳の少年なのだろう。それでなくとも、彼はこの国に生きるすべての人類の希望だ。心配には及ばんよ」
『……それでは、単刀直入に言わせていただく。彼に関する権限のすべては、ネフィリム対策研究室の最高意思決定機関・『バエル』にあります。たとえ海の底からなんらかの要請があったとしても、そちらに優先権は一切存在しないのだということは、どうかお忘れなきよう』
宣言通り、随分とストレートな物言いである。
渡部は、軽く目を眇めた。
「私が今、何を考えているのかわかるかね? 三隅准尉。――『ワダツミ』の最優先任務を『竜宮』の安全確保と定めた者が目の前にいたら、顔の形が変わるほど殴ってやりたい、だ」
液晶画面の向こうで、一瞬黙りこんだ三隅がなるほど、とうなずく。
『ご苦労なさっているのですね』
「それほどでもある。だが、『竜宮』がなければ『ワダツミ』に今も護衛艦を運用できるほどの予算は回ってこなかっただろう。おかげで我々は、毎日美味いメシを食えているよ」
皮肉げに言った渡部に、三隅は苦笑する。
『それは、うらやましい限りですな。フェンリルたちがそちらに到着したら、ご自慢の食事をふるまってやっていただけますかな』
「ああ。約束しよう。――彼らは、来るかね」
期待と不安、焦燥。
『ラオデキア』から、この国の人類を救済しうる完全抗体の話を伝えられてから、ずっと胸の奥がざわついている。
そんな渡部の問いに、三隅はあっさりと応じた。
『彼らは現在、この国で最強のチームです。彼らには、完全抗体のサンプルも持たせております。それを誰に使用するかは、渡部一等海佐の判断にお任せいたします』
そうか、と渡部はうなずく。
「幸い、『ワダツミ』の最優先任務は『竜宮』の安全確保であって、その収容者に最優先で完全抗体を投与せよというものではない」
『……本当に、ご苦労されているのですね』
三隅が、同情の眼差しになる。
日頃から少々お疲れ気味の渡部は、自分の苦労に共感を示してくれた相手に、危うく怒濤の愚痴をこぼしそうになった。危ない。
当たり障りのない挨拶を最後に『ラオデキア』との通信を切ると、渡部は椅子の背もたれに体を預けた。
――この国で唯一発現した、人類の希望。コードネーム・フェンリル。
彼が『ワダツミ』に派遣されたことを知っているのは、上層部と研究所の中でもごくわずかな人数だけだ。
見せられた希望が大きければ大きいほど、それが失われたときの絶望は計り知れない。
渡部は、ぽつりとつぶやいた。
「よくもまぁ、手放したものだな」
ネフィリムに対する人類側の切り札ともいえる、すさまじい異能を持つ対ウイルス勝利条件適合者。
そんなものを、いくら最強を誇る護衛チームをつけているとはいえ、敵の闊歩する砂の大地に放り出すとは――
(よほど、『ラオデキア』のハルファス部隊が優秀なのか。あるいは……いや。いずれにせよ、不完全な阻害剤に頼らなければ明日をも知れない我々に、未来はないか)
まだ国内では確認されていないが、海外のシェルターの中には阻害剤を投与されていた大人たちが集団発症し、それによって内側から食い尽くされた事例がいくつか報告されている。
そうでなくとも、なんの予備知識もなくすべてを失い、シェルターに収容されたネイティブ――子どもたちや阻害剤投与者たちは、いまだに正常な精神状態とはいいがたい。
PTSDによる睡眠障害、フラッシュバック、そのほかさまざまな症状で現れる体調不良。
おそらく、どこのシェルターでも似たようなものだろう。
だが、この国には一カ所だけ、そういった問題とは無縁の場所がある。
ウイルスに冒されながら、そこに集う者たちすべてが己の救済を信じて疑わない場所。
ネフィリムの脅威に怯えることなく、人々が家族とともに笑い合いながら日々を過ごし、かつてと変わらぬ豊かな生活を享受しているこの世の楽園。
そこに生きるのは、選ばれし者たちではない。
彼らは、自らの意思で選び取った。
人類がこの終末を乗り越えるまでの黄昏を、蒼く清浄な世界で生きる現在を。
そしていつか、血まみれになった人類が夜明けを迎えたとき、何一つ穢れを知らないまま彼らの頂点に君臨する未来を。
『ワダツミ』――海神の名を冠する者たちに守護されるその楽園を、『竜宮』という。
「――九時方向よりアズラエルタイプ四、五時方向よりゼルエルタイプ十三。フォーゲル三名と陽人、芽依はアズラエルタイプの足止めを。指揮は壮志に任せるわ。残りの全員でゼルエルタイプを排除したのち、アズラエルタイプを総攻撃にて殲滅。散開!」
『ワダツミ』派遣チームが『ラオデキア』を出発してから三日。
彼らは、予定通りのルートを順調に進んでいた。
ただ、フェンリルは幼い体を急激に成長させた影響なのか、時折なんの前触れもなく深い眠りに落ちることがある。
一度そうなると、どれだけ体を揺さぶっても大声で呼びかけても、最低でも二時間は目を覚まさない。
彼がそんな状態になるのは、必ず保護者の冬騎とふたりでいるときだけだ。
体が休息を欲しているからこその反応なのだろうから、その眠りを妨げるわけにはいかない。
こういうときこそ、フェンリルの護衛メンバーたちの出番である。
六花の指示に従い、ハルファスたちが各々の手に武器を持って駆けていく。
第二車両の後部座席では、毛布にくるまったフェンリルが昏々と眠り続けている。
その傍らには、愛用の剣を片手にじっと周囲の様子をうかがう冬騎の姿。
運転席では、銃を持った六花がいつでもアクセルを踏めるようにしながら、仲間たちの戦いをレーダー越しに確認している。
「ゼルエルタイプ、排除完了。……壮志がアズラエルタイプを一体討伐。陽人、芽依も同様。最後の一体は――誰が討伐したのかしら。アタックが重なりすぎて、わからなかったわ。あとで報告してもらわないと。ゼルエルタイプに向かったメンバーが補助するまでもなかったわね。全員、通常時より二十%近くパフォーマンスが向上してる。……フェンリルと群れを形成した影響かしら」
仲間たちの圧倒的な戦果を淡々と語る六花に、冬騎は低く声をかけた。
「なぁ、六花」
「何?」
少し迷うような沈黙のあと、冬騎は低い声で小さくつぶやく。
「オレには、わからない。……なぜ、おまえたちがそこまでコイツに心酔するのか」
「なぜなのかしらね」
淡々と、六花は応じる。
「本当に、わからないわ。なぜ、あなただけがわたしたちと違うのか。あなたは、間違いなくハルファスなのに――なぜ、フェンリルをただの庇護対象の子どもとして見ているのかしら」
「……オレだけ、か」
剣を握る冬騎の手に、ぐっと力がこもる。
冬騎も、薄々気がついていた。
仲間たちの中で、自分だけが彼を『フェンリル』という人類の希望ではなく『新堂拓己』という名の、ただの子どもだと思っていることに。
どれほど、大きな体に成長しようとも。
どれほど、すさまじいまでの力を顕現させようとも。
彼はただ姉を思って泣く、小さな子どもでしかないのだと――
「わかんねぇよ……そんなの」
「そうね。それであなたは、一体何が不満なの?」
冬騎は苦笑した。
「そんなふうに、見えるか?」
「ええ。あなたは、彼をただの子どもにしておきたがっているように見える。一応言っておくけれど、それは不可能。彼はすでに、人類の希望となってしまった。強くならなければ、いずれ周囲からの期待の重みに潰されてしまうわ。ただの子どもに、人類すべてから向けられる期待に応えられるはずがない」
わかってる、と冬騎はつぶやく。
「コイツは、もう充分強い。強すぎるくらいにな。……けど、もっと強くならねぇと、人類の希望なんてやってらんねぇ。それくらい、わかってんだよ」
わかっている。理解はしている。
ただどうしても、納得ができない。
なぜ、たまたまウイルスに対する完全抗体を持っていただけで、こんな子どもが人類の希望なんてものを背負わなければならない。
六花が仲間たちに帰投を命じたあと、インカムを外してさらりと告げる。
「いいんじゃないの。フェンリルは、あなたを慕っている。彼を『ただの子ども』として見ているあなたを。実際、彼はまだ子どもなのだもの。そういう存在が、ひとりくらいは必要でしょう」
冬騎は、低い声でぽつりと問う。
「六花。……おまえたちにとって、コイツはなんだ?」
「一言で言うなら、主かしら。――冬騎。これだけは覚えておいて。フェンリルにとって、あなたはとても大切な存在。彼はまだ、とても幼い。あなたを失ったら、彼は正気を保っていられないかもしれない」
再び、わかっていると返しかけた冬騎に、六花は続けた。
「理解しなさい。あなたはすでに、わたしたちにとってフェンリルに次いで守護すべき対象になっている。彼が庇護者としてのあなたを必要としなくなるまで、わたしたちはあなたを守るわ」
それっていつだよ、と冬騎は笑う。
拓己はまだ、こんなにも幼いのに。
守られていろ、というのか。
戦うために生み出された、ハルファスの自分に。
「さぁね。そんなのは、わたしにだってわからない。彼は、たった数時間で肉体をここまで成長させたのだもの。心がいつそんなふうに成長したって、何もおかしくないでしょう?」
「……ダメだ」
考えるより先に、冬騎の口は勝手に開いた。
「それは……それだけは、ダメだ。……だってコイツは、この姿になってから、ネフィリムと戦うことしか覚えてない。ほかの何も、知らないのに」
体だけでなく、心までそんなふうに成長してしまったら、彼はもう本当に『ネフィリムと戦うためだけのもの』になってしまう。
まだ十歳にもなっていない、本来大人たちから守られているべき幼い子どもが。
「わたしは、それでもかまわないわ」
「六花!」
思わず声を荒らげた冬騎に、六花は薄く笑う。
美しく、冷たく。
「言ったでしょう。わたしたちにとって、フェンリルは主なの。彼が成長して、より強く成熟した存在になった姿を想像するだけで、ぞくぞくするわ」
冬騎は、愕然とした。
そんな彼に、六花は笑みを消して静かに言う。
「冬騎。『ヴォルフ』のアルファとして、命じるわ。――生き延びなさい。わたしたちの誰を盾にしても、あなた自身の誇りをすべて捨てても。フェンリルがあなたを必要としている限り、わたしより先に死ぬことは許さない」
『ヴォルフ』の冬騎にとって、上位存在からの命令は絶対だ。
「イエス……マム」
抗えない。
どうしても。
――六花は、冬騎よりも強いから。
仲間たちが戻ってくると、二台の高機動車はすぐに動き出した。
アズラエルタイプの単独討伐最速記録を更新した『フォーゲル』の壮志が、隣で第二車両のハンドルを握っている六花に言う。
「全員、運動精度がかなり向上している。その分、エネルギー消費が激しい。『ワダツミ』に到着する前に、糧食が尽きることはないだろうが……。全員の疲労度をチェックして、休息サイクルを組み直した方がいいかもしれない」
「了解。――でも正直、あなた方があの速さでアズラエルタイプを討伐するとは、さすがに思っていなかったわ」
アズラエルタイプは、現在確認されている中位種の中で最大最強の種だ。
優秀なハルファスであれば単独での討伐も不可能ではないが、相手は無数の強靱な触手と驚異的な回復・再生能力を持っている。
単独で倒すにはあまりに時間と手間がかかるため、『ラオデキア』の戦闘マニュアルでは、アズラエルタイプ一体に対し四人以上のチームをぶつけることとされていた。
そうだな、と壮志はうなずく。
「やってみたら、できた」
六花は苦笑した。
「簡単に言うわね」
「簡単すぎて、驚いた。これが、フェンリルとともにあることによる一過性の興奮状態によるものなのかは、まだわからないが――」
壮志は、アズラエルタイプの頭蓋を砕いたばかりの右手を、じっと見つめる。
「――フェンリルがそばにいる限り、おれたちはどんな敵とも戦える。戦って、勝てる。根拠はないが、そんな気がしている」
そんな彼を、六花はちらりと横目に見た。
「ねぇ、壮志。ひとつ訊いていいかしら。あなた方『フォーゲル』は、育て親の研究者に対する服従度がとても高いわよね」
「六花。育ての親とフェンリルのどちらを選ぶ、という質問ならするだけ無駄だ。おれはもう、『ラオデキア』という巣を出てここにいる」
一瞬目を瞠った六花は、くすくすと笑った。
「巣立った鳥は、もう親鳥を必要としない?」
「その通りだ。『ヴォルフ』のおまえは、知らなかっただろうがな。過去の臨床結果では、概ね十八歳前後で『フォーゲル』の育て親に対する服従度は一気に落ちる。成体となったあとの服従度は、むしろおまえたちの方が高いだろう」
淡々と告げて、壮志はアイスブルーの瞳を頑丈な板金で隔絶された後部座席に向ける。
「おれはまだ成体ではないが、すでに巣を出てフェンリルの群れを形成している。育て親への服従傾向は、その時点で消滅した。それでおまえは、本当はおれに何を訊きたいんだ?」
「ご期待に沿えなくて申し訳ないけど、単なる興味よ」
さらりと返した六花の横顔に、壮志は怪訝な目になった。
「おまえが『ヴォルフ』以外の相手に、興味だと?」
「そう。今のわたしは、あなたと陽人、そして芽依にとても興味があるの。フェンリルが完全な成体になるまでは、冬騎を『ヴォルフ』のセカンドとして扱うつもりはないから」
壮志の細い眉が、わずかに寄る。
「『ワダツミ』派遣任務が終了したら、このチームは解散だ。なのになぜ、おまえがおれたちに興味を抱く必要がある?」
「……ねぇ、壮志。『ワダツミ』って、日本古来の海の神さまのことなんですって」
突然わけのわからないことを言い出した六花に、壮志は困惑した。
「なんだ、いきなり」
「不思議なのよね。『ワダツミ』には、『ラオデキア』とほぼ同数のハルファスが配備されてる。海上自衛隊の人員や装備も相当のものよ。なのに、収容されているネイティブの人数は『ラオデキア』の五分の一にも満たないわ」
それがどうした、と壮志は首を傾げる。
「『ワダツミ』を統括・管理しているのは、海上自衛隊だ。陸戦が不得手な彼らの元に収容される人数が少ないのは、別におかしなことじゃないだろう」
「まぁね。じゃあ、そもそもなぜ『ワダツミ』を統括・管理しているのが陸上自衛隊でも、航空自衛隊でもないのかしら。ネフィリムのほとんどは、地上か空にしか出現しないのに」
多種多様な姿を持つネフィリムだが、水中でも問題なく活動可能なのは、一般種のハルワタートタイプ一種のみ。
ほかのネフィリムも、短時間であれば水中でも活動可能だ。
だが、その運動精度は著しく減少するし、場合によっては溺れることもある。
人類の活動圏が地上である以上、水棲タイプのネフィリムが一般種一種のみというのは、当然といえば当然だ。
六花は、握ったハンドルを指先でとん、と叩いた。
「護衛艦の運用のため? それじゃあ、あれだけのハルファスを抱え込んでいる理由にはならない。わたしたちは、海上で戦うように作られていない。一般種のハルワタートタイプなら、護衛艦の艦砲だけで充分対処可能だもの。海で人類を守るために、わたしたちは必要ないわ」
彼女の横顔を見つめるアイスブルーの瞳が、すっと細まる。
「それは、『ワダツミ』が人類を守るために造られたシェルターではない、ということか?」
「どうかしらね。少人数とはいえ、ネイティブたちを収容・保護している以上、元々それだけの設備はあったのでしょうし。ただ――」
六花は一度言葉を止め、それから一段低めた声で続けた。
「この一年で、わたしたちは『ラオデキア』周辺のネフィリムをほぼ駆逐したわ。後半、フェンリルの力を頼ったとはいえね。でも、この三浦半島はいまだにネフィリムの巣窟よ。『ワダツミ』は、所属しているハルファスたちを、周辺区域のネフィリム討伐に使っていないのだと思う」
人類を守って戦うために生み出されたハルファスが、海を統べる神の名を持つシェルターに多数配備されている。
そして、彼らが陸上で戦っている痕跡はない。
壮志は、はっきりと顔をしかめた。
「……専守防衛? 『ワダツミ』を守るためだけに、それだけのハルファスが配備されているっていうのか?」
「おそらくね。……そこまでして、彼らは一体何を守っているのかしら」