六花
“第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。
すると、血の混じった雹と火とが現れ、地上に投げつけられた。
地の三分の一は焼け、木々の三分の一も焼け、青草もことごとく焼けてしまった。”
――生まれる前から、決められていた。
顔も知らない誰かを守るために戦って、死ぬことを。
純白の雪のような髪と、冬空のような青灰色の瞳を持って生まれた少女は、外見的特徴をそのまま己を示す名として与えられた。
『ヴォルフ』の六花。
それが、彼女自身を規定する記号だ。
ほかには何もない。
ゲーム開始時に十五歳であるよう設定されて生まれた彼女は、最終世代のハルファスとして理想的なカタチをしていた。
美しい容姿。
高い知能と優れた運動能力。
『ヴォルフ』のアルファとなるべくして生まれたかのような、群を抜いて高い状況判断能力と指揮能力、そして無条件に仲間たちを従えるカリスマ性。
幼い頃から、ともに育った仲間たちから上位の存在だと認められるのは、六花にとって当たり前のことだった。
『自分』は美しい。
『自分』は強い。
『自分』はこの群れのリーダーに相応しい個体である。
『自分』は、人類を守るために生まれてきたハルファスとして、理想的な姿をしている。
――それがどうした、と思った。
いくら見かけが美しかろうと。
いくら的確に武器を操る力があろうと。
いくら効率よく仲間たちを動かすことができようと。
いくら研究者たちが自分の存在を褒め称えようと。
すべては、研究者たちが『そういう生き物』として六花を創り出しただけのこと。
六花自身が、彼らの望むようにありたいと望んだわけではない。
幼い頃から教育素材の中で何度も見せられた、庇護対象である人類の子どもたち。
記録映像の中で、彼らはいつも笑っていた。
いずれ自分たちを襲う悲劇を知らずに、ただ楽しげに、明るく将来への希望に満ちた顔をしていた。
虚しかった。
彼らがどんな希望を抱いていようと、それらは決して叶うことなく、裏返しの絶望となって彼らの心をずたずたにするだろう。
六花には、人類の子どもにとって己の命をこの世に生み出した『親』がどれほど重要な存在なのか、実感として理解できない。
親代わりの研究者はいるが、彼らは数多生み出されたハルファスすべての造物主だ。
彼らが自分たちに向ける感情は、自らの『被造物』に対する執着や庇護欲であって、決して血を分けた我が子に対する愛情と同じものではありえない。
だが、これまでに学んだ知識からだけでも、幼い人類の子どもにとって『親』とは絶対的な――『造物主』ではなく、『神さま』と呼ばれるに相応しい存在なのだと推測するのは、あまりに容易かった。
自らに無償の愛情を注ぎ、自らの存在を肯定し、未来へと続く道を教え導くもの。
そんな『親』を突然失い、住み慣れた土地を失い、息苦しいシェルターの中に閉じ込められた彼らが、一体どれほど正気を保っていられるだろう。
六花たちハルファスは、ネフィリムの脅威から人類を守るためだけに生み出された。
彼らの命令に従う以外にするべきことなどなかったから、六花は命じられるままに彼らの望む結果を出し続けた。
できたから。
確かに、この体は優秀なのだろう。
さほど苦もなく、周囲の大人たちが望む通りの、あるいはそれ以上の結果を出すことができるのだから。
だが、それがなんだというのか。
『ヴォルフ』だけではなく、多くのハルファスの仲間たちは、大人たちに褒められるたび笑って喜色をあらわにしていた。
きっと、素直に大人たちからの評価を――おそらく、愛情と呼ばれる感情をまっすぐに受け止め、それを自らの喜びとすることができる仲間たちの方が生物として正しいのだろう。
たとえ互いに交配不可能な異種の生物であっても、同じ感情を共有できる相手からの好意的な感情に、同じくプラスの感情を返せる彼らの方が。
なぜなのだろうと、何度も自問した。
自分は確かに人類を守るために生み出された存在なのに、その中でも特に優秀な個体であるはずなのに、なぜ人類を自らの意思で守りたいとは思えないのか。
いっそのこと、大人たちが望むように、仲間たちがそうしているように、心から人類を守りたいと思えればこんな虚しさを覚えることもなかっただろうに。
それでも、命じられれば体は動く。
自分が命じれば、仲間たちはついてくる。
六花にとって、同族だと素直に思えるのは『ヴォルフ』の血を持つ者だけだった。
自分と同じにおいのする、同じ能力を持った仲間たち。
彼らからリーダーとして認められる時間の中で、六花はいつしか悩むのをやめた。
自分は、人類を守りたいとは思えない。
けれど、『ヴォルフ』の仲間たちは、当然のように自分が守るべきものだと認識できる。
守りたい、と思える。
――六花の中に組み込まれた、狼という野生の獣の遺伝子が、自らを隷属した人間たちに従うことを拒絶しているのか。
ほかの仲間たちより強く獣の能力と本能を発現させたがゆえに、自分は人類を守りたいと思えないのか。
けれど、自分も『ヴォルフ』の仲間たちも、人類に与えられるものがなければ生きていけない。
仲間たちが生き延びるためには、人類の命令に従うしかない。
六花がより強く、より的確に仲間たちを統制できるようになれば、彼らが生き残る確率は上がる。
人類から与えられるしかないエサを、身を守る毛皮代わりの衣服を、雨風をしのぐ巣を確保できる。
そう気づいたときから、六花はより己の力を磨くことに積極的に取り組んだ。
銃も刃も、『ヴォルフ』の誰より正確に扱える。
たとえ丸腰でも、自分の牙は充分鋭い。
だが、仲間たちが生き残るために最も必要なのは、戦場で彼らを導くための力だ。
どれだけ正しく状況を見定め、最善の判断をいかに素早く選択し、決断を下すか。
そのため六花は、自分の牙をネフィリムに向けるのを最低限にとどめるようになった。
自分が、誰よりも優秀な指揮官であると知っていたから。
自分が死ねば、仲間たちの死ぬ確率が上がるとわかっていたから。
ネフィリムの討伐よりも、仲間たちが生き延びることを優先させる布陣と戦い方は、ときに大人たちから慎重すぎると指摘を受けた。
そのたび「善処します」と応じながらも、自分の戦闘スタイルを変えるつもりなどさらさらなかった。
六花は、『ヴォルフ』以外の者たちがネフィリムに食い殺されようと、なんの痛痒も感じないのだから。
仲間たちとともに戦う日々の中、ゲーム開始から半年ぶりに『人類の希望』と再会した。
六花にとって、年長の『ヴォルフ』たちを発症の恐怖から解放してくれた彼は、感謝すべき相手だ。
とはいえ、仲間たちの命よりも優先すべき存在ではないと思っていた。
しょせん彼は、ネイティブの人類にすぎないのだから。
そう思いながら、六花は命じられるまま彼の初陣補佐に入った。
だが――
『うわあぁああぁあああん!』
――いつの間にか青年の姿に成長していた彼は、六花の目の前で強大な炎を出現させ、かと思えばネフィリムの体を一瞬で氷結させた。
そのとき、六花ははじめて戦場で動けなくなるという経験をした。
同じく唖然として立ち竦む仲間たちに、すぐに下がるよう指示した。
けれど、最も信頼しているセカンドの冬騎にはその場に残り、青年の説得に当たるよう命令していた。
……その命令を口にしたあと、六花はひどく動揺した。
戦いの最中にあった体は、勝手に仲間たちを守るべく動いていたけれど、なぜ自分は大切な仲間である冬騎の安全よりも、『人類の希望』の保護と回収を優先したのか。
ありえない、と混乱する意識と。
当然だと主張する、自分の中の知らない何かと。
全身汗だくになりながらも、まったく無傷の冬騎が意識を失った青年を抱えて戻ってきたとき、六花の胸を貫いたのは強い羨望だった。
なぜ、あの青年の姿をした子どもが絶対の信頼を向けるのが、自分ではないのか。
六花は冬騎よりも優秀なのに、なぜ彼は自分を選ばないのか。
そんな浅ましいにもほどがある渇望が、彼女の胸を一瞬で浸食した。
けれど、『ヴォルフ』のリーダーとしてずっと仲間たちを率いてきた彼女自身のプライドが、それを表に出すことを許さなかった。
その後彼が『フェンリル』のコードネームを与えられ、『ヴォルフ』のメンバーとして登録されたときには、今まで感じたことのない歓喜に心臓が震えた。
――なぜ、と六花は何度も己に問うた。
彼は、『ヴォルフ』ではない。
六花と同じ獣の血など、彼は一滴たりとも持っていない。
なのになぜ、彼の姿を見るだけで自分の胸はこんなにも騒ぐのか。
行動をともにするたび、フェンリルは冬騎を唯一絶対の保護者として認識しているのだと思い知らされた。
慣れない実戦でネフィリムに怯えた彼が、どれほどすさまじい炎を吹き荒れさせても、それが冬騎の体を焼くことだけは一度もなかった。
泣きながら「ごめんなさい、上手くできなくてごめんなさい」と繰り返す青年を、冬騎が優しく宥める姿を何度見ただろう。
欲しい、と思った。
冬騎のように、心から彼に信頼される立場が、どうしても欲しいと。
その渇望は日に日に強くなるばかりで、もどかしくてたまらなかった。
当然のようにその立場を手に入れている冬騎が、妬ましくて仕方がなかった。
……冬騎は、六花の大切な仲間なのに。
そんなときだ。
アメリカからネフィリムの上位種、セラフタイプを確認したと報せが入ったのは。
人類がはじめて確認した上位種は、数百体もの多種多様なネフィリムで構成された群れを率い、その巨大な翼で空を支配していたという。
それを聞いたとき、六花の胸にずっと引っかかっていた疑問が、すとんと落ちた。
彼は、自分たちの上位種。
六花が守り、従い、命を捧げるべき存在なのだと――唐突に、理解した。
理由など知らない。
ただ、わかっただけだ。
彼の姿を見るたび、彼の存在を身近に感じるたび溢れる歓喜がどこからくるのか。
それは、絶対的な強者を見つけ、主と定めることができた戦士の喜び。
六花たちハルファスは、戦うための存在として生を受けた。
戦って勝ち、勝利を得ることが自分たちの存在意義だ。
だが、勝利を捧げるべき相手が――正しく主と認められる相手が存在しなければ、どんな栄光も虚しいだけ。
人類は、自らを守るための武器としてハルファスを生み出した。
けれどハルファスにとって、人類はあまりに弱く、主と認めるにはあまりに物足りない存在だった。
フェンリルは違う。
今はまだ幼くとも、己の力を制御することさえ難しくても。
彼は、自分たちよりも遙かに強い。
それが、すべてだ。
ぱちん、と。
胸の奥で、欠けていたパズルの最後のピースが、きれいにはまった音がした。
六花がずっと感じていた、どうしようもない渇望。
生物兵器として生まれた自分が、命をかけて戦う理由。
自分自身の、生きる理由。
やっと、見つけた。
そう思って仲間たちを見てみれば、彼らは当たり前のような顔でフェンリルを己の主と定めていた。
いろいろと考え込んでばかりの六花と違い、仲間たちは自らの主の存在を、ずっと素直に受け入れていた。
そのときから、『ヴォルフ』のメンバーは六花にとって、大切な仲間であると同時に、主の寵を競うライバルとなった。
同じ主を定めた者として、より主のそばで戦う権利を得るためには、仲間たちよりも抜きん出た存在でなければならない。
六花は生まれてはじめて、自分を優れた存在として生み出した研究者たちに、心から感謝した。
自分よりも優れた『ヴォルフ』は、この『ラオデキア』にはいない。
フェンリルが『ヴォルフ』のメンバーとして登録されている以上、彼とともに、彼のそば近くで戦う権利は自分のものだ。
けれど、その地位が永続的なものだと思えるほど、六花は楽観的な思考の持ち主ではなかった。
フェンリルが自分を『六花お姉ちゃん』と呼び、そばにあることを受け入れているのは、六花が『冬騎の仲間』だからだ。
幼く未熟な王は、自ら臣下を選ばない。
ただ、心から信頼する養い親にとって大切な存在であるか否かという基準で、すべての他者を規定している。
フェンリルの精神年齢は、九歳。
彼の成長には、まだまだ長い時間が必要だ。
その間に、自分の地位を――彼とともにある権利を奪われるなど、冗談ではない。
六花にとって、フェンリルの『ワダツミ』派遣は好機だった。
この任務の中で自らの優秀さを明確に見せつければ、人類が六花から主とともに生きる権利を奪うことはないだろう。
シェルターの中で生きる人類は、誰も知らない。
フェンリルの、本当の姿を。
ネフィリムを前にしたフェンリルの能力がどれほどすさまじいものなのか、彼らは己の目で見たことはない。
もしあの姿を人類が見たなら、彼らもフェンリルを己の主と定めるのだろうか。
紅蓮の炎ときらめく氷華を同時に操り、醜悪なネフィリムの群れを一瞬で砂に還す姿の美しさを目の当たりにしたなら、同じ歓喜を覚えるのだろうか。
わからない。
わかる必要もない。
脆弱で無能な臣下など、彼のそばには必要ない。
今、六花の幼く美しい主は砂の大地に立っている。
彼の生命の継続が、六花の望み。生きる理由。
先ほどから、周囲には奇妙な音が満ちている。
聞いているだけで膝から力が抜けていくそれは、イスラフィールタイプ――世界で二体目の、ネフィリムの上位種による音響攻撃。
六花の指示により、仲間たちはすでにイヤープロテクターを装着している。
だが彼女は、同じくそれを装着しようとしたフェンリルの手を押さえて止めた。
――自分の主となり得る者であるならば、たかだか数十体の群れしか形成できないような、弱り切った上位種などに屈するな。
不思議そうな顔をして六花を見返す彼は、脳幹を直接揺さぶるような音響攻撃にも、なんの反応も見せていない。
自分たちが危うく膝をつきかけたほどの、暴力的な音の中、ひとり平然と自分の足で立っている。
ぞくぞく、した。
ハンドサインで、不快げに顔をしかめている冬騎に指示する。
一拍置いて、彼はフェンリルに向かって口を開いた。
戦え、と。
その直後、崩れかけた建物の間からぬぅっと姿を現したのは、全身にある無数の口を大きく開いた、醜悪極まりない巨大なネフィリム。
その巨躯を覆う剛毛のところどころに、先遣隊のものと思われる装備品が引っかかっている。
『レーヴェ』の陽人が、ゆっくりと近づいてくるイスラフィールタイプに動画撮影機を向ける。
きっとそこには、辺りに響き渡っている人類を無力化する音声も記録されているのだろう。
敵の太い足が動くたび、輝く砂が舞い踊る。
勝負は、一瞬。
「死んじゃえ」
イヤープロテクターに覆われた六花の耳に、聞こえないはずの声が響く。
フェンリルが無造作に持ち上げた右の手のひらを、イスラフィールタイプに向ける。
それだけだった。
十メートルはあろうかという巨体が、紅蓮の炎に包まれる。
数えきれないほどの口から、今は断末魔の絶叫が響き渡っているのだろうか。
やがて、イスラフィールタイプの巨体は砂となって崩れ落ちた。
まるで最初から存在していなかったかのように、周囲の砂に紛れてはかなく風に散っていく。
イヤープロテクターを外した冬騎が、安堵の息を吐いたフェンリルに声をかける。
「よくやった、拓己」
「~~っ冬騎お兄ちゃん! 何今の、何今のー! すっごく気持ち悪かったよ!?」
途端にぶわっと瞳を潤ませたフェンリルが、冬騎に抱きつく。
冬騎の手が、ぽんぽんと相手の背中を優しく叩く。
「今のは、ネフィリムのイスラフィールタイプっつってな。おまえの夢の中で、沙弥ちゃんが『気をつけて』って言ってたやつだよ」
「うー……。お姉ちゃん。声がうるさいってのは合ってたし、確かにでっかかったけど……っ」
どうせなら、こんなに気持ち悪い化け物だって教えてくれればよかったのに、とフェンリルが嘆く。
……彼の見た夢は、正しかった。
彼の姉の言葉というカタチで、彼はイスラフィールタイプの存在を感知した。
それが、どんな意味を持つのかはまだわからない。
ただ、ふたりを見守る六花の胸にあるのは――
(やっぱり、イラつくわね)
――でかい図体をした男同士が、人前でべたべたひっついてるんじゃねぇ、というごくまっとうな乙女の主張であった。
優秀な指揮官である彼女は、たとえ相手が主と定めた崇拝対象だろうと、無表情の下で冷静なツッコミができるのである。
ヤンデレ系ヒロインを目指して、失敗した感じです。
難しいな、ヤンデレ……。
このまま順調に拗らせてくれるといいのですが(←オイ)。