黙示録
“神は、彼らの死体を眺めることを許したが、葬ることは許さなかった。”
それは、ゲーム開始のカウントダウン。
人類の存亡を賭けたゲームの、終わりとはじまりを目指すもの。
ルールは簡単。
期限は百年。
その間に『彼』の子どもたちを殺すことができれば、人類の勝ち。
できなければ、『彼』の勝ち。
気まぐれに人類を呪った『彼』は、そのゲームの結末を見届けることさえしなかった。
自らの作り上げたウイルスで人類をあまねく汚染し、その未来を戯れのように摘み取ってなお、獄の中でひとり楽しげに笑っていた。
――だって、このままだと人類は地球を食らい尽くしてしまうだろう?
今この瞬間にも、森林伐採、スポーツハントと称した野生動物の虐殺、大気汚染、水質汚染に土壌汚染。
不思議だね。
人類だけじゃないのかな。
食べもしない生き物を、手当たり次第に殺して殺して、それでもまだ満足しない種族なんて。
猫だって、せいぜい自分の爪で仕留められる程度の獲物でしか遊んだりはしないのに。
本当に、なんて強欲なんだろう。
そう思わないか?
僕は思ったよ。
人類の一員として、これはやっぱり申し訳ないなって。
悲しいね。
でも、どうやらこの世界には、人類の思い上がりを正してくださる神さまはいないらしい。
だから僕は、役立たずの神の代わりに、その役目を果たすことにしたんだ。
僕が全身全霊を込めて作り上げた子どもたちは、今きみたちの中で眠っている。
彼らには、人類だけを捕食するよう命じてある。
目覚めと同時に宿主の体を支配し、その構造を組み替え、捕食者に相応しい形質を瞬時に作り上げるんだ。
彼らは人類を超越した新たな種として、人類の代わりに食物連鎖の頂点に君臨するだろう。
中には、急激な変化に肉体が耐えられない者もいるだろうね。
宿主がその変容に耐えられずに死んだときは、人類の罪を浄化する美しい結晶となって大地に還るよ。
あぁ、普通に老衰で死んだり、誰かに殺されたりしてもそれは同じ。
地球に優しい、いい子たちだろ?
安心しな。
きみたちが僕とのゲームに負けても、すぐに人類が滅びるわけじゃない。
セカンドステージは用意してある。
せっかく目覚めた僕の子どもたちが、一度も食事をできないのは可哀想だからね。
百年の潜伏期間を超えたとき、十六歳未満の子どもであれば発症はしない。
一生、普通の人類のままだ。
十六歳以上だと、99%以上の確率で発症するだろうね。
そうしてその場できれいな砂に還るか、新たな種となり人類の子どもたちを喰らいはじめるんだ。
僕らが主役のゲームが終わったとき、子どもたちが主役のゲームがはじまるかどうかは、きみたち次第。
僕の子どもたちに、人類の子どもたちが食い殺されるか。
人類の子どもたちが、僕の子どもたちを駆逐するか。
そんなデスゲームに彼らを参加させたくないなら、きみたちがこのファーストステージで勝ってしまわないとね。
さて、人類諸君。
ゲームは、すでにはじまっている。
きみたちは、百年以内に僕の子どもたちを絶滅させることができるかな?
――狂気の天才。
人類は、『彼』の生み出したウイルスを徹底的に調べ尽くした。
何も知らない多くの同胞がパニックで自滅しないよう、秘密裏に。
一体、いくつの型があるのか。
それらが発症したとき、どのような結果が現れるのか。
どの地域に、どの型のウイルスが多いのか。
何より、抗ウイルス薬の開発を。
しかし、ウイルスは変容する。
感染者の体内で、その土地の気候風土に合わせ、より己の生存率を高めるカタチに進化していく。
人類は、あきらめざるを得なかった。
すべての同胞を救うことは、不可能なのだと絶望した。
けれど、小さな希望はいくつかあった。
感染者のすべてが発症するわけではないと、『彼』は語った。
ウイルスの潜伏期間を終えたとき、すでに成人であっても発症せずにいられる者が、たとえわずかでも確かに存在するのだと。
それは生来免疫力の高い、『彼』のウイルスに抗しうる者なのか。
あるいは――
人類の叡智を結集し、研究を重ね、人々は不完全ながら未来への希望を手に入れた。
ひとつは、一部の人類――即ち、ウイルスの研究に直接携わったアメリカ合衆国、GB、フランス、ドイツ、日本、イタリア、カナダ、オーストラリア、スペイン。
それぞれの国民が多く感染しているウイルスの発症を、ある程度抑えられる阻害剤の開発に成功したのだ。
各国の首脳部は、大量生産も長期保存も不可能であったそれらを前に、国民を選別した。
心身ともに大きな病歴がないこと。
犯罪歴がないこと。
喫煙歴がないこと。
各国の上層部に太い人脈を持っていること。
国防に従事していること。
医療関係者であること。
食料の供給維持に必要な人員であること。
シェルターのインフラ整備に必要な技能を有していること。
後世に伝えるべき知識・技術・伝統芸能を有していること。
そのほかにもさまざまな厳しい基準が設けられ、その基準をクリアした者たちは密かに阻害剤を投与された。
――選外となった大多数の人類による暴動を回避するため、完全に極秘裏に。
だが、阻害剤の効力はあくまでも発症を抑えるものであり、ウイルスを死滅させられるものではない。
タイムリミットが訪れたときに十六歳以上であった者たちは、生涯発症の恐怖に怯え続けるだろう。
もうひとつの希望は、『彼』が言うところのゲーム開始時期が、かなりはっきりしていたこと。
そのときに十六歳未満の子どもであれば、発症はしない。
ウイルスは彼らの体内で無害化し、なんの問題もなく一生普通の人類として生きていける。
人々は、『彼』の残した研究記録をもとにウイルスの研究を続ける中で、『彼』が仕掛けた破滅のプログラム――その一部の解明に成功していた。
ヒトゲノムを解析し、そこに獣たちの優れた特性を強化し組み込み、人体のありようを劇的に作り替える罪に踏み込むのは……彼らにも、可能となったのだ。
倫理、人権、人道、そして自らの良心。
それらを踏みにじる行為だとわかっていて、研究者たちは決意した。
優秀な人類の遺伝子をシャーレの中で掛け合わせ、その受精卵にさまざまな処置を施して、ヒトの形をしたヒトあらざる生き物を生み出すことを。
『彼』のウイルスにより変容した捕食者たち――通称、ネフィリムに対抗しうる能力を備え、人類の明日を切り開くことの可能な『新たな人類』を。
彼らにより精度の高い能力と肉体を与えるため、数えきれないほどの遺伝子操作と人体実験が繰り返された。
すでに人類は、『彼』の狂気に呑まれていたのかもしれない。
何が正しいのか、間違っているのか。
どの道が、人類にとって正しい未来に続くものだったのか。
誰も知る者はいなかった。
混沌の中、人々を駆り立てたのはただ『生き延びたい』という、生命としての根源的な渇望。
『彼』は自らを神と称した。
人類を断罪する己の所業を、神の御業だと笑って言った。
笑いながら、すべての人類を嘲弄した。
かつて神は、人類を愛した。
だが、神を気取った狂気の科学者は、自らの被造物を愛さなかった。
おもちゃに飽きた幼児のように、その行く末を見届けることもなく、あっさり『我が子』と称したそれを手放した。
――己の才に溺れ、狂気に走ったたったひとりの『人間』に、人類がこれまで連綿と積み重ねてきた歴史を無に返す権利がどこにある。
罪の意識も、狂気さえも凌駕するほどの、それは怒り。
どんなに尊い神の教えも、人類の救いとはならなかった。
人々は自らの良心に殉じるよりも、罪にまみれて生き延びる未来を選択した。
人類は、『彼』の仕掛けたゲームに敗北する。
だが、その敗北と同時にはじまる新たなゲームの結末は、まだ誰にも見えていない。
ネフィリムと戦うために生み出された『新たな人類』は、人類の誇りを守るための最後の砦。
神に抗い、砦を守護する地獄の伯爵は、『ハルファス』の名と鳥の姿を持っていたという。
皮肉を込めて、『新たな人類』に――生まれる前から戦う人生を定められた子どもたちにその名を贈ったのは、ひとりの研究者。
ウイルス対策に従事する研究者たちを束ねる立場にあり、『新たな人類』を生み出すために自らの手を同胞の血で汚し続けた彼は、かつてもうひとつの希望を見出していた。
彼は、考えた。
人類という、この地球に自然発生して進化を続けてきた生物が、たかが人工的に作られたウイルスなどに、完全に敗北してしまうものだろうか、と。
ウイルスに感染しても、発症しない者がいる。
ならば、そもそもウイルスに感染しない者、或いはウイルスに感染してもそれに打ち勝つ者がいるのではないか――
しかし、爆発的な感染力と発症率を誇るウイルスを前に、そういったノンキャリア、ウイルスに対する勝利条件適合者の探索は、計画書の段階で非効率にもほどがあるとして議論さえされなかった。
そうして、その希望は久しく人類から忘れられていたのである。
西暦20××年9月24日。
アメリカ合衆国、レイチェル・ロウ (18)、李詩夏 (12)。
GB、アンドリュー・マクミラン (16)。
フランス、フレデリック・エトワール (14)
ドイツ、ハインリッヒ・ミュラー (15)。
イタリア、サンドラ・ニェーゼ (17)。
日本、新堂拓己 (8)。
『彼』の仕掛けたゲームに人類が敗北したことが決まったその日、七名の『適合者』が確認されるまで。
彼らは、まさに人類の希望だった。
それぞれの感染した型のウイルスに対する完全な抗体を持ち、同じ抗原性を有するウイルスに感染した者たちを、発症の恐怖から解放した。
彼らの肉体は、まるで『ウイルスに勝つこと』に特化した存在であるかのようだった。
七名の『適合者』たちはウイルスへの完全抗体を有するだけでなく、ゲーム開始時に受けた衝撃をトリガーに、ネフィリムに対抗しうるすさまじい異能を発現させたのだ。
神の意志に抗う人類の牙が具現化したかのようなそれは、あるいはひとつの進化のカタチだったのかもしれない。
だが――彼らは、あまりに幼かった。
そして、あまりに何も知らなかった。
何も知らないままに目の前で肉親を、友人を失い、身近な人間が恐ろしい化け物に変わり、それらに襲われ、自らの肉体もそれまでとはまるで違うものに変容したのだ。
生まれたときからウイルスの発症時期に合わせ、それぞれの国の国防組織で厳しい教育を受けてきたハルファスたちとは異なり、平和な日常の中で普通の子どもとして育ってきた彼らの心は、その急激で残酷な変化に耐えきれなかった。
レイチェル・ロウは、世界を拒絶し自分の殻に閉じこもった。
李詩夏は、ヒトとしての感情を失った。
アンドリュー・マクミランは、周囲の命令に従い戦うだけの人形になった。
フレデリック・エトワールは、毎日不思議な絵を描くばかり。
ハインリッヒ・ミュラーは、ネフィリムに対する殺戮衝動が暴走し、制御不能と判断されたのち拘束・幽閉された。
サンドラ・ニェーゼは、研究所の奥でひとり歌を歌い続けている。
そして、最年少の新堂拓己は――
(お姉ちゃん。あとちょっとだけ、待ってて。もうすぐ、迎えにいくからね)
奔放に伸びた褐色の髪が、風を孕んでふわりと舞う。
とん、とブーツの靴底が傾いた高層ビルの壁を蹴る。
ダークグレーの詰め襟ジャケットとワークパンツに包まれた長身が、淡い黄色に輝く砂の大地に蠢くネフィリムの群れに直上から突っ込んでいく。
「死んじゃえ」
低く平坦な声とともに、巨大な獣たちが焔の槍に貫かれた。
立ち枯れていた街路樹が、一瞬で炭化する。
耐火素材の戦闘服が、紅と橙の乱舞を映して鈍く輝く。
無造作に振った彼の右腕に、獣たちを焼いた焔がまとわりつくように収束し、何事もなかったかのように消え失せた。
灼熱を孕んだ砂地に、空中で軽く一回転した青年がまるで重力を感じさせない動きで降り立つ。
あとに残されたのは、ぶすぶすと燻る街路樹と淡く輝く砂ばかり。
青年は胸ポケットから取り出したインカムを装着し、口を開いた。
「冬騎お兄ちゃん。こっちの化け物は、全部やっつけたよ。次はどこ?」
『よくやった、拓己。ポイントD3とM9に、クシエルタイプとラハティエルタイプの群れがいる。そいつらをやっつけたら、先に本部に帰投しろ。慌てなくていいからな。気をつけて行くんだぞ』
優しく気遣う庇護者の声に、青年はへにゃっと顔を綻ばせる。
「うん、わかった。冬騎お兄ちゃんたちも、気をつけてね」
『ああ』
――七人目の『適合者』は、小さく幼かった肉体を、たった数時間で、その能力を発揮するのに最も適した年齢まで成長させた。
絶え間なく音を立てて軋みながら伸びる骨と、破壊と修復を繰り返す肉体のもたらす激痛に絶叫し、自らの血にまみれながら、少年は戦うための体を手に入れた。
彼を取り巻くすべてが破壊されたあの日、自分を守って傷ついた姉を迎えにいくために。
『だって、お姉ちゃんが待ってるから』
『たくさん、けがしてたんだ。早く迎えにいかないと』
『あの化け物を全部やっつけないと、お姉ちゃんを迎えにいけないんでしょ?』
泣きじゃくりながら繰り返す少年に、彼の姉はもう死んでいるだろうと告げる者はいない。
かつて人類の生活圏だった土地のほとんどは、ネフィリムの闊歩する砂の大地となった。
各国が国防施設を中心として密かに建設していた大規模シェルターは、頑強な隔壁で生き残った人類を守っている。
それぞれ収容した人員が自給自足できるだけのシステムは完備しているものの、点在するそれらの間に横たわるのは、捕食者たちが蠢く不毛の砂漠だ。
海路や空路を使えば行き来は可能だが、そのために必要な燃料の確保は決して容易いものではない。
人類が再び自由を手に入れるため、ネフィリムに対抗しうる戦力は欠かせない。
……たとえそれが、手足の伸びきった青年の肉体と、十歳にも満たない少年の心を持つものであったとしても。
(早く化け物を全部やっつけて、お姉ちゃんを迎えにいこう)
カウントダウン終了から、一年。
現在確認されている『適合者』は、世界に七名。
彼らの能力は、いまだ未知数。
人類の存亡を賭けたゲームは、はじまったばかりである――