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忘れられた適合者

“私は天と地と、地下と海のすべての被造物が泣き叫ぶのを聞いた。”






(あ……れ……?)


 気がついたとき、拓己は淡い黄色みがかった砂の中に膝をついていた。

 ぼんやりと瞬く。


 自分は何をしていたのだったろう、と考えたところで、血まみれの姉の姿を思い出す。


「お姉ちゃん!?」


 振り返れば、姉の体はきらきらと輝く砂に半ば埋もれかかっていた。

 慌てて駆け寄り、砂を払う。

 まったく身じろぎすらしない彼女の姿に、心臓が凍りつくような恐怖を覚える。


 必死に呼びかけながら口元に手のひらを近づければ、かすかながら確かに呼吸が触れた。

 安堵のあまり泣きそうになりながら、せめて柔らかなラグの上に彼女を移動させようとして、拓己は奇妙なことに気がつく。


(お姉ちゃんて……こんなに、軽かったっけ?)


 先ほど彼女を立ち上がらせようとしたときにはどれほど力を込めてもできなかったのに、今はまるで苦もなく動かせる。


 ――ラグの上に寝かせた沙弥の顔は、不吉なほどに白かった。


 あれほどたくさん、血が出たのだ。

 彼女の体が軽くなってしまったのも当然だろうか。


 けがをしたら、手当をするもの。

 それくらいは知っている。


 けれど拓己にとって、手当というのは母がどこからか持ってきた絆創膏を、清めた傷口にぺったんと貼り付ける、というものだ。


「おかぁさん……」


 不安で、怖くて堪らない。

 せめて沙弥の体を清めたいと思っても、そのためには水を汲んでくる必要がある。

 離れている間に彼女に何かあったらと思うと、恐ろしくて動けない。


 しゃくり上げながら、沙弥の手にそっと触れる。

 彼女がこんなひどいけがをしているのに、どうして母は帰ってきてくれないのだろう。


 父のことは、よく知らない。

 一度だけ、拓己が小学校に上がるときに、ネット通信の液晶画面越しに話をしたことがあるだけだ。


 母は父のことを「外国にタンシンフニンしている」と言っていた。

 とても大切な仕事をしているから、滅多に帰ってくることができないのだと。


 少しも寂しくなかったと言ったら、嘘になる。

 けれど、拓己には母と沙弥がいた。

 それだけで、十分幸せだった。


 なのに――


「お姉ちゃん……起きて? 起きてよぅ……」


 ――いつも優しく笑ってくれる母はいない。

 沙弥も、目を覚まさない。


 こんなのはみんな、夢だったらいいのに。

 悪い夢。

 怖い夢。

 目を覚ましたら、母と沙弥がいつものように笑っていてくれるのだったら、どんなにいいだろう。


 そんなことを考えながら、どれほどの時間が経ったのか。

 ふと、人の声が聞こえた気がした。

 耳を劈くような機械音と、それに負けないように張り上げられた大きな声に、のろりと顔を上げる。


 何度か瞬きして、それが自分の夢でも幻聴でもないのだと気づく。

 無意識に立ち上がった拓己は、一瞬沙弥を振り返った。


「……っすぐに、お姉ちゃんを助けてくれる人を呼んでくるから! ちょっとだけ、待ってて!」


 先ほどまでより、少しだけ彼女の顔色がよくなっているように見えたことにほっとしながら、無事だった玄関を開けて駆け出す。

 大きな音のする方、人の声のする方を目指してひた走る。


 道路をうっすらと覆っている砂に足を取られて、走りにくい。

 ときどき転んで砂まみれになりながら、それでも懸命に駆け続けた拓己は、不動産屋の看板のかかったビルの角を曲がった途端、息を呑んで足を止めた。


「往生、せいやあぁあああーっっ!!」


 不思議な形の巨大な剣を振りかぶり、見上げるほどの高みまで跳躍した少年が、赤黒い獣の頭部を叩き割る。

 断末魔の声を上げてどうと倒れた獣の体は、あっという間に砂となって崩れていった。


 しかし、拓己の目を釘付けにしたのは、恐ろしい獣の姿でもその末路でもない。


 くるんと空中で一回転して着地した少年が身につけているのは、ダークグレーの詰め襟ジャケットにワークパンツ。

 足元は黒のブーツ。

 ジャケットの丈はかなり短めで、ウエストにぐるりと巻かれているボディバッグや装備品の数々が目を引いた。

 黒のインナーの胸部を覆っている銀色のプロテクターには、翼を広げた鳥の紋章が刻まれている。


 その姿を、拓己はとてもよく知っていた。


「ハルファス……?」


 毎週日曜に、テレビ画面の中で見ている架空のヒーローが、目の前で恐ろしい獣を倒した。


 呆然とつぶやいた拓己の声に気づいたのか、耳にかけたインカムで誰かと話していた少年が、ぱっと振り返る。

 一瞬、驚いたように目を瞠った彼は、すぐにインカムに向けて口を開いた。


「CIC。こちら、ヴォルフ2。生存者一名発見。小学生男児、極軽度の外傷あり。直ちに保護・輸送車までの護衛任務に入る。――よう、坊主。よく生きてたな」


 そう言って拓己の前で腰を屈めた少年は、テレビの中で戦っていたハルファスのメンバーではなかったけれど、とてもきれいな顔をしている。

 光を弾いて黒銀に輝く髪が、柔らかく風に舞う。

 くっきりと線を描く切れ長の瞳と、意思の強そうな眉。

 青とも緑ともつかない色の瞳が、いつか何かの写真で見た南国の海のようだな、とぼんやり思う。


 高校生くらいだろうか。

 男のひとに『きれい』なんてヘンだな、とどうでもいいことを考え、そこではっと我に返る。


「いいか? これから、おまえを安全なところに――」

「お姉ちゃんを、助けて」


 瞬きもせずに見上げた先で、少年が虚を突かれた顔をする。


「お姉ちゃん?」

「けが、してるんだ。お願い。助けて」


 拓己は、踵を返して走り出した。

 わからない。

 何も、わからないけれど。


(このお兄ちゃんは、ぼくらを助けてくれるひとだ)


 だって、正義の味方のハルファスと同じ格好をしている。

 恐ろしい獣を、倒していた。

 だからきっと、彼は沙弥を助けてくれる。


「ちょ……っ、坊主!? ――CIC! 聞こえてるか!? 信じらんねぇ! ビンゴだ! ああそうだ、間違いねぇ! 本当にいたんだ! ネイティブの、『忘れられた適合者』が!」


 少年が、大きな声で何か言っている。

 意味はやっぱりわからないけれど、一緒に沙弥を助けにきてくれるならそれでいい。


 全力で姉の元に駆けていた拓己の頭上が、不意に陰った。


「……っ坊主!」


 ぐっと、腹の辺りに強い力が掛かる。

 瞬きひとつの間に、拓己を肩に担ぎ上げた少年は民家の屋根の上まで跳んでいた。


 振り返れば、眼下に不気味な赤黒い獣たち。

 大きい。

 拓己が最初に見た獣は、動物園で見たライオンくらいの大きさだった。

 けれど今、目の前に立ち塞がったそれらは象ほどもあり、しかも手とも足ともつかないものが数えきれないほどに生えている。


 少年は、ちっと舌打ちした。


「CIC、ヴォルフ2。アズラエルタイプと遭遇、至急増援頼む。――坊主、舌噛むんじゃねぇぞ!」

「……っ」


 再びの跳躍。

 直後、すさまじい轟音とともに自分たちのいた屋根が吹き飛ぶ。


 それが巨大な獣から無数に伸びた触手のせいだとわかったのは、屋根を破壊した肉色の不気味なうねりが、すぐさまこちらを追いかけてきたからだ。

 左腕で拓己を抱えた少年が、右手の剣でそれらを切り払いながら次々に屋根の上を跳躍していく。


(……いやだ)


 遠くなる。

 沙弥が、待っているのに。

 自分が戻るのを――助けがくるのを、待っているのに。


「フユキ!」


 そこに、高く澄んだ鋭い声が響いた。

 直後、上空から降り注いだいくつもの火線が獣を貫く。


 触手の動きがわずかに鈍り、その隙に少年は屋根の上を駆け抜けた。

 だん、とトタン屋根を踏み破って大きく跳躍した少年が、雑居ビルの屋上にふわりと降り立つ。

 ほぼ同時にどこからか現れたのは、やはりハルファスの戦闘服を身につけた若者たちだった。


 その中で、緩やかに波打つ真っ白な髪を背中まで伸ばした少女が、きびきびとした足取りで近づいてくる。

 異国の血が混じっているのか、ちょっと近づきがたいものを感じるくらいに美しい顔立ちをした彼女は、青みがかった灰色の瞳で拓己を見た。


 少女は拓己を抱える少年を見上げ、抑揚の乏しい声で口を開く。


「この子が、『忘れられた適合者』ですって? 間違いないの?」

「コイツを捕まえるのに、オレはガチで全力疾走させていただきましたが、何か?」


 ふぅん、と少女は再び拓己に視線を向ける。


「ま、きちんと調べてみなきゃ、何もわからないわね。フユキはその子を本部に移送、シオネはそのフォロー。トオヤとヒミは私とともにアズラエルタイプの――」


 彼女が言い終えるより先に、フェンスに足を掛けた小柄な少年が彼自身の体ほどもある巨大な武器の引き金を引いた。

 耳を劈くような射撃音とともに、撃ち抜かれた触手が千切れ飛ぶ。


 そのグロテスクな光景をどこか夢のように感じながら、拓己は掠れた声で口を開く。


「お姉ちゃん、が……」


 それまでまったく表情を動かすことのなかった少女が、わずかに眉根を寄せた。

 視線だけで拓己を抱えた少年に問いを向ける。

 少年は、感情の透けない声で淡々と答えた。


「どうやら、負傷して動けない姉がいるらしい。コイツの血縁なら、その子も『適合者』である可能性がある。どうする? リッカ」


 白い髪の少女が思考したのは、ほんの数瞬。


「残存戦力では、アズラエルタイプの殲滅とあなたの撤収支援でギリギリよ。その子が本当に『適合者』なら、人類の希望だわ。『ヴォルフ』のリーダー権限により、輸送ヘリの使用を許可します。――フユキ。その子を、全力で守りなさい」

「イエス、マム」


 一体何を、と思う間に。


「悪いな、坊主。……オレたちは、とっくの昔にカミサマに見捨てられてんだ」


 ちくり、と首筋に小さな痛みを感じたのと同時に、あっという間に視界が端から狭まっていく。

 抗いようもなく、まぶたが鉛のように重くなる。


(お姉、ちゃん……)


 ――たくみ、と。


 意識が闇に塗り潰される寸前、自分を呼ぶ沙弥の優しい声が、聞こえた気がした。

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