咆哮
――それから、どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
「……拓己。ひどい顔」
「……お姉ちゃんこそ」
ようやくパニックと恐怖の波が通り過ぎ、互いの涙でぐちゃぐちゃになった顔を笑い合う。
感覚が、麻痺してしまったのだろうか。
けれど、そうやって自分たちが笑えたことに、ふたりはひどくほっとした。
まだ感覚が痺れたように覚束ない足をどうにか動かし、順番に洗面所で顔を洗う。
お気に入りのタオルで顔を拭いた拓己が、ぽつりとつぶやく。
「お母さん……。どこ行っちゃったのかなぁ……」
沙弥は、弟の頭をぐりぐりと撫でた。
「……わかんないけど、うちで待ってよ? そのうち、きっと帰ってくるよ」
居間に戻り、テレビをつけてみても、どのチャンネルも反応しない。
母が普段から料理レシピを検索するのに使っているタブレットはキッチンカウンターに置きっぱなしだったけれど、子どもたちに使えないようロックされている。
沙弥は弱り果てて弟を見た。
「非常持ち出し袋に、『ラジオ』っていうのが入ってると思うんだけど。拓己、使い方わかる?」
拓己は、きょとんと首を傾げた。
「よくわかんないけど、いじってみればなんとかなるんじゃない?」
それもそうだね、と沙弥が苦笑したとき、先ほど聞いたばかりの恐ろしい獣の咆哮が、やけにはっきりと響き渡った。
鳥肌立つようなそれが聞こえてきた方に視線を向ければ、庭に出るガラス扉が開いたままだ。
「……っっ!!」
慌ててそれを閉めるべく駆け寄った沙弥は、そこに洗濯物の入った籠と、先ほど自分たちを見送った母の着ていた衣服が、何かの冗談のように落ちているのを見た。
嘘だ、という思いは、再び聞こえた獣の咆哮に吹き飛ばされる。
恐怖に駆られるまま勢いよくガラス扉を閉め、カーテンを引く。
居間の真ん中に立ち尽くしたまま、今にも泣きそうな顔をしている弟を抱き締める。
「お姉ちゃん……?」
「……大丈夫。大丈夫だよ、拓己」
母が、砂になってしまった。
砂になって、消えてしまった。
そんなことを、まだ小さな弟に言えるはずがない。
恐怖と悲しみで胸が一杯で、言葉なんて出てこない。
けれど、すでに壊れてしまった日常は、どこまでも彼らに容赦がなかった。
突如として、壁の一部が吹き飛んだ。
大量の瓦礫とガラスの破片が、咄嗟に弟の体を抱き込んだ沙弥の全身に叩きつけられる。
血のにおい。
飢えた獣の唸り声。
呆然とした拓己の目の前に、ずるりと沙弥が倒れ込む。
彼女の髪を結んでいたゴムが切れて、解けた髪が床に落ちた。
「たく、み……にげ……」
「おね……ちゃ……」
沙弥の肌が、服が、見る見るうちに鮮やかな赤に染まっていく。
いつも拓己の手を引っ張ってくれた彼女の手は、力なく落ちたままぴくりとも動かない。
視線を上げれば、臭い息を吐く巨大な獣。
子どもたちを、エサにしようと狙っている。
縦長の瞳孔が、まるでヘビのようだと思う。
巨大な猿と爬虫類をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたなら、こんな醜悪な獣になるだろうか。
気持ちが悪い。
怖い。
体が硬直して、自分たちを喰らおうとしている獣から目を逸らせない。
「逃げ、て……たくみぃ……っ」
そのとき、掠れきった沙弥の必死な声が、拓己の呪縛を解いた。
「……っお姉ちゃん! 起きて! 立って!」
血まみれの彼女の腕を、懸命に引っ張る。
けれど幼い子どもの力では、自分よりも大きな姉の体を引きずって動かすのは不可能だ。
沙弥は、自力で立ち上がれない。
彼女をこんなふうにした獣が、近づいてくる。
まるで非力な獲物の抗う様を楽しむかのように、ゆっくりと。
巨大な爪。
濡れた牙。
濁った瞳。
そのすべてが、ぐったりと動かない沙弥に集中している。
引き裂き、喰らおうと狙っている。
「ぁ……」
喉が、震えた。
「あぁ、あ……っ」
目の前が、真っ赤に染まる。
恐怖と絶望と混乱。
そのすべてを否定するために――
「ああぁあああああぁあああっっ!!」
――幼い少年は、殺意に吼えた。