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かみさま

“彼は、勝利者である。

 わたしは彼に、明けの明星を与えよう。”





 目を開いて、真っ先に目に入ったのは白い天井。

 ぼんやりと瞬きをした拓己は、自分がひどく空腹であることに気がついた。

 おなかへったなー、と思いながら起き上がろうとしたとき、すぐそばで何かがぶつかる硬い音が響く。


「拓己!? どっか痛くないか、大丈夫か、なんともないか!?」

「ふえ?」


 いきなり、血相を変えた冬騎の両手に顔を挟まれた。

 どこか泣きそうな、心配でたまらないという顔をした彼に至近距離で見つめられて、戸惑う。


「え、と……。どこも、痛くないけど――」

「けど、なんだ!?」


 ほとんど怒鳴りつけるような剣幕で問われ、拓己はびくびくと引き気味に口を開いた。


「お……おなか、へった」

「……そうか」


 よかった、とつぶやいた冬騎の手が、頬から離れる。

 代わりに彼の額が肩口に乗って、少し高めの体温が伝わってきた。


「冬騎お兄ちゃん? どうかしたの?」


 いつも優しく笑って拓己の頭を撫でてくれる彼が、こんな疲れた姿を見せるのははじめてだ。

 冬騎に頭を撫でられるのは、いつだって嬉しい。

 ほっとして、いやなことや怖いことも全部忘れられる。

 年上の彼に同じようにしていいのか少し悩んだけれど、冬騎は拓己の肩に額を埋めたままだ。

 拓己は、そろそろと手を伸ばして彼の髪に触れた。


(あ。ちょっと、にゃんこっぽい?)


 冬騎の髪はつるつるのさらさらで、昔撫でたくてもなかなか撫でさせてもらえなかった猫の毛のように手触りがいい。

 彼は以前、自分のことを『実はオレ、狼男なんだ』なんて言っていたけれど、狼の体毛はすべて枝毛なのだという。絶対、これほど撫で心地はよくないに違いない。


「……拓己」

「何?」


 冬騎の声が、少し掠れていた。


「おまえ……何があったか、覚えてるか?」

「何がって……」


 拓己はまだ少し寝ぼけている頭を、こてんと傾げる。


「えっと……あれ? ここ、どこだっけ?」

「……『ワダツミ』だ。オレたちは、三日前にここについた」


 へ、と拓己は目を丸くした。

 言われて今までのことを思い出してみれば、『ワダツミ』に到着したところまでは、なんとなく脳裏に浮かんでくる。

 冬騎たちと大きな車に乗って、もうすぐ着くというところで空を飛ぶ化け物が現れて――


「――天使さま!」

「は?」


 思わず大きな声を上げた拓己に、冬騎が驚いたように顔を上げる。

 拓己は、握った拳をぶんぶんと上下に振った。


「いたよね!? 黒い羽根の、すっごくキレーな顔をした、天使さまみたいな男のひと!」

「お……おう。夜刀のことか?」


 若干引き気味な冬騎の言葉に、拓己は力一杯うなずく。


「そう! そんなお名前だった! そういえば、あとで羽根を触らせてもらいなさいって、六花お姉ちゃんが言ってた気がする!」


 興奮しきりの拓己の頭に、冬騎の手がぽんと乗る。

 拓己は、へにゃっと笑み崩れた。

 どうして彼の手は、こんなに気持ちがいいんだろう。


「うん。よし。夜刀の羽根は、おまえが頼めば触らせてもらえると思うから、あとで思う存分触らせてもらえ。――で? 『ワダツミ』に入ってからのことは、覚えてないのか?」

「ん? んー……。あれ? ぼく、なんで寝てるの?」


『ワダツミ』に到着して、夜刀の翼を触らせてもらえると言われたのが嬉しくて――そこからのことが、まるで思い出せない。

 冬騎は少し考えるようにしてから、拓己の髪をくしゃくしゃと撫でた。


「……うん。やっぱ、『ラオデキア』からの長旅で疲れてたんだろうな。おまえ、いきなり眠っちまったんだよ。そのまま、三日も目ぇ覚まさないから――すげぇ、心配したんだぞ」


 彼の顔が少し歪んで、本当に心配されていたのが伝わってくる。

 拓己は、しゅんと肩を落とした。


「ごめんなさい……」

「おまえが謝ることじゃねーよ。……あぁ、悪い。腹減ってんだったな。なんか持ってくるから、ちょっと待ってろ」


 いつも通りの口調で言われて、ほっとする。

 冬騎が部屋から出ていくと、部屋の窓辺にかかっているカーテンがふわりと揺れた。

『ワダツミ』は海のそばのシェルターだと聞いていたけれど、窓の向こうは観葉植物が植えられた中庭で、潮のにおいも感じられない。

 ベッドから立ち上がり、少しだけ開いていた窓をロックぎりぎりまで開いてみる。


(わぁ……)


 そのときちょうど、頭上で雲が切れたのだろうか。

 中庭に、温かな陽光が差し込んだ。

 きらきらと輝く日差しが、木々の緑の上で弾けて眩しい。

 目を細めた拓己は、軽く腕を伸ばして深呼吸をした。

 三日も眠っていたなんてびっくりしたけれど、気分はとてもすっきりしている。

 近くにあった椅子に腰掛け、窓辺に頬杖をつく。


(……お姉ちゃん、どこにいるのかなぁ)


 なんとなく、なのだけれど。

 やっぱり、ここに沙弥はいない気がする。

 冬騎や六花たちがせっかく連れてきてくれたのに、どうやら今回の旅は無駄足だったみたいだ。

 ため息をついた拓己は、目の前の穏やかな光景をぼんやりと眺める。

 確か、こんなふうに雲の切れ間から差し込む光を、『天使のはしご』というのだと、どこかで聞いた。

 そこで思い出したのは、先ほど天使呼ばわりしてしまった夜刀のことだ。


(うーん……。やっぱり、男のひとに『天使』はダメだよねー。でも、六花お姉ちゃんと同じくらいきれいな男のひとがいるなんて、びっくりびっくり。世の中って、広いんだな。……いや、そもそも本物の羽根を背負ったひとがいるのが、ものすごくびっくりなんだけど!)


 なんだか、驚くポイントがずれてしまった。

 やっぱりちょっと、疲れているのかもしれない。


(……お姉ちゃんに、夜刀さんを会わせてあげたいな)


 沙弥は、鳥の翼をモチーフにした小物入れやヘアピンを、よく好んで集めていた。

 彼女が本物の翼を持つ夜刀に会ったら、きっと拓己よりずっと大喜びするだろう。


 あの真っ黒でぴかぴかの羽根を、拓己はとてもきれいだと思う。

 けれど、もしかしたら沙弥は『どうせなら、真っ白の翼だったらよかったのにー!』なんて悔しがるかもしれない。

 どうして沙弥は、白やピンク色が好きなのだろう。

 黒や青の方が、ずっとかっこいいのに。


 そんなことを考えていると、冬騎が湯気の立つ食事の載ったトレイを持って戻ってきた。


「ありがとう、冬騎お兄ちゃん」

「ん。ここの食事は、すげぇ美味いぞ」


 彼の言う通り、消化によさそうな雑炊はなんだか懐かしい味がしてとても美味しい。

 数種類の野菜と挽き肉の団子が入った、昆布出汁。

 こんな雑炊を、以前どこかで食べたような気がする。

 首を捻った拓己は、土鍋からお代わりをよそいながら冬騎に尋ねた。


「ねぇ、冬騎お兄ちゃん。ぼく、『ラオデキア』に行くまでは、お姉ちゃんとどこで暮らしてたんだっけ?」

「……え?」


 突然の問いかけに、冬騎がわずかに目を瞠る。

 拓己は、へにょりと眉を下げた。


「あ、冬騎お兄ちゃんが知るわけないよね。ごめんなさい。……えっと、なんかね? 昔お姉ちゃんと暮らしてたときに、こういうご飯を作ってくれたひとがいたような気がして」


『ラオデキア』に入る前のことを、拓己はよく覚えていない。

 沙弥とふたりで『学校』というところに通っていたのは、なんとなく頭の隅に残っている。

 けれど、世界がすべて壊れて、それからいろいろなことがありすぎて――ただ穏やかに平和なばかりだった頃の出来事は、もうあまり思い出せない。

 それでも、ときどきふいに胸の奥がつきんと疼く。


 何か、とても大切なことを忘れているような気がするのだ。

 拓己にとって、とても大切な何か。

 ……絶対に忘れてはいけないはずなのに、思い出そうとすると頭がひどく痛む。

 思い出すな、と。

 そう命じるような痛みに、拓己はすぐに自分の記憶を辿ることをあきらめた。


 だって、沙弥を探さなければならないから。

 沙弥を探すために、化け物をみんな倒さなければならないから。

 そのためには、忘れてしまったことをわざわざ思い出そうとするヒマなんてないのだ。


 拓己は、雑炊をすくった木のさじをじっと見た。


(もしかしたら、ぼくが忘れちゃったのって、昔ぼくにご飯を作ってくれたひとのことなのかなぁ?)


 もう、顔も思い出せない誰か。

 それでも、これだけはわかる。

 きっと拓己は、とてもそのひとのことが好きだった――


「……拓己」

「ふぁに?」


 ちょうど雑炊を口に入れたところに話しかけられて、おかしな声が出た。

 失敗失敗、と思っていると、冬騎が低く掠れた声で口を開く。


「それは、おまえの――」

「ぼくの?」


 きょとんと首を傾げた拓己を、冬騎がどこか苦しげな顔で見つめてくる。

 拓己は、慌てた。


「だ、大丈夫!? どこか、痛いの!?」

「……違う。どこも――大丈夫、なんだ。拓己」


 立ち上がり、でも、と言いかけた拓己に、冬騎はゆっくりと首を振る。


「ごめん。ごめんな。ほんとに……大丈夫だから」

「えっと……えっと? えい」


 はじめて見る彼の様子に、半ばパニックを起こした拓己は、思わず冬騎の頭を抱きしめた。

 拓己が辛くて泣いているとき、彼はいつもこうしてくれたから。

 先ほど髪を撫でたのといい、今日はいつもと逆のことばかりだ。

 そう思うとなんだかおかしくなって、拓己は冬騎の背中をぽんぽんと撫でた。


「だいじょーぶ、だいじょーぶ。ね?」

「……ごめん、な」


 冬騎は、なぜ――何を、謝っているのだろう。

 彼が拓己に謝るようなことなど、何もないのに。

 むしろ、いつもいつも彼に迷惑をかけているのは拓己の方だ。

 拓己は、むーんと眉を寄せた。


「あのね? ぼくは、冬騎お兄ちゃんが大好きだから、大丈夫。冬騎お兄ちゃんをいじめるやつがいたら、ぼくがぜーんぶやっつけてあげるから、大丈夫なんだよ?」


 少しの間黙ったあと、そっか、と冬騎がつぶやく。


「オレは……そういうのは、知らないから……。よく、わからないんだ」


 そういうのってなんだろう、と思ったけれど、聞き返すには冬騎の声が揺れていた。


「でも……ごめん。オレは、いやだ。オレは――おまえに、忘れられたくない」

「……へ? 忘れないよ?」


 拓己が冬騎を忘れるなんて、あるわけがない。

 いきなりヘンなことを言うなぁ、と戸惑う拓己の腕に、冬騎の指が触れた。ぎこちなく。


「忘れ、ないでくれ……。拓己」

「忘れないってば。どうしたの? 冬騎お兄ちゃん」


 ――拓己は、知らない。

 自分が母親に関する記憶を、すべて忘れてしまっていることを。

 かつての平和だった世界で、彼女は誰よりも拓己を愛し慈しみ、温かな食事を与えてくれた。

 幼い拓己にとって、母は確かに『かみさま』だった。

 優しくて、あたたかくて――ときに厳しく叱ることもあったけれど、拓己のすべてを受け入れ、愛してくれる。

 そんな母親の喪失を受け入れるには、今拓己が置かれている現実はあまりに残酷すぎた。


 だから、拓己は忘れた。

 自分が母に愛されていたことを。

 自分が母を愛していたことを。


「絶対、忘れないよ? ぼく、冬騎お兄ちゃんが大好きだもん」


 すべて忘れてしまえば、それを喪った痛みが彼の心を痛めることはないのだから――



***



 現在、ネフィリム対策研究最高意思決定機関、『バエル』直轄の研究室が置かれているシェルターは、世界に七つ。

 そのうちのひとつ、『テアテラ』があるのが、ドイツ西部ノルトライン=ヴェストファーレン州、デュッセルドルフだ。


 ドイツで確認された『適合者』、ハインリッヒ・ミュラーが収容されているのは『テアテラ』ではない。

 彼が発現させた異能が、国内最大のシェルターで管理するにはあまりに危険なものだったからである。


 一年前、彼は生まれ故郷の小さな街をひとつ、潰した。

 ネフィリムも人類も、そこに生きるものすべてを区別なく、立ち並ぶ建物ごとクレーターの底に沈めてしまった。


 ドイツ軍のハルファス部隊が、すり鉢状のクレーターの底でひとり座りこんでいたハインリッヒを発見したとき、彼はおとなしく周囲の指示に従い立ち上がった。

 当時、彼は十五歳。

 アッシュブロンドにペリドットグリーンの怜悧な瞳を持つ、理知的な印象の少年だった。


 しかし彼は、『テアテラ』への移送ヘリの中から地上に蠢くネフィリムの姿を確認した途端、殺意に吼えた。

 シートベルトを引きちぎり、ヘリコプターの扉を蹴り破って宙に飛び出した彼は、けたたましく調子外れの声で笑いながら、力尽きて倒れ伏すまでありとあらゆるすべてを破壊したのだ。


 ハインリッヒを回収した兵士の報告により、ドイツ上層部は彼の輸送先を『テアテラ』からドルトムントのシェルター、『シュトライヒ』に変更した。

 その後の検査で、ドイツ国内で生存している人類の六割が、彼の完全抗体により発症の恐怖から解放されることがわかった。


 ハインリッヒは、非常に大人びた少年だった。

 意識が戻ってからは周囲の説明を静かに受け入れ、今後はネフィリムを倒すために己の力を使うと、彼の亡くなった家族に誓った。


 彼に与えられたコードネームは、テュルフィング。

 持ち主に勝利と破滅をもたらす魔剣の名を彼に与えた者は、すぐにそれを後悔することになる。


 四ヶ月のハルファス部隊との合同訓練ののち、実戦投入された彼は、三たび大地に巨大なクレーターを刻んだ。

 重力を操り空に立ち、彼は視界からネフィリムが存在しなくなるまで一切の指示を受け入れず、すべてを粉々になるまで破壊し続けた。

 いくら見た目が大人びていようとも、まだ心の幼い彼は、ネフィリムに対する殺戮衝動を、どうしても制御することができなかったのだ。


 ――ハインリッヒの異能でネフィリムを駆逐するメリットと、破壊の爪痕が刻まれているとはいえ、歴史ある街並みが跡形もなく消失するデメリット。

 それらを天秤にかけたドイツ首脳部は、ハインリッヒの『シュトライヒ』幽閉を決定した。

 ネフィリムから――外の世界から完全に隔離し、安全なシェルターの最奥での穏やかな生活を彼に与えたのである。


 しかし、目の前で醜悪なネフィリムに家族を、友人を、ほのかな思慕を抱く幼馴染みの少女を食い殺され、彼らの復讐を誓った少年にとって、その生活は拷問に等しかったのだろう。


 元来口数が少なく、自己主張の乏しい少年だったハインリッヒは、辛うじて保っていた心のバランスを徐々に崩していった。

 否――すでに壊れていた心を覆い隠していた殻が、徐々にひび割れ落ちていったというべきか。


 ハインリッヒは、自らの異能を自覚してからは、それを人類に向けることはなくなった。

 彼とともに訓練を重ねたハルファスたちは、献身的に彼に尽くした。

 彼もまた、ネフィリムと戦うためだけに生み出されたハルファスたちを、己の同胞として受け入れたのだろう。

 ハインリッヒが訓練から遠のいても、彼と一度でも接触したハルファスたちは、ことあるごとに彼のもとを訪れた。


 健康診断と称してさまざまな検査を行い、そのたび増血剤が必要になるほど血液を抜いていく研究者たちには、次第に嫌悪感を隠さなくなったものの、親しくしているハルファスたちが顔を見せれば笑って彼らを受け入れる。


 ハインリッヒは、もう外の世界でネフィリムを殺すことはできない。

 どれほどの殺戮衝動が胸の内で暴れても、それを正しく解放することは許されない。

 彼の代わりに戦い傷つき、それでもなお彼を慕って集まるハルファスたちがいなければ、ハインリッヒはとうの昔に完全に壊れきっていたのだろう。


 ――いつからか、すべてを一瞬で破壊できる力を封じたまま、彼は自分自身を壊しはじめた。

 不眠、拒食、自傷行為。

 常にネフィリム討伐に投入されているハルファスたちは、そんな彼のそばについていることを許されなかった。

『シュトライヒ』の研究員たちは、彼を拘束した。

 大量の安定剤を投与し、手足の自由を奪い、二十四時間の監視態勢を敷いて彼の安全を確保し続けた。

 ハインリッヒを――ドイツ国内で唯一発現した『人類の希望』を、決して喪わないために。


 彼はもう、睡眠導入剤を投与しなければ眠ることもない。

 よけいな刺激を与えることを嫌った研究員たちの意向により、ハインリッヒを慕うハルファスたちが、彼に接触することもなくなった。

 毎日白い拘束衣をまとい、手枷を嵌められ、担当の研究員に付き添われてシェルターの内部を散歩する以外は、ただじっと椅子に座って虚空を見つめている。


 その日も、いつもと同じだった。

 今の彼は、研究員たちの指示には抗わない。

 一時はすぐに吐き戻していた食事も、きちんと食べるようになっている。


 だが――


「……フェン、リル」


 ――白い壁に囲まれた小さな部屋に、ぽつりと響いた小さな声。

 それと同時に、ハインリッヒの手首を拘束していた手枷が、砕けて落ちた。

 手枷に埋め込まれていた安全装置が作動し、『シュトライヒ』に非常事態を告げるサイレンが響き渡る。


 ゆらりと立ち上がったハインリッヒは、駆けつけた研究員たちと召集されたハルファスたちを振り返った。


「会いに、いく」


 周囲の面々が、揃って息を呑む。

 ハインリッヒが最後に言葉を発するのを聞いたのは、もう数ヶ月も前のことだ。

 人々の驚きなどまったく意に介した様子もなく、彼はゆっくりとペリドットグリーンの瞳を瞬かせた。


「夢じゃ、なかったんだね。……きみたちは、今、そこにいる」

「ハインリッヒ? 何を、言っているの?」


 温和な顔立ちの女性研究員が、努めて穏やかにハインリッヒに声をかける。

 ハインリッヒは、無表情に彼女を見た。


「フェンリルは、強い。けど、タクミは、まだ小さい。タクミが消えたら、サヤが泣く」

「……フェンリル? タクミ? ――『ラオデキア』の、『適合者』のことかしら?」


 そう、とハインリッヒがうなずく。

 彼は小さく首を傾げた。


「普通の服と、靴と、日本に行く方法が欲しい」


 あまりに突然の要請に、困惑を隠しきれない周囲へ彼は続ける。


「僕は今、息をしている。でも、息をしているだけ。僕は今、生きていない。僕は、生きたい。彼が、生きていろと言ってくれたから」


 淡々と告げた彼は、左手を持ち上げた。

 手のひらを上にして、軽く握る仕草をする。

 ハインリッヒの足下に転がっていた手枷の残骸が、音もなく圧縮されて粉々になった。


「――彼が、正しい力の使い方を教えてくれた。僕は、彼らと生きたい」


 美しいばかりの宝石のようだった彼の瞳に、少しずつ、しかし確実に意思の光が滲んでくる。

 彼は、幼い子どものようにほほえんだ。


「あなたたちは、たくさん僕の血を持っていった。もう、いいでしょう? 僕はもう、ここには必要ないでしょう?」

「ハイン――」


 呼びかけた研究員に、ハインリッヒはくすくすと笑う。


「ダメだよ。無ー理。あなたたちに、僕は止められない。だって、あなたたちより僕の方が、ずっとずっと強いから」


 まるで、歌うような口調で言う。


「ねぇ、知ってた? 僕にも、心くらいあるんだよ」


 ペリドットグリーンの瞳が、人々を射貫く。

 冷たく、傲然と。


「僕は、薬漬けであなたたちに血を抜かれるばかりの日々を、生きているとは思わない。僕の心も体も、僕のものだ。――もう、返してもらう」


 ハインリッヒは、そこでようやく自分を見つめるハルファスたちに気づいたようだった。

 何度か瞬きして、嬉しそうに笑う。


「アリア。テオ。イザーク。セーラ。僕と、一緒に来る?」

「はい!」


 迷いなくうなずいた彼らは、『シュトライヒ』のハルファスの中でも、最もハインリッヒと過ごす時間が多かった者たちである。

 万が一のときにハインリッヒを拘束させるため、敢えて彼と親交の深かったハルファスたちを召集した研究員たちは、蒼白になった。


 いくらハルファスたちがハインリッヒを慕っていても、彼らがともに重ねた時間は、研究員たちと過ごした時間に比べれば遙かに少ない。

 ハルファスたちが、親代わりの研究員よりもハインリッヒを選ぶことなど、あるはずがない。


 なのに――


「ハインリッヒ! ハインリッヒ、心配した!」

「なんで……っ、おまえが、こんな、拘束衣……っ」

「……ねぇ。誰がきみに、手枷なんてふざけたものを嵌めてくれたの?」

「殺していい? ねぇ、ハインリッヒにこんなことした連中、殺していい?」


 ――我が子を傷つけられた獣のように、殺気立ってハインリッヒを取り囲むハルファスたちの姿に、研究員たちは慄然とした。

 仲間たちを笑って宥めたハインリッヒが、彼らの頬に親愛のキスを送る。


「大丈夫だよ。みんなのことは、僕がちゃんと守るから」


 そうして、ハインリッヒは研究員を見てにこりと笑った。


「ねぇ。『シュトライヒ』を潰されたくなかったら、僕のお願い、聞いてくれる?」

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