八人目の適合者
重い沈黙が落ちる。
ややあって、ようやく長谷川が口を開いた。
「僕、は……」
その声が、震えている。
落ち着かなく何度も指を握り込む仕草をした彼は、手のひらを額に当てて乾いた笑い声をこぼす。
「……すみません。ちょっと――驚いたんです」
顔を上げて渡部を見た長谷川の顔は、奇妙に歪んでいた。
「僕は、自分で思っていたよりもずっと、薄情な人間だったみたいです。……今、なぁんだ、って思いました。『竜宮』の人々がこれから直面する危険が、地上では珍しくもないなら――人類として当たり前のことなんだったら、別に大騒ぎしなくてもいいじゃないか、って」
くくっと、長谷川が肩を揺らす。
「この一年『竜宮』で暮らして、思ったことがあります。――海は、すべての生物にとって母親の胎内のようなものです。自らその底に潜った者たちに、未来を語る資格などあるのでしょうか」
渡部が、ふむ、と首を傾げる。
「きみは随分、哲学的なことを言うね」
「とんでもない。情けない後悔に溺れた若者の、ただのばかげた妄想ですよ。……あぁ、そうですね。今、わかりました。僕はどうやら、ずっと『竜宮』を憎んでいたようです」
パズルの最後のピースをはめるのに成功した子どものような顔で、長谷川は笑った。
「僕が『竜宮』に入ったのは、僕自身が決めたことです。けれど、彼らが僕に声をかけてこなければ、僕は『竜宮』の存在すら知らなかった。何も知らずに、あなた方と同じように血にまみれながら、地上で人類のために働くことができていたはずだ。子どもじみた責任転嫁です。それでも――」
長谷川が、持ち上げた右手の指を、ぐっと握り込む。
「――僕は結局、研究者として生きることしかできない人間です。そしてすべての研究者の望みは、より多くの人々の役に立つ研究成果を出すことなんです。……渡部海佐。僕は自分自身を、『竜宮』に生きるわずかな人々よりも、地上に生きる大勢の人々のために使いたい」
彼の視線を正面から受け止め、渡部はほほえんだ。
「覚悟は、できたと思っていいのかな?」
長谷川が苦笑する。
「フェンリルは、まるで覚悟のできていない僕を『竜宮』から連れ出してくれたのですが。さすがに、もうそんなことは言えません」
フェンリルが、むっとした顔で口を開く。
「俺と、そのえげつない性格のおっさんを比べてんじゃねーよ。つーか、俺はおまえを『竜宮』から出してやった恩人だぞ。感謝して崇め奉れ」
「はぁ。月見団子でもお供えすればいいのでしょうか?」
首を傾げた長谷川に、フェンリルは半目になった。
「ツッコミづらいボケをかますな」
「すみません。精進します」
真顔で謝罪した長谷川に、渡部がわざとらしく咳払いをする。
「まぁ……。『竜宮』の処遇に関しては、とりあえず上層部に判断を丸投げすることにしてだ。――フェンリル。もうわかっているかもしれないが、きみの姉は『ワダツミ』にはいない」
フェンリルは、すっと目を細めた。
皮肉げな笑みを浮かべ、口を開く。
「ったく、九歳のガキにひでぇ嘘をついたもんだよな」
「それについては、詫びのしようもない。だが――」
言いさした渡部を、フェンリルは軽く右手を挙げて制する。
「俺は、拓己じゃない。だから、詫びの必要もない」
「……そうか」
渡部は項垂れ、口をつぐんだ。
フェンリルは淡々と続ける。
「拓己に謝罪する気があるなら、沙弥を探せ」
「フェンリル……」
彼が亡くなった姉を弔いたいという気持ちは、充分理解できる。
しかし、ネフィリムの跋扈する広大な砂の大地で、たったひとりの少女の遺骸を探し出すなど不可能だ。
そう言いかけた渡部に、フェンリルは告げた。
「沙弥は、生きている」
しん、と誰もが呼吸を忘れたかのように、部屋の空気が静まりかえる。
フェンリルは、六花と冬騎を振り返った。
「拓己も『ラオデキア』を出る前に、言ってただろ? 沙弥が、イスラフィールタイプに気をつけるよう忠告してたって」
「は……い」
六花がぎこちなくうなずき、冬騎は血相を変えてフェンリルに詰め寄った。
「拓己は……っ、夢の中で、沙弥ちゃんに会ったと言っていたんだ! 沙弥ちゃんがネフィリムに襲われて行方不明になってから、一年だぞ! 十二歳かそこらの女の子が、たったひとりでシェルターの外で、どうやって今まで生きてこられたってんだ!?」
フェンリルが小さく息をつく。
「そんなの、こっちが知りてぇよ。――でも、沙弥は生きてる。どこにいるかは、俺にもわかんねぇけどな。あいつ、口を開けば拓己の心配してばっかだし。つーか、しょっちゅう寝ぼけてぼーっとしてるし。もしかしたら、自分がどこにいるかもわかってねぇのかもな」
あっさりとそんなことを言われた冬騎は、言葉を失った。
彼は、拓己がどれほど姉の沙弥を求めて泣いていたか、いやというほどよく知っている。
もし本当に、沙弥がこの世界のどこかで生きているのなら――
そこで、すっと六花が右手を挙げた。
「……フェンリル」
「なんだ? 六花」
白い髪の少女は、まっすぐに己の主を見上げた。
「イスラフィールタイプの存在確認が、新堂沙弥によってもたらされた。それはつまり、彼女があなたと同じ、ウイルス勝利条件適合者だということですか?」
フェンリルは、あっさりと答える。
「たぶんな。拓己が『適合者』なんだ。姉貴の沙弥がそうだって、おかしかねぇだろ」
周囲の者たちが、鋭く息を呑んだ。
それは、八人目の『適合者』。
新たな人類の希望となりえる者。
新堂沙弥が本当に存在していたなら、それは拓己にとって――否、人類にとって、一体どれほどの福音か。
そうですか、と六花は一度目を伏せる。
少し考えるようにしてから、彼女は再び口を開いた。
「フェンリル。わたしは、あなたの言葉を信じます。ですが、『新堂沙弥の助言』が、あなた自身の異能の発現形態ではないと証明できない以上、彼女の捜索のために部隊を動かすのは不可能です」
フェンリルが、ちっと舌打ちする。
「俺は、沙弥みてぇに他人と意識を繋ぐなんてできねーぞ」
「……意識を、繋ぐ? それが、新堂沙弥に発現した異能ですか?」
六花の問いかけに、フェンリルは首を傾げた。
「いや、ホントのところはどうなのか知らねぇけどよ。拓己と夢の中で話したり、俺が目ぇ覚ましそうになるたび『寝てろ』って言ったりしてたってことは、そんなカンジの能力なんじゃねーの?」
「どう……なのでしょう。あれだけ正確に、ネフィリムの存在確認をしていたというのは……」
考えこんだ六花に、フェンリルはめんどうそうに手を振った。
「んなことは、どうだっていいんだよ。別に、俺自身が沙弥に執着してるわけじゃねーし。――ただ、拓己にとって、沙弥は生きる理由だ。もし拓己が壊れたら、俺だってどうなるかわかんねぇ。あんまり、不安定にさせるような真似はすんな」
彼らの会話が、『竜宮』から出てきたばかりの長谷川には理解できなかったようだ。
困惑した顔をした彼が、おろおろと周囲を見回したときだった。
突如、けたたましい警報が辺りに響き渡る。
即座にパソコンのキーボードを叩いた渡部が、机上のマイクを掴んで口を開く。
「総員、甲一種戦闘配備。北西より新種の中位種、オファニエルタイプの大群が接近中。数、八十七。なお、オファニエルタイプは飛行種である。今までにない規模の戦闘となることが予想される。各員の健闘に期待する」
八十七、と六花がつぶやく。
その顔が、わずかに青ざめていた。
『ワダツミ』に到着する直前に遭遇した、飛行タイプの中位種。
分厚い羽毛に包まれた巨大な体で、信じられないほどの高速で飛ぶネフィリムは、地上からの狙撃をものともしなかった。
先ほどの群れを構成していたのは、十二体。
そのうちの四体は、夜刀があっという間に討伐した。
あのときの群れの生き残りが、仲間たちを呼んで戻ってきたのだろうか。
現状、オファニエルタイプとまともに戦えるのは、翼を持つ夜刀だけだ。
芽依をはじめとする『レオパルト』たちの正確無比な射撃でさえ、対象にダメージを与えることはできても、撃ち落とすまでは至らなかった。
フェンリルの異能も、連中が飛ぶ高度までは届かない。
この状況を、一体どうしたら打開できる――
「――夜刀」
「はい」
フェンリルが、胸ポケットから取り出したインカムを夜刀に放る。
「おまえのインカムの周波数を、これに合わせろ。――あぁ、おっさん。俺の栄えあるデビュー戦だ。邪魔なんて野暮な真似は、しねぇよなあ?」
渡部を振り返ったフェンリルは、楽しげに笑っていた。
獲物を目前に舌なめずりする、獰猛な獣のような笑み。
わずかに目を瞠った渡部が、ぎこちなく口を開く。
「まさか……きみたちだけで、八十七体のオファニエルタイプを相手にするつもりか?」
夜刀から渡されたインカムを装着しながら、フェンリルが当然のようにうなずいた。
「ああ。よけいな手出しはすんじゃねーぞ。うっかり燃やしちまっても、責任は取らねぇからな。それから、うちの連中に必要な装備を渡してやれ。――六花、冬騎。おまえらは、陽人と壮志、芽依とともに防衛システムライン上で待機。ほかの連中は、まだ使えねぇだろう」
「はい」
「……わかった」
フェンリルは、六花たち主要メンバー以外の不調に気づいていたらしい。
短く答えたふたりが、仲間たちと合流して装備を調えるべく執務室を駆け出していく。
夜刀が小さく笑みをこぼした。
「どうした? 夜刀」
「いえ。こんなときに、不謹慎かもしれませんが……。あなたとともに戦えることが、嬉しくて仕方がないんです」
ふぅん、と首を傾げたフェンリルは、渡部を振り返ってにやりと笑う。
「地下から出る、出口を開けておけ。『人類の希望』絡みの緊急時なら、『ワダツミ』所属のハルファスが防衛システム圏外でネフィリムと戦っても大丈夫なんだろ? 俺たちがここに来たとき、夜刀はシステム圏外まで迎えにきたもんな」
渡部は、わずかな逡巡のあと口を開いた。
「……フェンリル。夜刀は、『キメラ』だ。きみは――」
「こいつが短命種だって話なら、もう聞いた」
長谷川が驚いたように夜刀を見る。
フェンリルは淡々と続けた。
「それがどうした? 俺は、自分がこの世界に存在している限り、こいつを飛ばせてやると決めた。こいつは、俺とともに飛ぶことを選んだ。わかったら、夜刀の『ラオデキア』への転属手続きでもしてろ」
そう言うなり、フェンリルは夜刀を従えて執務室を出ていった。
残された渡部は、もの問いたげな長谷川に苦笑を向ける。
「聞きたいことはさぞたくさんあるだろうが、あとにしてくれ。いくらフェンリルがああ言っていても、八十七体ものオファニエルタイプを前にじっとしていられるほど、私は肝が据わっていないのだよ」
「……はい。ただ、渡部海佐。ひとつだけ、よろしいでしょうか」
なんだね、と視線だけで返した渡部に、長谷川は言った。
「『竜宮』にいる間、僕は自分が生きているのか死んでいるのかもわかりませんでした。けれど今は、間違いなく生きていると実感できます。……さっきの今で申し訳ありませんが、前言撤回させてください」
長谷川は一度深呼吸をして、静かに告げる。
「僕は、僕自身をあのふたりのために使いたい。……許可して、いただけますか?」
渡部は、小さく笑った。
「長谷川くん。それは、きみの人生を人類のために使うのと同義だと、私は思うよ」
フェンリルと夜刀が地下に降りるのと同時に、鎖されていた地上への通路が開かれる。
ふたりの乗ったバギーが地上に出ると、北西の空にぽつんと黒い点が見えた。
レーダーが反応を感知してから今までの間に、もう視認できる距離まで接近していたようだ。
フェンリルが、くくっと楽しげに笑う。
彼の精神の高揚を示すように、夜刀の頬に触れる風がふわりと熱を孕む。
「やっべぇ。……超、ぞくぞくする」
「あなたの熱量支配能力の有効半径は、集中力次第と聞いています。今なら、どこまでいけそうですか?」
フェンリルは、オファニエルタイプの群れから視線を逸らさないまま答えた。
「ああ。あの高度までは、ちょっと無理だな。――夜刀。群れと接触したら、先頭の個体を叩け。俺も、すぐに行く」
夜刀は、思わず彼の横顔を見上げた。
「すぐに、とは……あなたは、あの高度まで移動する手段を持っているのですか?」
「いや、俺にそんな力はねぇよ。……おーい、沙弥。聞こえるか?」
突然、拓己の姉の名を呼び出したフェンリルに、夜刀は目を丸くした。
フェンリルは、どんどん近づくオファニエルタイプの群れを見ながら、もう一度虚空に向かって呼びかける。
「沙ー弥ー? 寝ぼけてねーで、返事しろ。おまえの可愛い拓己じゃねーが、俺もおまえの弟みてーなモンだろうが。……っ、うるっせーな、いきなり怒鳴るんじゃねぇよ。あ? 俺だって、好きで目ぇ覚ましたわけじゃねーっての。だから、状況を見ろ、状況を。あのバケモンたちを潰さねぇと、おまえの可愛い拓己を可愛がってるやつらも食われて終わりだ。――わかったら、さっさと俺とハインリッヒを繋ぎやがれ」
ハインリッヒ。
夜刀は、記憶の中からその名を探し出した瞬間、息を呑んだ。
――ドイツで発見された『適合者』の名が、ハインリッヒ・ミュラーでなかったか。
確か彼は、ネフィリムへの殺戮衝動が暴走し、制御不能と判断されて研究所に拘束されているはずだ。
「あぁ? んなこと言ってる場合かよ。そうだ、三十秒でいい。あとは、こっちでなんとかする。……へいへい、ちゃんと伝えておきますよ、お姉サマ」
見えない相手との会話をとめたフェンリルが、夜刀を見た。
「止めろ」
主の命令に、夜刀はほとんど無意識にブレーキを踏んだ。
輝く砂を捲き上げて、バギーが止まる。
あと一分も経たないうちに、オファニエルタイプの群れが自分たちの直上までやってくるだろう。
フェンリルは、一度息をついて軽く右手を持ち上げた。
彼が、自らの異能を発揮するときの仕草。
しかし、その右腕は炎をまとうことはなく――
「――夜刀。沙弥から、伝言だ。拓己の体を守ってください、だとよ。ったく、あいつは拓己のかーちゃんか」
ぶつぶつとぼやいたフェンリルが、ふっと瞬く。
その瞳が、色彩を変えた。
濡れたような漆黒から、鮮やかなペリドットグリーンへ。
「知ってるか? 夜刀。ドイツの『適合者』の異能は、重力操作。あいつは一年前、自分の家族を食い殺したネフィリムごと、住んでいた街をクレーターに変えた。そのときのショックで、あいつは今も壊れたままだ」
フェンリルは、別人の色に染まった瞳をわずかに伏せた。
「……聞こえてるか。ハインリッヒ。おまえは、何も悪くねぇ。いつか必ず、会いにいく。――それまで、生きてろ」
そうして彼は、夜刀を見る。
色彩は違っても、ふてぶてしいまでの意思の強さは少しも損なわれていない瞳で。
――ぞくぞく、した。
「飛べ」
「はい」
夜刀の右腕から射出されたアンカーが、群れの先頭をきって飛んでいたオファニエルタイプに突き刺さる。
人のものとも獣のものともつかない耳障りな悲鳴と、高速でワイヤーの捲き戻る擦過音。
ほんの数秒で地上から遙かな高みに移動しても、夜刀の血液は問題なく全身に酸素を運んでくれる。
翼を広げた夜刀は右腕にアンカーを回収し、同時に抜き払った剣で手負いのオファニエルタイプの首を叩き落とした。
その体が砂となって崩れ落ちる前に鋭く蹴り、背後から牙を剥いて飛びかかってきた個体の胴を切り裂く。
軽くその頭上に飛び上がり、首の後ろに刃を突き立てる。
周囲は、見渡す限りの敵影。
けれど――
「ははっ。やっぱスゲーな、おまえ!」
――夜刀は生まれてはじめて、空を舞っているときに人の声を聞いた。
楽しくてたまらないというように笑う彼の人は、夜刀の刃を受けてなお暴れる個体のすぐ近くを飛ぶネフィリムの背中を、その両足で踏みしめている。
不気味な目玉模様の白い翼を左手で鷲掴み、肌を刺す冷たい風をものともせずに彼は言った。
「夜刀! 忘れんな! おまえの主は、この俺だ!」
何を今更、と夜刀はあきれた。
襲いかかってくる白い翼をまとめて切り伏せ、主の頭上から急降下してくる鋭い爪をその脚ごと切り落とす。
死ねばすべて砂と変じてしまうくせに、生きている間は赤い血が噴き出すのが不思議だと、いつも思う。
「あなたこそ、忘れないでください。私の主は、あなただけだ。――信じなさい。私が生きている限り、あなたに傷がつくことはありません」
告げた言葉が、獣の血を持たない彼に届くという確信はなかった。
この吹きすさぶ風とけたたましい羽音の中では、インカムもほとんど役に立たない。
届かなくてもいいと、ただ己自身への誓いにも似たつぶやきに、しかしフェンリルは一瞬驚いた顔をしたあと破顔する。
「この状況で、んなこと言っちゃう!? カッコつけすぎだろ、おまえ!」
「単なる事実です。あなたひとりを抱えてこの場を離脱するだけなら、いつでもできますから」
まさかの敵前逃亡宣言! と、何が楽しいのか箍が外れたように爆笑したフェンリルは、それからすっと笑みを消して右手を掲げた。
「――夜刀。信じてるぜ?」
「はい」
フェンリルが唇の動きだけで再び命じる。
飛べ、と。
目の前に現れたネフィリムの頭部を斬り飛ばし、その体を踏み台にして高く跳躍する。
翼を広げ、更なる高みまで。
眼下で、漆黒の瞳に戻った夜刀の主が、にやりと笑うのが見えた。
「死ね」
覇王の命令と同時に、空を埋め尽くしていた白い翼たちが一斉に動きを止めた。
ぱきん、という小さな音は、どこから聞こえてきたものだったのか。
己が死を迎えたことさえ気づかないまま凍りついたネフィリムたちが、次々に地面に向かって落ちていく。
フェンリルが足場にしていた個体だけが、仲間たちが羽ばたきをやめたことに戸惑うかのように醜い首を廻らせている。
「……お待たせしました」
「おう」
夜刀は、過たず一刀でその首を刎ねた。
フェンリルの体を抱え、剣を鞘に戻す。
耳元で、くくっと小さく笑う声が聞こえた。
「まさか、一日に二度もおまえと飛ぶ羽目になるとは思わなかったぜ」
「はい。自分もです」
伝わる鼓動。
体温。
互いの生きている証が、確かに感じられる。
フェンリルが、ふっと息をつく。
「あー……。群れの端の方にいたヤツ、何体か取りこぼしたな」
「そのために、『ラオデキア』のハルファスたちを下に待機させているのでしょう?」
いくらフェンリルが細身とはいえ、自分よりも大きな相手を抱えている状態では、夜刀の機動力は激減する。
残った個体に襲われる前に地上に降りようとした夜刀の腕を、フェンリルが軽く叩く。
「ギリギリまで、引きつけろ。連中の意識が俺たちに集中していた方が、あいつらが撃ち落としやすいだろ」
「……だったら、あなたが堕とした方が早いのでは?」
自由落下に近いこの速度で下降しながらでは、さすがに集中力に欠けて力を扱いきれないのかと思っていたが、これだけ冷静な判断ができるなら別段問題はなさそうだ。
夜刀の素朴な疑問に、フェンリルは億劫そうに首を振った。
「あー……。無理。ハインリッヒの力、使うの……思ってたより、スゲー疲れる……」
「フェンリル?」
途中から、フェンリルの声が不安定に揺らいだ。
腕の中の体から、力が抜ける。
「わりぃ……夜刀。ちょっと、寝る……。次に、目ぇ覚ましたときは……拓己かも、しんねぇけど……」
「――すみません、フェンリル。砲撃が来ます。絶対に動かないでください」
先ほどよりも体温の落ちた感じのする体を、ぐっと抱きこむ。
地上の景色が、見る間に近づいてくる。
フェンリルと夜刀の体ギリギリを掠め、『ラオデキア』のハルファスたちの放った銃弾が、ネフィリムたちの翼を次々に貫いていく。
辺り一面に、白い羽毛が降りしきる。
夜刀のブーツが砂の大地を踏んだときには、白い翼はすべて細かな砂に変わりつつあった。
「フェンリル!」
ぐったりと顔を伏せたままのフェンリルの姿に、悲鳴を上げたのは誰だったのか。
その呼びかけに、フェンリルは小さく苦笑したようだった。
「あー……なっさけねー……」
「フェンリル。オファニエルタイプは、すべて堕ちましたよ」
そうか、とつぶやいたフェンリルが、何ひとつ遮るもののない青空をぼんやりと見上げる。
瞬きをして、夜刀に視線を移す。
「俺が……寝てる間。――おまえは、拓己を、守ってろ」
「はい」
素直にうなずいた夜刀に、フェンリルがわずかに顔をしかめる。
「夜刀……? おまえの、主は……俺だけ、だからな?」
「はい。私がともに空を飛ぶのは、あなただけです。――フェンリル」
最初で最後の夜刀の主は、満足そうにふわりと笑った。




