連結ブロック、自爆
そんなことを話している間に、脱出艇は海面に浮上していた。
上部ハッチを開いて夜刀が外に出ると、彼の胸ポケットでインカムがノイズ混じりの声を吐き出す。
「――はい。こちら夜刀」
反射的にインカムを装着して応答すると、安堵したような渡部の声が聞こえてくる。
『渡部だ。『竜宮』からの脱出艇射出信号を確認してな。フェンリルは一緒か?』
「はい。フェンリルほか、ウイルス研究員が一名同行。二十代男性、長谷川広也。彼の『ワダツミ』受け入れ許可を」
わずかの間のあと、苦笑まじりの声が返る。
『フェンリルの要望なのだろう? ならば、許可するしかあるまい。すぐに、そちらへタグボートを回す』
「了解」
渡部の言葉通り、すぐに脱出艇を曳航するタグボートが波を切ってやってきた。
ドックから『ワダツミ』に入るのは、夜刀もはじめてだ。
タグボートを操縦していた隊員に、道順を確認して歩き出す。
本部に向かう道中、あちこちを興味深そうに見ていたフェンリルが、おどおどと身を縮めている長谷川の腰を無造作に蹴り飛ばした。
「のわぁっ!?」
不意打ちをまともにくらい、長谷川がべしゃっと床に張りつく。
フェンリルがあきれた顔で彼を見下ろす。
「ここまで来ておきながら、今更うじうじしたツラをしてんじゃねーよ。鬱陶しい」
「~~っ、僕は元々、繊細で悩みがちなんです! いきなり人の脇腹を蹴り飛ばせるような、図太い神経の持ち主と一緒にしないでください!」
夜刀は、歩みを止めて振り返った。
「本当に繊細な人間は、自分のことを繊細だなんて言いませんよ。あなたが悩みがちだろうが、笑えるほどに流されやすいタチだろうが、そのせいで後悔ばかりの人生だろうが、こちらの知ったことではありません。わめく元気があるのでしたら、さっさと立って歩きなさい」
冷ややかに告げると、長谷川が束の間の沈黙ののち、白衣の胸元を掴んで小さくうめく。
「うぅ……っ、今ちょっとだけ、女王さまに蔑まれる悦びを理解できてしまいそうな自分がいました……」
「は?」
なんのこっちゃ、と目を丸くした夜刀の肩を、フェンリルがぐいと掴んで長谷川から遠ざける。
「フェンリル?」
「……夜刀。おまえはもう、こいつに近づくな」
フェンリルの顔が若干青ざめているように見えて、夜刀は眉をひそめた。
「彼に、何か問題が?」
「わからん。ただ、俺の勘が、おまえをこいつに近づけるなと言っている」
そうですか、とうなずいた夜刀が、素直に長谷川から距離を取る。
フェンリルはほっと息をつくと、先ほどよりも引き気味に長谷川を見た。
「おら、行くぞ」
「はい。……あ、えぇと……フェンリル?」
なんだ、と見返したフェンリルに、長谷川は白衣のポケットから取り出した記録媒体を示す。
「『竜宮』のメインコンピュータを経由して集めた、あなたを含む七名の『適合者』たちのデータです」
フェンリルは、すっと目を細めた。
「なんで、そんなもんを?」
「この国の人々が感染しているウイルスの約八割は、あなたの完全抗体と合致する型のものです。しかし、それ以外の者たちは、アメリカの李詩夏、フランスのフレデリック・エトワール、ドイツのハインリッヒ・ミュラーの完全抗体でなければ効果がありません」
長谷川が、自らの持つ記録媒体に視線を落とす。
「……あなただけでは、この国の人類すべては救えない。だから僕は、ずっとより精度の高い阻害剤の研究を続けていました。その研究データも、この中です」
けれど、と長谷川は顔を上げた。
「アメリカ・フランス・ドイツから、それぞれの完全抗体サンプルを取り寄せることができれば、阻害剤は本当に必要なくなります。そして、あなたの完全抗体でなければ救えない人間も、世界中に数えきれないほどにいるんです。――フェンリル」
フェンリルが、不思議そうに長谷川を見返す。
「おまえ……そんだけまっとうにものを考えられんのに、なんで『竜宮』に入ってたんだ?」
長谷川は、ふっと視線を逸らした。
「当時ハマっていたアイドルが、『竜宮』入りすると言われたもので」
フェンリルが半目になって長谷川を見る。
「……会えたか? そのアイドル」
「会えたことは、会えたのですが……。女性の化粧と映像処理技術のすごさを、しみじみと実感しました」
そうか、と重々しくうなずいたフェンリルを、夜刀が見上げた。
「フェンリル。詳しいお話は、渡部海佐と会ってからにしませんか? 海佐から、あなたにお話があるようです。ああ、それから」
インカムからの連絡を聞き取った夜刀が、にこりと笑う。
「先ほど、『ワダツミ』と『竜宮』の連結ブロックが自爆したそうですよ」
へぇ、とフェンリルが目を瞠る。
「そりゃあ、楽しそうな話だ。――どうした? ウラシマ」
「ウラシマではありません、長谷川です……って、じじじ、自爆ー!?」
長谷川が、思いきり声をひっくり返す。
そんな彼には構わず、夜刀はさっさと歩き出した。
夜刀の隣に並び、フェンリルは笑い含みの低く抑えた声で口を開く。
「随分、いいタイミングだな?」
「どうでしょうね。案外、本当に自爆したのかもしれませんよ。『竜宮』にとって、我々は立派な侵入者だったのですから。脅威を感じたあちらが連結ブロックを自爆させても、何も不思議はありません」
フェンリルが苦笑する。
「渡部のおっさんは、『竜宮』のお守りに随分うんざりしているようだったが?」
「それはまぁ……。『ワダツミ』に防衛システムエリア外でのハルファス運用を禁じたのは、『竜宮』と癒着した海上自衛隊の上層部ですから」
夜刀は、軽く肩を竦めた。
「あなたは尾木代表をゴミ虫と言いましたが、『竜宮』にはゴミ虫以下の物好きもいたんです。ハルファスは、総じて見目のいい者が多いですから。ネフィリム討伐に使わないのなら、愛玩用に何体か寄越せという要請が、渡部海佐に何度も来ていたようですよ」
「……へぇ?」
フェンリルの足下が、パキパキと音を立てて凍りついた。
彼らの後ろをよたよたと歩いていた長谷川が、足を滑らせて見事にすっ転ぶ。
フェンリルが、絶対零度の声で問う。
「それで? 渡部のおっさんはなんて答えたんだ?」
「さて、そこまでは。ですが、『ワダツミ』所属のハルファスが『竜宮』に派遣されたことは、今まで一度もありません」
当たり前だ、とフェンリルが唸る。
「なーにーがー『竜宮』だ、変態クソ虫の巣じゃねーか。……ちっ、やっぱ丸ごと焼き払ってくるべきだったか」
「済んだことですよ。まぁ、せっかくですので、ちょっとした意趣返しはさせていただきましたが」
どういうことだ、と視線で問うフェンリルに、夜刀は軽く右腕の装備を持ち上げた。
「これで、あそこにあった残りの非常脱出艇のハッチを、すべて破壊してきました」
一瞬目を丸くしたフェンリルが、小さく噴き出す。
気密性が何より重要な潜水艇がハッチを破壊されては、もう使用は不可能だろう。
「そうだったのか。全然気づかなかった。仕事速すぎだろ、おまえ」
「脱出艇なんて、ほかのポイントにいくらでもあるんでしょうけどね」
地味ないやがらせでした、と笑う夜刀に、背後からぎこちなく声がかかる。
「あのう……。『竜宮』の非常脱出艇は、居住ブロックの――僕らが使ったあのポイントにしか、用意されていないです、よ?」
フェンリルと夜刀が、足を止めた。
同時に振り返って、痛そうに腰を押さえている長谷川を見る。
眉を寄せたフェンリルが、ぼそっと口を開く。
「あれだけの規模のシェルターで、非常脱出艇が一カ所にしか用意されてねぇって?」
「はぁ。僕も、不思議だったのですけれど。どうも、外部からの進入路となりえる部分を極力少なくしたかったようなんです。それに、ほかのブロックはすべて、居住ブロックよりもずっと地中深くにありますから……。設計上の問題もあったのかもしれませんね」
なるほどな、とフェンリルはうなずいた。
「つまり、なんだ。『ワダツミ』との連結ブロックが自爆して、非常脱出艇が全部なくなった以上、もう『竜宮』からゴミ虫クソ虫がわいて出てくる手段はねぇ、ってことか」
「それはどうでしょう? VIP階級用に、一般公開されていない非常脱出艇ポイントがあるのではないでしょうか」
夜刀の推測を、長谷川があっさりと否定する。
「あ、それはないです。『竜宮』のメインコンピュータとサブコンピュータ三基全部に侵入して確かめましたから」
フェンリルと夜刀は、じっと長谷川を見た。
長谷川は、他愛ない世間話のようにけろりと言う。
「僕、ハッキングは得意なんです。世界各国の『適合者』のデータを管理しているコンピュータに比べれば、『竜宮』のメインコンピュータはだいぶ素直でしたよ」
フェンリルは、軽く眉間を揉んだ。
「……うん。要するに、『竜宮』は完全に孤立したってことでいいんだな?」
「そうなりますね。……うわぁ、想像したらぞわっとしました!」
いくら自給自足システムが完備されているとはいえ、海底のシェルターから地上に出る手段がまったくない状況というのは――
「よし。あんまり渡部のオッサンを待たせるのもなんだしな。さっさと行くぞ」
「はい」
フェンリルと夜刀は、しょせん自業自得の他人事だと、さっさと頭を切り換えた。
長谷川は青ざめながらも、さすがに開き直るしかないと思ったのか、黙って歩き出す。
目に入るすべてに繊細な美意識をこめられた『竜宮』と比べると、『ワダツミ』本部の建物はいっそ殺風景といえるほどにシンプルなつくりをしている。
打ちっ放しのコンクリートの壁を抜け、さすがにここばかりは重厚な雰囲気の渡部の執務室に辿り着く。
「戻ったぞー。六花、冬騎。いい子にしてたか?」
その扉をノックもなしに開いたフェンリルが呼びかけると、渡部の執務机の両側で彼のパソコン画面をのぞきこんでいたふたりが、ぱっと顔を上げる。
「はい、フェンリル」
「……ああ」
六花はすぐに敬礼を返したが、冬騎は曖昧にうなずくだけだ。
彼のブルーグリーンの瞳に『拓己はまだ戻らないのか』という失望を見てとったフェンリルが、小さく苦笑する。
「冬騎。この体は、俺のもんでもあるんだぞ。大事に使ってやるから、んな顔すんなって」
冬騎は、苛立たしげに目を細めた。
「当たり前のことで威張るな。――おまえ、なんだってそのひょろ長い眼鏡を連れてきた?」
『ひょろ長い眼鏡』と言われた長谷川が、不機嫌さを隠そうともしない冬騎の視線に気圧され、後ずさる。
フェンリルは、楽しげに笑いながら答えた。
「『竜宮』の連中が悔しがる顔を指さして、ザマァって高笑いするために決まってんだろー? 阻害剤を処方できる研究員をかっさらってくるのが、あいつらにとって一番確実なダメージになるだろうからな。『竜宮』に残った連中が過労でぶっ倒れようが、俺の知ったことじゃねぇしー」
冬騎が小さくため息をつく。
「……ほんっと、性格悪いな。おまえ」
「可愛いのは、拓己だけで充分だろうが。俺は、やりたいことをやりたいようにやるんだよ」
フェンリルが偉そうに腕組みをする。
冬騎はちっと舌打ちした。
一拍置いて、長谷川が「はぁあー!?」と悲鳴を上げる。
「あなた、そんな理由で僕らを勧誘したんですか!? ネフィリムと戦えだの、研究者の誇りだのと偉そうに言っておいて、『竜宮』へのいやがらせが目的だったんですか!」
「なんだよ、うるせぇな。文句があるなら、とっとと『竜宮』に戻りゃいいだろ」
めんどうそうにひらひらと手を振るフェンリルに、長谷川がくわっと噛みつく。
「戻れないことを知っていて、そんなことを言いますかね! あぁもう、結果に文句はありませんが、あまりの理由のしょぼさにちょっぴり目眩がしただけです!」
「しょぼい言うな!」
フェンリルがむきになって言い返したとき、とん、と彼らの注意を引く音が響いた。
「……長谷川広也くん」
それまでずっと無視されていたこの部屋の主が、静かな声で口を開く。
びしっと凍りついた長谷川が、おそるおそる彼を見た。
先ほどの音は、渡部が指先で机を叩いた音だったようだ。
「ちょうど、あちらと通信が繋がっているところなのだが。話をするかね?」
連結ブロックの自爆後は、竜宮は外部からのアクセスを一切受け付けないとのことだったが、あちらから『ワダツミ』にアクセスするのは問題ないらしい。
長谷川は、強張った顔をぎくしゃくと振った。
「結構、です。もう……彼らと話すことは、ありませんから」
そうか、とうなずいた渡部がパソコン画面に視線を戻す。
キーボードを叩いて、『竜宮』との会話を再開する。
「――お待たせしました。しかし、そんなことを言われても困りますな。連結ブロックを設計した技術者は、そちらにいるのでしょう? まずは再建計画をそちらで立てていただかなくては、我々には手の打ちようがありません」
淡々とした口調で話す渡部の執務机から離れた六花が、冷ややかな目で長谷川を眺めた。
フェンリルを見上げ、口を開く。
「心配しました。あなた方が『竜宮』から戻る前に、連結ブロックが自爆してしまいましたので」
へぇ、とフェンリルが小さく笑う。
「あんまりタイミングがよすぎるから、渡部のオッサンがなんかしたのかと思ったぞ」
「はい。渡部海佐は、おふたりが戻り次第連結ブロックを爆破する手はずを整えていました。その作業員が二名、危うく警告アナウンスなしの自爆に巻きこまれるところでしたが、ぎりぎりで退避できたようです」
六花は、『竜宮』との通話を続けている渡部をちらりと見て声を低めた。
「海佐は作業員の無事を確認した直後、フェンリルと夜刀が戻ったら、『竜宮』に残存する魚雷をすべてぶつけちゃってもいいかな、とつぶやいていました。本気だったかどうかはわかりませんが、目が虚ろで少々気持ち悪かったです」
「わーお」
フェンリルが棒読みで答えながら、渡部を見る。
夜刀は、自分が思っていたよりもストレスを溜めこんでいたらしい上官に、そっと両手を合わせた。
六花がひとつ深呼吸をして続ける。
「『竜宮』からの非常脱出艇射出シグナルを確認した直後に、今海佐が話をしている、あちらの副代表だと名乗る人間から連絡が入りました。尾木代表と准海尉の様子から、フェンリルたちを『竜宮』への侵入者と判断したようです。渡部海佐の管理不行き届きをひとしきり責め立てたのち、損害賠償と連結ブロックの再建を求めてきたのですが……」
言葉を濁した彼女は、再び渡部を見た。
「だから、何度も申し上げているではありませんか。彼は確かに見た目は二十歳前後の青年ですが、中身はまだ九歳の子どもなのです。は? 九歳の子どもに、いい年をした大人を丁重に抱きかかえて運べとでも? ――ええ、拓己くんは、尾木代表に来いと言われたからそちらへ行っただけなのですよ。ひとりではいやだというので、私の判断で部下を護衛につけさせていただきましたがね。そんな子どもが突然銃を突きつけられたら、怖がって逃げ出すに決まっているでしょう」
パソコン画面に向かって語る渡部は、実にイイ笑顔を浮かべている。
「あなた方は、『人類の希望』に銃を向けた。私の部下は、彼を守ってそちらを脱出した。その途中で何があったかは私は存じませんが、明らかに非はそちらにあります。損害を賠償しろと言われても、受けかねますな。――はい? 長谷川くんが彼らに同行したのは、彼の意思でしょう。彼が地上に戻るのを禁じる権利が、あなた方にあるのですか? ……はぁ、こちらの上層部にそうおっしゃりたいのでしたら、お好きにどうぞ。いずれにせよ、あなた方が連結ブロックを自爆させた以上、完全抗体のサンプルを『竜宮』に届けることはできなくなりました。そちらには、立派な阻害剤製造プラントがあるのでしょう? あなた方はどうぞ、海底の楽園で末永くお幸せに暮らしてください。それでは、失礼いたします」
にこやかに通話を切った渡部が、待機画面になった液晶画面をぼーっと眺める。
しばしの沈黙ののち、彼はぐふっと不気味な笑いをこぼした。
「ふ……ふふ、ふふふふふ。こういうときは『言ってやったどー!』と拳を振り上げて宣言するのが、様式美だと思うのだが。さすがにこの年になると、おじさんちょっと恥ずかしい」
フェンリルが自分のことは棚に上げ、半目になってツッコんだ。
「安心しろ。今のおまえは、充分恥ずかしいおっさんだ」
「そうか。それは、恥ずかしいな」
渡部は厳かにうなずいた。
そして、何事もなかったかのようにフェンリルと夜刀を順番に見る。
ほっと息をついて、口を開く。
「まぁ……ふたりとも、無事でよかった。それにしても、よりによって長谷川くんを連れてくるとは、随分えげつないことをしたね」
『はじめてのおつかい』から帰ってきた幼い孫を褒めるような、ほっこりとした笑顔で言われた言葉の意味がわからず、フェンリルと夜刀は顔を見合わせた。
おや、と渡部が首を傾げる。
「なんだ、知らずに連れてきたのか。彼は、『竜宮』の総合健康管理研究棟、ウイルス阻害剤研究開発チームのリーダーだ。『竜宮』の阻害剤製造プラント運用責任者でもある。――きみがいなくなったら、あちらはさぞ大変なことになるんじゃないかい?」
長谷川は、はぁ、と間の抜けた声をこぼした。
「どうでしょう? 阻害剤の製造マニュアルは、すでに確立していましたから……。僕が担当していた住人の処方箋管理が、残ったメンバーに振り分けられると思いますので、多少の負担は増えるかもしれません」
「ほほう。きみは、何名分の処方箋を管理していたんだい?」
笑い含みの問いに、長谷川はあっさりと応じる。
「新しい阻害剤の研究開発も進めていましたので、今担当していたのは百八十二名です」
なるほど、と渡部はうなずいた。
「おそらく『竜宮』は、少数精鋭で優秀な研究員ばかりを連れていったのだろう。ちなみに『ワダツミ』の研究員が管理しているのは、平均して六十名ほどの処方箋だ。……ふむ。やはり、今のうちに『竜宮』は破壊しておくべきかな」
まったく冗談には聞こえない口調で言う渡部に、長谷川が目を丸くする。
「は、破壊って、どうしてです!?」
「きみが今、ここにいるからだ」
渡部の静かな声が、妙にはっきりと響いた。
「きみは、『竜宮』におけるウイルス阻害剤の第一人者だった。そのきみがいなくなれば、いずれ阻害剤の管理に不備が出てくるのは目に見えている。――私は、『竜宮』内部に発症者が出た場合のマニュアルは知らんがね。彼らは、いざそうなったときに、マニュアル通りに対応できる者たちだろうか?」
答えられずに固まったままの長谷川に、渡部は淡々と続ける。
「発症者が一般種だけならば、せいぜい『竜宮』内部の人間が食い尽くされるだけだ。だが、もし中位種、あるいは上位種になる者がいたなら、我々は足下から彼らに食いつかれることになるのだよ」
とん、と渡部の指先が机を叩く。
「もしきみが『竜宮』に戻ると言うのであれば、こちらの潜水艇を出そう。非常脱出艇の射出ポイントを破壊して内部に侵入するのは、おそらく可能なはずだ」
長谷川の膝が、がくがくと震える。
つい先ほど、彼は選択したばかりだ。
フェンリルとともに、地上でネフィリムと戦うと。
だがそれは、『竜宮』に生きる人々の命をすべて切り捨てるのと同義だったのか――
「……おい、ウラシマ。思い上がってんじゃねーぞ。おまえひとりで、『竜宮』の人間全員の命を背負ったつもりか?」
フェンリルが、ひどく不機嫌そうな声で言う。
腕組みをして、くっと唇の端を吊り上げる。
「まぁ、戻りたいなら、勝手に戻れ。おまえの命は、おまえのもんだ。好きに使えばいいさ」
立ち竦む長谷川に淡々と告げ、フェンリルはあきれた顔で渡部を見た。
「性格の悪い中年って、マジでタチがわりぃな」
「あ、ひどいなぁ」
わざとらしく目を瞠った渡部は、さらりと続ける。
「まぁ、私に『竜宮』破壊の権限はないよ。連結ブロックも破壊するつもりではあったが、正直なところ、あちらが自爆させてくれてほっとしている。データの改竄は、いろいろとめんどうだからね」
長谷川の顎が、ぱかっと落ちた。
机の上で指を組んだ渡部は、そんな彼に声をかける。
「安心したかい? 『竜宮』の現実は、私が先ほど言った通りなのだが」
「……っ」
息を呑んだ長谷川に、渡部は告げる。
「きみが戻らなければ、『竜宮』は近い将来必ず滅びる。――しかし、そんなことはこの地上ではさして珍しくもないのだよ」
「え……?」
渡部は苦笑した。
「質量ともに充分な研究員を確保できているシェルターなど、この『ワダツミ』と『ラオデキア』のほかには、霞ヶ関の『アマテラス』と京都の『カグヤ』くらいのものだ。それ以外のシェルターでは、今も多くの研究員たちが心身をぼろぼろにして戦っている。それでもなお、収容者が発症して殺処分せざるをえなかったシェルターは、片手ではきかん」
長谷川の目が、大きく見開かれる。
そんな彼を、渡部は感情の透けない目で見据えた。
「長谷川くん。きみは、人類がネフィリムに食われるという現実を、データ上の数字でしか知らない。私は、この一年を地上の地獄を知らずに過ごしたきみが、これからここで正気を保ったまま生きていけるのか、甚だ疑問に思っている。――『竜宮』が、地上のシェルターと同じ境遇に堕ちることに耐えられないのであれば、今すぐ海底に戻りたまえ」




