『フェンリル』
“人々は、その獣を拝んで言った。
「誰が、この獣に匹敵することができようか。
誰が、それに戦いを挑むことができようか。」”
「……それで? 俺のオニイチャンとオネエチャンをケダモノ呼ばわりしてくれた、このゴミ虫はぁ。竜宮城からやってきましたーって?」
楽しげに、歌うような口調で言いながら、青年はいつの間にか床に頽れていた尾木とその腰巾着を見下ろした。
額に脂汗を滲ませる尾木の肩を軽く蹴り、仰向けになった彼の胸にブーツの踵を載せる。
青年は、そのまま渡部を振り返った。
「なぁ、オッサン。なんなの、このゴミ」
つまらなそうに問う青年に、渡部はごくりと唾を飲み込んで口を開く。
「拓己、くん……?」
掠れた声での呼びかけに、青年はひょいと肩を竦めた。
「拓己くんは、大好きなオニイチャンとオネエチャンにひどいことを言われたショックでお休み中ー。――俺は、フェンリル。おまえたちが望んだ、人類の希望」
それで? と青年は首を傾げる。
「『竜宮』って、なんなの? このゴミ虫の巣ってことでおっけー?」
「拓……いや、フェンリル。説明は、する。だがその前に、尾木代表を離してくれないか。顔色が、尋常ではない。すぐに医療棟に運ばねば――」
渡部の言葉は、ごきん、という鈍い音に遮られた。
青年が無造作に、尾木の肩関節を踏み抜いたのだ。
しかし尾木は、その衝撃にわずかに吐息をもらしただけで、苦痛の声を上げるでもない。
虚ろな目で、ぼんやりと宙を見ている。
あまりに異常な光景に周囲が息を呑む中、青年は苛立たしげに口を開く。
「オッサンさぁ。自分の立場、わかってる? このゴミ虫は、俺の仲間を侮辱した。それを庇うっつーなら、おまえも同罪。生きる価値なーし。あ、言っとくけど俺、あんまり気ィ長い方じゃねぇから」
渡部は青ざめ、うなずいた。
「……わ、かった。説明する。『竜宮』とは――」
――かつて、すべてが崩壊する以前の資本主義社会では、何をするにもまず金が必要だった。
現在生き残った人類を収容しているシェルター建設、対ネフィリム武器装備の開発、ハルファスの育成。
これらを成し遂げるために必要な予算は、国庫だけではとても賄えるものではなかった。
そのため、ハルファスの最終世代誕生を契機に、この国の上層部は民間の資産家たちに密かに協力を仰いだ。
協力への報酬として提示されたのは、資金提供者の五親等以内の人間すべてに対する、阻害剤の優先提供。
資産家たちからもたらされた潤沢な資金により、人類がこの黄昏を乗り越えるための計画はスムーズに進んでいった。
だが、富裕な特権階級に生まれ育った彼らは、世界が崩壊したのちに訪れる、雑多な他人と混じり合って暮らすシェルター生活を拒絶する。
――なぜ自らの資産を人々のために提供した自分たちが、それを享受するばかりの者たちと同じレベルの生活に甘んじなければならないのか。
――たかだか阻害剤の提供程度で、自分たちの与えた恩恵に報いたつもりか。
彼らは、世界が崩壊したのちもそれまで通りの豊かな生活を続けるべく、独自の計画を実行した。
それが、東京湾海底シェルター『竜宮』建設計画。
海上自衛隊の上層部と密かに通じ、横須賀基地をベースに建設中だった『ワダツミ』と連結可能な、考え得る限りの贅を尽くした理想郷。
ネフィリム対策研究室に所属する研究員たちを買収し、阻害剤の製造プラントまで完備した『竜宮』には、自給自足システムはもちろんのこと、ありとあらゆる娯楽施設や嗜好品が揃えられた。
そこに暮らす人々は、今も以前と変わらぬ華やかな衣服と装飾品を身にまとい、自ら選んだ使用人たちに傅かれ、愛玩動物を愛でている。
外の世界でどれほど血が流れようとも、彼らの世界だけは決して何にも穢されることなく、美しいまま存在し続けるだろう。
「――『竜宮』に集う人々は、世界中の上層部に太い人脈を持っている。人類がすべてのネフィリムを駆逐したとき、彼らを中心に復興の道を歩んでいけるだろう。新たな世界で人々が手を取り合って生きていくために、揺るぎない指導者というのは……どうしても、必要なのだ」
そう話を締めくくった渡部を、青年はじっと見つめていた。
一度、足下に転がる尾木に視線を落とし、それから再び渡部を見た彼は、小さく苦笑を浮かべる。
「それ、本気で言ってる? いつ人類がネフィリムに食い尽くされるかわかんねぇ状況で、そんな先のことを考えてる余裕なんて、おまえらにあると思ってんの?」
渡部は、ぐっと奥歯を噛んだ。
上層部から押しつけられたばかげた建前など、誰が信じているものか。
だが、組織において上からの命令は絶対だ。
その規律を失っては、組織そのものが根底から瓦解してしまいかねない。
自ら人類の希望を名乗った青年は、心底あきれたように言う。
「大体さぁ、連中が『ヒトビトのために提供しましたー』っつってる金なんて、もうただの紙切れじゃねーか。いずれ必ずゴミになるとわかってるモンを財布から出して、それのどこがありがたい恩恵だってんだ? 世界中の上層部との強いパイプ? 新しい世界の指導者? 自分たちが血まみれになって戦ってる間、安全な場所でぬくぬく暮らしてただけの連中に、喜んで従う人間なんているわけねーだろ。どんだけおめでたいアタマしてんだよ」
渡部は、ふっと息をついた。
「喜んで従う者はいなくとも、『そういうものか』と流されたり、彼らの自信に満ちた態度に縋って、自ら思考することを放棄する者ならば、いくらでもいるだろうね」
人類がコミュニティーを作る生き物である以上、リーダーを求める心理は必ず働く。
彼らについていけば、彼らと同じ豊かな生活を手に入れられるという夢想は、人々を従えるためには非常に有効なエサとなりえるはずだ。
そう言うと、青年は薄く笑った。
「だから、おまえは『竜宮』を守っているのか。この『ワダツミ』に閉じこもって、人類を喰らうネフィリムを野放しにして。それって、楽しい?」
「それが、私の任務だ」
任務ね、と青年はつぶやく。
「その任務がなくなれば、おまえはネフィリムと戦うか?」
「……どういう意味かね」
眉根を寄せた渡部に、青年は告げた。
「俺は、人類のために戦っている仲間を侮辱したゴミ虫を、人類の指導者とは認めない。――選べ。おまえの言う未来の人類のために、『竜宮』を守って俺と戦うか。今、この世界で生きている人類のために、ネフィリムたちと戦うか」
はく、と渡部の口が無意味に開閉する。
そんな彼を見つめた青年は、右手の指を三本立てた。
「さん。にい。いち。ハイ、時間切れー。……言ったよな? 俺は、気が長い方じゃねぇ、って」
さらりと言って、握り込んだ指をぱっと開く。
青年は、床に転がっている尾木と准海尉の襟首を掴んだ。
平均的な成人男性よりも遙かに立派な体を、まるでわら人形のように易々と引き上げて夜刀を見た。
「夜刀。『竜宮』の行き方は知ってるか?」
「このフロアから連結ブロックへの直通エレベータがあります。『竜宮』の居住者IDが必要ですが、その男たちの所持しているIDカードで問題なく開くでしょう」
そうか、とうなずいた青年は、ひどく複雑な表情をしている『ラオデキア』の『ヴォルフ』たちを振り返る。
「おまえたちは、ここで待機。渡部のオッサンがおかしな動きをしたら、殺せ」
「はい」
六花は即応したが、冬騎は苦しげに顔を歪ませた。
「おまえ、は……本当に、拓己じゃないのか……?」
青年は、ゆっくりと首を振る。
「冬騎。俺は、拓己じゃない。おまえの可愛い子どもは、そんなに強くないんだよ」
「……どういう、意味だ」
冬騎の声が、震えた。
瞬きもせず青年を見つめる彼に、青年は静かに告げる。
「なぁ、冬騎。世界中の『適合者』たちが全員壊れちまってるのに、どうして一番ガキのこいつだけがまともでいられたと思う? ――心が完全に壊れる前に、壊れかけたところをどんどん切り離していったからだよ。『こんなに怖い思いをしてるのは自分じゃない。こんなに痛い思いをしているのは自分じゃない』ってな」
そのとき、ひゅっと息を呑んだのは誰だったのか。
青年は、淡々と続ける。
「俺はたぶん、拓己がこの世界で生きていくために切り離した、壊れかけた心のかけらでできている。曖昧でばらばらだったかけらをまとめて『俺』というカタチにしたのは、おまえたちだよ」
望んだだろう? と笑って。
「どんなときでもネフィリムと臆せず戦う、力強く成長した人類の希望を。そのために、泣いてばかりの子どもにネフィリムとの戦い方を教え続けたんだろう。おまえたちが『フェンリル』という名前で呼んだ瞬間、『俺』は生まれた。それからずっと、俺は拓己の中ですべてを見ていた」
「……拓己……は?」
冬騎の声が、一層低く掠れた。
青年は困ったように首を傾げる。
「拓己みたいな人見知りのガキにとって、偉そうに威張りくさったオッサンってのは天敵みてーなモンだからなぁ。コイツにおまえらがいじめられてるのを見て、パニくって呼んじまったんだろう。『誰でもいいから、オニイチャンたちを助けて』ってな。そのせいで、俺がこうして出てくる羽目になったわけだが……。ま、そのうち落ち着いたら、目ぇ覚ますんじゃねーの?」
あっさりと返された言葉に、冬騎はぱっと顔を上げた。
青年に詰め寄り、掴みかからんばかりの勢いで問いかける。
「拓己は、消えたわけじゃないんだな!?」
「ナイナイ。今は、泣き疲れて眠ってるよ。おまえらをけだもの呼ばわりされたのが、よっぽどショックだったんだろ」
冬騎が、壮絶な殺意を込めた眼差しで尾木を見た。
青年はひょいと首を傾げて、尾木の体を彼の前にぶら下げる。
「殺すか?」
相変わらず、尾木はぼんやりと虚ろな目を開いたままだ。
冬騎は顔をしかめて青年を見上げた。
「おまえ……こいつに、何をした?」
「別に、軽く二、三度体温を下げてやっただけ。さくっと凍らせちまおうかとも思ったんだけどな。人殺しは、おまえがいやがりそうだったから」
は、と間の抜けた声をこぼして瞬きした冬騎に、青年はにやりと笑う。
「なーんてな。俺は、おまえの可愛い拓己じゃない。こんなムカつくヤツを簡単に殺してやるほど、優しくねぇの」
そう言って、青年は歩き出した。
ふと振り返って、冬騎に言う。
「あぁ、そうだ。おまえが人間を殺したら、拓己は泣くぞ。それがいやなら、いい子で待ってろ。――行くぞ、夜刀」
「はい」
当然のように夜刀を従えた青年が出ていくと、渡部がどっと応接セットのソファに座りこんだ。
ふたりの研究員は、とうに床にへたりこんでいる。
渡部が低くうめいた。
「……『ラオデキア』の。彼は……一体、なんなのかね」
問われた六花は、淡々と応える。
「彼が、ご自身で言っていたではありませんか。――自分はフェンリル。わたしたちが望んだ、人類の希望だと」
「人類の……希望」
乾いた声でつぶやいた渡部に、六花は続ける。
「非常に残念です、渡部海佐。どうやら、わたしたちの守るべき人類と、あなた方が守るべき人類は、まったく違う存在のようですね」
渡部は苦笑して顔を上げた。
「失望したかね。――私を、殺すか?」
「あなたがフェンリルへの敵対行動を取れば、すぐにでも」
なるほど、とうなずいた渡部は、開かれたままの扉に目を向ける。
……もう、何度『竜宮』の安全確保というばかげた任務から外れたいと願ったかなど、覚えていない。
多くのハルファスたちを『ワダツミ』に閉じ込め、夜刀から空を奪い、ただ無為に彼らの時間を潰していくしかできない自分自身に一体何度歯がみしたか。
はぁ、と息をついて研究員たちを見る。
再び六花を見上げ、静かに問う。
「彼らに、完全抗体の培養に入らせてもかまわないかね?」
「もちろん、どうぞ。我々は、そのためにここに来たのですから」
我に返った研究者たちが、表情を引き締めて立ち上がる。
彼らとて、完全抗体の存在を聞いて歓喜の涙を流した者たちだ。
この国に生きる人類すべてを、発症の恐怖から解放する。
そんな夢のような計画の一助となれれば、どれほど誇らしいだろう。
完全抗体サンプルを抱えた研究者たちが出ていくと、六花はくすりと笑った。
「これで、何をしようと彼らを巻きこむ心配はなくなりました。あなたの本心を聞かせていただけますか? 渡部海佐」
渡部は少し考え、ゆっくりと口を開く。
「……『竜宮』を、『ワダツミ』から切り離す」
六花と冬騎が、わずかに目を瞠った。
「『ワダツミ』と『竜宮』の連結ブロックには、非常時に備えて自爆装置が仕掛けられている。本来、『ワダツミ』が落ちた場合にネフィリムの侵入を阻止するためのものだがね。連結ブロックの自爆後は、『竜宮』のメインコンピュータが地上の安全確認を宣言するまで、こちらからのアクセスを一切受け付けなくなる」
冬騎が皮肉げに唇の端を吊り上げる。
「外の連中が、間違っても『竜宮』に逃げこんできたりしないように、ってか。そこまで徹底してりゃあ、立派なもんだ」
そうだな、と渡部はうなずく。
「連結ブロックの自爆装置は、『ワダツミ』内部のセンサーがネフィリム反応を感知すると起動するよう設定されている。だが、それも人間が作ったものだ。少々誤作動を起こしたとて、なんら不思議はないだろう。……『竜宮』の自給自足システムは優秀だ。この世の終わりまで金持ちは金持ちらしく、金持ちケンカせずを貫いてもらおうではないか。パンでもお菓子でも好きなだけ食いまくり、みんな仲よくぶくぶく肥え太っていればいい。ちなみに私は、マリー・アントワネットが『パンがなければお菓子を食べればいいじゃない』と言ったのが、後世の者たちによる捏造だと知っている。よって、その点についてのツッコミは控えてもらおう」
据わりきった声と目つきで言い連ねた渡部に、六花と冬騎が顔を見合わせる。
少しためらうようにしてから、六花がおそるおそる口を開いた。
「その……渡部海佐」
「何かね」
「……ひょっとして、相当お疲れでいらっしゃいますか?」
渡部は膝の上に肘を載せ、組んだ両手に顎を当てた格好で、ふふ、と笑う。
『ヴォルフ』の子どもたちが、どん引きした顔で渡部を見る。
「開き直った中年というのは、ときに若者には想像もできない弾け方をするものなのだよ。覚えておきたまえ」
「……イエス、サー」
うむ、と渡部はうなずいた。
「フェンリルと夜刀が戻ったら、連結ブロックを破壊する。あとのことは知らん。おじさん、寝る」




