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『ワダツミ』到着

“煙の中から、蝗が這い出て地上に現れた。

その蝗は生ある限り、人々を害することを許された。”






「……おはよぉ、冬騎お兄ちゃん」

「おはよう、拓己。ホラ、水だ。飲んどけ」


 ぼんやりと瞬きをした拓己は、ここはどこだっけ、と思いながら周囲を見回した。

 体を揺らす振動と、エンジン音。目の細かい頑丈な格子で覆われた、小さな窓。


 ――そうだ。

 自分は今、姉の沙弥がいるかもしれない『ワダツミ』というシェルターに向かっているのだった。


 冬騎に差し出された水筒を受け取り、冷たすぎない水で少しずつ喉を潤す。


「あと、どれくらいで『ワダツミ』に着くのかな?」

「予定ルートは、順調に消化してる。このまま何もなければ、今日の昼には到着だ」


 そっか、と拓己は笑った。


 あの日――世界のすべてが変わったときから、冬騎はいつでも拓己のそばにいてくれる。

 家が壊れて、沙弥がひどいけがをして、恐ろしい化け物に襲われて、拓己は何もわからなくなった。


 それからのことは、あまりはっきりと拓己の中に残っていない。

 早く沙弥を迎えにいかなくちゃと焦るばかりで――たくさん痛い思いをしたことや、たくさん怖い思いをしたのはなんとなく覚えている。

 けれど、その間のことはすべて、風邪を引いて熱にうかされたときのように遠い記憶の底に霞んでいた。


 ただ、どんなに辛いときにも冬騎がそばにいてくれたことだけは覚えている。

 泣きそうな顔で自分を見ながら、何度も大丈夫だと励ましてくれた。ずっと、手を握っていてくれた。


 曖昧な眠りと覚醒を繰り返したあと、自分の体がひどく大きくなったことは理解している。

 そして、今の自分に何ができるのかも。

 少しも戸惑わなかったわけではない。

 しかし、拓己にとってそんな自分自身の変化は些細なことだった。


 ――早く、沙弥を迎えにいきたい。


 そう思ったけれど、自分の体はなかなか上手く動いてくれなくて、もどかしくて堪らなかった。

 焦れては泣いて、夜に眠っては恐ろしい夢を見て泣きじゃくる拓己を、冬騎はそのたび抱きしめて大丈夫だと言ってくれた。

 彼の声を聞き、体温を感じながら落ちる眠りは、不思議と怖くなかった。


 優しくて、あったかくて、なんだか安心できるにおいがする。

 沙弥とは違うにおいだし、与えられる抱擁も全然柔らかくはなかったけれど、彼の体温は心地いい。

 父親との触れ合いを知らず、年上の男性と親しく接する機会があまりなかった拓己は、彼に頭を撫でられるたび『お兄ちゃんがいたら、こんな感じかな』と嬉しくなって、ほっとした。


 どんなに怖い夢を見ても、冬騎が「大丈夫だ」と言ってくれるだけで心は凪いだ。

 ずっと、守ってくれた。

 ずっと、そばにいてくれた。


 ようやく自分の力を使いこなせるようになったとき、拓己はごく自然に『これからは、自分が冬騎を守ろう』と思った。

 だって、冬騎は優しいから。

 こんなに優しくしてくれる彼が、沙弥のように自分のそばからいなくなってしまうのはいやだった。


 沙弥を迎えにいくための力が、欲しいと思った。

 彼女を傷つけた化け物を倒せるだけの力が、どうしても欲しかった。

 心の底から望んで、望んで――けれど、冬騎が励ましてくれなければ、「大丈夫だ」と抱きしめてくれなければ、きっと拓己は途中であきらめていたと思う。

 ひとりでは、きっとこの化け物を倒すための力を手に入れることはできなかった。


 今、拓己はほんの少し願うだけで、恐ろしい化け物を倒すことができる。


 ――死んじゃえ、と。


 そう思うだけで、目に映るすべての化け物は炎に包まれ、あるいは体液をすべて凍てつかせて、きらめく砂に変わっていった。


 不思議と、怖くはなかった。

 この力は化け物を倒すためのもの。

 冬騎がそばにいてくれたから、手に入れられたもの。

 彼が、沙弥を迎えにいくための力を与えてくれた。


 血の繋がった姉の沙弥は――命がけで化け物から庇ってくれた彼女は、拓己にとって誰より大切な存在だ。

 けれど、沙弥と離ればなれになってから、拓己に光を与えてくれたのはいつだって冬騎だった。


 沙弥と、冬騎と。

 彼らさえ無事で笑っていてくれるなら、ほかには何もいらない。


(お姉ちゃんを見つけたら、冬騎お兄ちゃんがお嫁さんにしてくれないかなぁ)


 そうすれば、冬騎はもっとちゃんと自分の『おにいちゃん』になってくれるだろう。

 これからもずっと、自分のそばにいてくれるに違いない。

 沙弥だって、こんなに優しくてかっこいい冬騎に会ったら、絶対好きになるに決まっている。


 ……とはいえ、冬騎が一番仲よくしている六花は、会うたび少し緊張してしまうくらいにきれいな女の子だ。

 六花が雪という意味なのだと知ったときには、雪みたいにきれいだからそういう名前になったのかなぁ、と感心した。

 だから冬騎が六花を選ぶなら、仕方がないとは思うのだが――想像するだけなら、誰にも怒られることはないだろう。


 はじめて見たとき、『これ……トラック?』と首を捻ったくらい大きな車には、たくさんの荷物が積んである。

 崩れ落ちないように固定されたそれらに見下ろされながら目を覚ますたび、少し心臓に悪い心地がした。


 拓己は自分の力を――炎や氷を作る力を、きちんと使いこなせるようになっている。

 少し前までは、びっくりしたり怖い思いをしたりすると、無意識に近くにあるものを燃やしてしまうことがあった。

 そのときのことを覚えているから、今でも目を覚ましたときに見覚えのないものに囲まれていると、一瞬体が強張る。


 けれどもう、拓己の周囲で不用意にものが燃えることはない。

 約束をしたから。


 冬騎が「戦え」と言って許可しない限り、炎も氷も出したりしないと。


 その約束を交わして以来、拓己が無意識に何かを燃やしてしまうことは格段に減った。


 拓己は水筒を冬騎に返し、ふと窓の外を見る。


「どうした? 拓己」


 んん、と拓己は首を傾げた。


「えっと、うまく言えないんだけど。――もしかしたら、お姉ちゃん……『ワダツミ』にはいないのかもしれないね」


 冬騎が一拍置いて、静かに口を開く。


「……なんで、そう思うんだ?」

「んー……。なんか『ラオデキア』にいるときより、お姉ちゃんが遠くなった気がする。夢の中では、いっつもにこにこしてるだけだから、よくわかんないんだけど」


 夢の中で会う沙弥は、いつも拓己を安心させるように笑っていた。

 冬騎と同じように、心配することなど何もないと笑って抱きしめてくれる。


 彼女は夢の中で、ときどき不思議なことを言う。

 拓己とこつんと額を合わせて『大丈夫。あなたは、眠っていなさい』と、優しい声で繰り返すのだ。

 夢の中なのだからもう眠っているのに、ヘンなことを言うなぁ、とそのたび拓己は笑った。


 冬騎の手が、くしゃりと髪を撫でてくる。


「まぁ……。せっかく、ここまで来たんだ。とりあえず、『ワダツミ』に行ってみよう。それで、本当に沙弥ちゃんがいないことを確かめられたら、少し休ませてもらってから『ラオデキア』に戻ろうな。ぶっちゃけ、片道分の食いもんと水しか持ってきてねぇから、今から引き返しても途中で飢え死になんだわ」


 苦笑まじりに言われて、拓己はへにょりと眉を下げた。


「飢え死には、やだ」

「うん。オレもやだ」


 冬騎に頭を撫でられるのは、やっぱり気持ちがいい。

 自分が飼い猫だったら、ゴロゴロと喉を鳴らしていたかもしれないな、と思う。


「あのね、冬騎お兄ちゃん。ぼく、冬騎お兄ちゃんがいてくれたから、今までがんばってこられたんだよ」

「……うん。よく、がんばったな」


 冬騎に褒められるのは、嬉しい。

 拓己は、にこにこと笑った。


「がんばるから。がんばって、化け物を全部やっつけて、お姉ちゃんを見つけたら……そしたら、みんなで一緒に遊びにいこう?」

「……遊び?」


 不思議そうな顔をした冬騎に、拓己はうなずく。


「うん。遊園地――は、壊れちゃったかなぁ。でも、山でキャンプとか、海水浴とか。きっと、楽しいよ」


 冬騎は、少し困った顔をした。


「海なら、これから行く『ワダツミ』からも見えると思うぞ?」


 拓己はぷぅ、と頬を膨らませる。


「そうじゃないー。みんなで泳いだり、潮干狩りして遊ぶの!」

「シオヒガリ……? あー……、と。――砂浜に棲息している食用の貝類を掘り出す遊興行為、で合ってるか?」


 自信なさげに言われて、拓己はきょとんとした。


「冬騎お兄ちゃん。潮干狩り、したことないの?」

「実は、海を見るのも今回がはじめてだ」


 あっさりと、冬騎は言う。

 そういえば『ラオデキア』から海は見えなかったな、と拓己はうなずく。


「そっかー。楽しいよ? 潮干狩り。だから、絶対行こうね。化け物、全部やっつけて」

「……そうだな。化け物を、全部――やっつけられたら」


 冬騎がうなずいてくれたのが嬉しくて、拓己は右手の小指を差し出した。


「じゃあ、約束! 指切り!」

「あ……あぁ?」


 戸惑いがちに出された彼の右手は、指切りをするというのに小指以外の指が握られていない。

 いきなりだからびっくりしたのかな、と思いながら、拓己は彼の小指と自分のそれを絡めた。


「ゆーびきりげんまん、嘘ついたら針千本、飲ーます!」

「え、何それ怖い」


 冬騎が顔を引きつらせる。

 拓己は首を傾げた。


「怖いって、何が?」

「……いや。これは、広く民間に伝わる童歌だったな。深い意味はないんだった」


 何やらぶつぶつとつぶやいていた冬騎が、ふと左目を軽く細める。

 インカムに連絡が入ったときの彼のクセだ。

 どうやら、六花かららしい。


「ああ。大丈夫だ、問題ない。――拓己、化け物の群れが出た。車のスピードを上げて振り切るから、少し揺れるぞ」

「わかった」


 直後、ぐんとスピードが上がったのを感じる。

 化け物が出たならやっつけてしまえばいいのに、なぜ冬騎は自分に「戦え」と言わないのだろう。

 そう思いながら彼の横顔を見たとき、車体が大きく傾いだ。


「わあっ!」

「拓己! ……っ、運転席、何があった!?」


 急に方向転換した車内で、壁に激突しそうになった拓己を抱え込んだ冬騎が、大声でインカムに呼びかける。

 答える六花の声は、天井近くのスピーカーから返ってきた。


『新種のネフィリムが多数出現、現在データベースと照合中。大型の飛行タイプ、おそらく中位種。――外見情報合致、オファニエルタイプと断定。『レオパルト』三名は車上からの狙撃を開始、ロケットランチャーの使用を許可します。『フォーゲル』、『ヴォルフ』の各員は彼らの援護を。『レーヴェ』は追随してきているザピエルタイプの群れを牽制。目的地はすぐそこよ、ドライバーはこのままのスピードを維持して。無理をして倒す必要はないわ。『ワダツミ』の防衛システムエリア内まで、このまま一気に突っ切ります』


 彼女の淡々とした口調での指示が終わるか終わらないかのうちに、頭上で何かがぶつかるような重たい音が響く。

 何事かと目を瞠った拓己に、冬騎が安心させるように言う。


「この車の上に、『レオパルト』の誰かが飛び移ったんだろ。大丈夫だ。飛んでいる化け物は、あいつらが追い払ってくれるから」


 拓己は、しょんぼりと肩を落とした。


「ぼく、化け物があんまり遠いところにいたら、やっつけられない……」

「いいんだよ。おまえにやっつけられない化け物を倒すために、オレたちはいるんだから」


 くしゃくしゃと髪を撫でられ、拓己は素直にうなずきながらも格子越しの空を見上げた。


(ぼくがもっと強い力を持ってたら、冬騎お兄ちゃんのお友達に迷惑かけなくてすんだのかなぁ)


 今、自分たちが向かっている『ワダツミ』に用があるのは、拓己だけだ。

 冬騎たちは、化け物だらけの道中があまりに危険だからと、ひとりでは携帯食料を温めることも上手くできない拓己についてきてくれた。

 申し訳なくて、でもどうしても沙弥が『ワダツミ』にいるかどうかを確かめたくて、彼らの厚意に甘えている。


 青空に、点々と散らばる黒い影。

 徐々に近づいてくるそれは、ひどく不気味な姿をしていた。

 すさまじい速さで空を飛んでいるのに、まるでそれに相応しくない歪な球形をしたそれは、無数の翼の塊のように見える。

 頭部と思しき塊には、歪んだ人間の顔がやはり数えきれないほどについていて、正面にある一際大きなひとつだけが鋭く伸びた牙を備えていた。

 近づいてくるにつれ、白い翼にびっしりと浮かんでいる目玉模様がよく見える。


 恐ろしい、とは思わない。

 ただ、気持ちが悪い。

 あんなものが、自分を――冬騎たちを食らおうと狙ってくるなんて許せない。

 顔をしかめた拓己は、きゅっと唇を噛む。


 ――殺セ。


(……え?)


 拓己は、瞬きをして冬騎を振り返った。


「今、何か言った? 冬騎お兄ちゃん」


 冬騎が不思議そうな顔で見返してくる。


「いや? 何も言っていないぞ」

「そっか。なんか、呼ばれた気がしたんだけど」


 気のせいだったみたい、と拓己は笑う。

 男のひとの声で、自分に命令するようなものだったから、てっきり冬騎が「戦え」と言ったのかと思った。


 小さく息をつけば、頭の上からはひっきりなしに銃声や、それよりもっと重く激しい炸裂音が響いている。

 それに混じって、冬騎の仲間たちが鋭い口調で何か言い合っているようだ。


 彼らは大丈夫かな、と思ったとき、再びスピーカーから六花の声が響く。


『総員、攻撃停止。――『ワダツミ』から通信。あちらから、迎えが来るそうよ。あとは、彼らに任せま……え?』


 安堵を滲ませた六花の声が、強い驚きを伝えてくる。

 どうしたんだろうと思っていると、窓の向こうに白い翼の塊が落ちてきたのが見えた。

 分厚い羽毛に阻まれ、地上からの狙撃では撃ち落とすことは困難極まりなかった化け物が、また新たに一体地面に激突し、砂となって消えていく。


『……『ワダツミ』の防衛システムエリア内に入ったわ。総員、彼の撤退援護を』


 六花の声とともに車が緩やかに減速し、停車した。

 それと同時に、冬騎が車体後部の扉を開く。

 また銃声が何度か響いたけれど、すぐにやんだ。

 空飛ぶ化け物たちが、何度か上空を旋回してからあきらめたように遠ざかっていく。


 目の前に広がるのは、淡く輝く砂の大地。

 雲一つない、真っ青な空。


 そして――


「……ようこそ、『ワダツミ』へ」


 ――ふわりと砂の上に舞い降りたのは、小柄な青年。

 ちょうど、『フォーゲル』の壮志と同じくらいの体格だろうか。

 小柄でほっそりした体つきなのに、まるで弱々しさを感じさせないところも彼とよく似ている。

 漆黒の髪と白い肌によく映える、頭上に広がる空と同じ色の瞳がきれいだった。


 青年は、両腕にプロテクターというにはかなりものものしい装備をつけていて、腰には彼の体格には不釣り合いなくらいに大きな剣を下げている。

 年は、冬騎たちよりもだいぶ上に見えた。

 彼の鋭い瞳が拓己の姿を捉えた瞬間、ひどく驚いたように大きく見開かれる。


 初対面の相手にこんなふうに凝視されたとき、少々人見知りの拓己はいつも冬騎の背中に隠れていた。

 けれど今は、少し離れたところにいる彼の姿を見るのに忙しくて、それどころではない。


(て……天使? 色は黒いけど、羽根が生えてるのは天使さまだよね?)


 なぜなら、その青年の背中には、彼自身の体をすっぽりと覆えそうなほど巨大な翼が生えているのである。

 彼の髪と同じ漆黒のそれは、地上に降りるとすぐに折りたたまれてしまった。

 けれど、遙かな上空から風をつかまえて降りてきたときの優美な姿は、しっかりと拓己の目に焼き付いている。


 もう一度翼を広げてくれないかな、とどきどきしながら見ていると、青年がふと瞬きをして口を開く。


「失礼いたしました。自分は『キメラ』の夜刀ヤト。『ワダツミ』所属ハルファス部隊を代表し、『ラオデキア』所属フェンリル及び護衛チームのみなさまを歓迎いたします」

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