崩壊した日常
“この言葉を聞いて、それを守る者は幸いである。
時が近いからだ。”
ゲーム開始から十年。
人類は、まだ絶望していなかった。
ゲーム開始から三十年。
人類は、絶望した。
ゲーム開始から五十年。
人類は、新たな希望を見出した。
ゲーム開始から七十年。
人類は、新たな希望の産声を聞いた。
ゲーム開始から八十五年。
人類は、新たな希望を完成させた。
ゲーム開始から九十年。
最後のカウントダウンに向けて、人類の希望を託された子どもたちはその手に武器を持つ。
――3・2・1・0。
カウントダウンが終わったその日。
人類は、敗北した。
***
「いってきまーす!」
幼い少女の元気な声が、朝の柔らかな空気に軽やかに響く。
「待ってー、お姉ちゃん! いってきまぁす!」
慌てた少年の声がそれを追いかける。
「いってらっしゃい、沙弥。拓己。ふたりとも、気をつけてね」
ふんわりと笑う母親に見送られ、ランドセルを背負った子どもたちはいつも通りに家を出た。
明るい日差しが、色とりどりの屋根を輝かせている。
壁の上でくぁあ、とあくびをした猫が、眠そうな顔をして丸くなる。
その猫を触ろうとして背伸びをした弟の頭を、少女は指先で軽くつついた。
「だーめ。猫さんのじゃまをしちゃ」
「うー……」
今年小学六年生になった少女にとって、二年生の弟はまだまだ小さな子どもである。
思春期に入るまでは概して少女の方が成長が早いものだが、彼女は『お姉ちゃん』であることもあり、同い年の友人たちの中でもかなり大人びた方だ。
身長も、クラスでは高い順から数えた方が早い。
ポニーテールがトレードマークの新堂沙弥は、近所でも有名な『いいお姉ちゃん』だ。
ぱっちりと大きな目が印象的で、まだまだ幼いながら将来の美貌を十分に予感させる。
猫に向けて伸ばしていた手を引っ込めた弟の拓己は、ぷぅ、と頬を膨らませながらも、素直に言うことを聞いて歩き出した。
彼にとって、自分よりもずっと大きくて頼りになる姉の言うことは、基本的に黙って従うべきものなのである。
こうして姉弟が並んで歩く距離は、そう長くない。
通学路の途中で、それぞれ同じクラスの友人たちと顔を合わせるまでだ。
あちこちで子どもたちの朝の挨拶が飛び交い、流行のテレビアニメやヒーロー番組、漫画やゲームの話題で盛り上がる。
そんな中、最近彼らの間で最も人気なのが、歴史と伝統を誇る戦隊モノのヒーロー番組だ。
三人のイケメンとふたりの美少女で編成された『ハルファス』というチームが、不思議な武器や特殊能力でさまざまな姿の化け物を倒す姿は、幼い少年たち以外の心もバッチリ鷲掴みにしていた。
彼らは歴代のヒーローチームと異なり、戦闘に入っても独特のコスチュームに変身することはない。
敵の出現により緊急出動がかかれば、ダークグレーに緋色のラインの入った詰め襟ジャケット、頑丈なアーミーブーツにプロテクターを装備して飛び出していく。
制服のやたらとスタイリッシュ(中二的ともいう)なデザインと、それを着こなしているメンバーたちの姿が、若い世代だけでなくその親の世代まで魅了しているのだ。
なんだんかんだ言ったところで、要は『イケメン・美少女は正義』というだけのことかもしれないが。
『ハルファス』の活躍が地上波放映されるのは、日曜の朝だ。
週はじめの今朝、子どもたちの多くが彼らの話題で盛り上がっている。
なんてことのない、いつも通りの平和な日常。
「あ、さとる!」
見慣れた十字路で、拓己はいつも一緒に登校しているクラスメイトの姿を見つけた。
彼に向かって笑顔で駆け出そうとしたとき、なぜか姉の手が拓己の腕を掴んだ。
「お姉ちゃん?」
きょとんとして振り返ろうとした寸前――
すぐ近くを歩いていたサラリーマンの姿が、消えた。
比喩ではなく、なんの前触れもなく突然細かな砂のように崩れ落ちた彼は、身につけていたスーツと鞄を残して消えてしまった。
ほのかに黄色がかった透明な砂が、趣味の悪い冗談のように風に攫われ、散っていく。
何が起こったのかわからないまま、拓己はぎこちなく周囲を見回した。
見慣れた制服姿の高校生、洒落た服装の大学生、足早に歩いていた通勤途中の大人たち。
彼らの体が、見る見るうちに砂の柱となって崩れ落ちる。
あまりに現実離れした光景に、残された子どもたちがただ呆然と立ち尽くしていたとき、突然獰猛な獣じみた咆哮が響き渡った。
びりびりと空気を震わせるそれに子どもたちが振り返った先、ひとりの若いOLが見る間に変貌していく。
明るいアースカラーのスーツが、まるで空気を入れすぎた風船のように弾けた。
それに包まれていた細い体が、すさまじい勢いで膨張する。
ほんの、数秒。
たったそれだけの間に、彼女はまったく別の生き物に変わっていた。
赤黒く爛れたような皮膚、見上げるほどに巨大な体躯。
獣じみて歪んだ四肢から伸びた鋭い爪が、アスファルトの地面を抉る。
頭部に生えるまばらな剛毛の下で、濁ったオレンジ色の瞳がキロリと動く。
「ひ……っ」
女性の変貌を間近に見た子どもが、ひきつった悲鳴を上げてあとずさる。
確かにほんの寸前までは人間の女性だったはずの獣が、その子どもに向かって醜くねじくれた爪を振り上げた瞬間、拓己は温かな腕に抱き込まれた。
「見ちゃダメ!」
引きつって上擦った沙弥の声に、鈍く濡れた音が重なる。
壊れそうに走る心臓の音と、がくがくと震えている体は一体どちらのものなのか。
断続的に響く何かが砕け、千切れる音の中、沙弥は弟の手を掴んで元来た道を駆け出す。
――どこか、安全な場所。
そう考えたとき、彼女は真っ先に自宅を思い浮かべた。
ときどき足をもつれさせる弟を引きずるようにして、自宅までの短い距離を全力で駆け戻る。
「お母さん、おかぁさん……!」
何度も扉を叩き、インターフォンを鳴らしても母が出てくる気配がない。
震える指で貴重品入れから鍵を取り出し、どうにか扉を開く。
弟の体を力任せに家の中へ放り込み、振り返りざま鍵を閉める。
「お……お姉ちゃん……」
玄関にへたり込んだ拓己は、カタカタと震えながら姉を見上げた。
一体、何が。
どうして、こんな。
混乱しきった頭に浮かぶのはそんなことばかりで、しかし沙弥だってその答えなど持っているはずもない。
自宅に――安全な家の中に辿り着いたと思った途端、彼女の中で張り詰めていたものが切れる。
「ふ……ぇえ……っ」
自分たちと同じ年頃の子どもが、突然醜悪な巨獣と化した人間に食い殺された。
そのおぞましく恐ろしい光景を、目の当たりにしたのだ。
小さな弟を守らなければという一心で、どうにかここまで逃げてきたけれど――
「うわああぁああああああん!!」
今になって心を押しつぶさんばかりに込み上げた恐怖に、沙弥は大声を上げて泣き出す。
弟の体を抱きしめ、同じく泣き出した彼と抱き合いながら、涙が涸れるまで泣き続けた。