静かなる街、残されたる希望
twitlongerにて、2020年3月に投稿したもの。
重々しくのしかかる雲は、陰鬱とした街に暗い影を落とす。
普段なら賑やかな大通りも、車はおろか人影の一つも見当たらない。まるで生気の無い世界を、彼女はホテルの窓から見下ろすしかなかった。
こほこほと軽い空咳に振り返れば、幼い少年がベッドからその身を起こしている。寝起きでぼんやりしているのか窓辺に佇むカラスに似たペストマスクに目を丸くしていたが、ゴーグルの奥に見える黄金の瞳と、左目を口に見立てて彫られた赤い唇型の入れ墨でようやく相手が誰か分かったようだ。
「お加減はいかがかしら」
こくりと頷く少年は、頬こそ少し赤みが強いが健康そうに思えた。
それは良かった、と彼女は可愛らしい包みのキャンディを少年に手渡す。
「今日の『魔法のお薬』は何味?」
「さあ、何かしら?」
嬉しそうに口の中でキャンディを転がす少年の姿に、微笑んだ彼女の入れ墨がくすりと微笑む。
「ねえ、魔女さん。僕の『虫』はいついなくなるの? いつまでここにいればいいの?」
急に知らない場所で部屋に一人きりにされ既に二週間は経った。食事も遊ぶもの十分にあるとはいえ、育ち盛りの元気を持て余した少年にはやや退屈だろう。訪ねて来る者と言えば食事を運んでくる給仕と診察と称して朝晩と様子を見に来る白衣の医者、そして数日置きにやって来るこの魔女のような女だけだ。
「ママとパパと、どうして電話でしか話せないの?」
どうして、と不思議がる少年の頭を、手袋越しに優しく撫でる。
「坊やの身体の中にいる、悪さをする虫のことは話したわよね?」
彼女の声に少年は素直に頷く。
「この虫は目に見えない程に小さな虫で、生き物の身体の中でしか暮らせないの。口や鼻から空気と一緒に忍び込んで、栄養を盗んでどんどん増える悪い虫。その虫が増えて悪さをするせいで、咳や熱が出たり、酷いときは上手く息ができなくなってしまうの」
「でも僕、そんなに苦しくはなってないよ? 今は元気だもの!」
少年は微熱があると病院で診察を受けてすぐ、このホテルに閉じ込められてしまった。一晩寝たら熱も治まり、それは風邪をひいた時と同じだとしか思えない分ただただ少年には不思議でならなかった。
「ええ。でも油断をしてはだめ。これがこの虫の怖い所よ」
彼女は声を落としてやや険しい表情をする。
「元気だと思っても実は虫がまだ居ついているかも知れないの。それが、坊やの身体から虫を追い出そうとする咳やくしゃみに乗って誰かへ飛んで行くかも知れない。それは見知らぬ誰かかも知れないし、坊やのママやパパかも知れない。もしも身体の弱っている人が虫に入られると、追い返すこともできずにやられてしまうかもしれないの」
「そんなの嫌だ!」
ぎゅっとしがみ付いてくる少年を、彼女は優しく抱きしめる。
ずっと両親と離されているのだ。幾ら設備の整った部屋だろうが寂しいものは寂しいだろう。
「魔女さんの魔法で、虫をやっつけられないの?」
「ごめんなさいね、まだ退治する魔法は見つかってないの」
でも、とがっくりと落ち込む少年に向かい彼女は言う。
「対処法ならあるわ」
「どうすればいいの?」
すぐにぱっと顔を上げる意思の強い瞳に、彼女は微笑む。
「まず虫を口や鼻から入れないことね。特に食事かしら。どこにいるか分からないから時間をかけて手洗いうがい、手を消毒するのや顔を触らないようにするのもいいわ」
少年はこくこくと何度も頭を縦に振る。
「自分が感染しているかも知れないから、マスクをして虫が周りに飛んで行かないようにすることも。人に虫を染したり染されたりしないように極力出かけないようにすることも大切ね」
「僕がママとパパに会えないのも、そのせい?」
「ええ、寂しいでしょうけど、坊やが我慢してくれているお陰で守られる命もあるのよ」
そうなんだ、と少年は少しだけ誇らしげな表情になる。
「たくさん寝て、肉も魚も野菜も好き嫌いせず食べることもね。もし虫が入ってきても体から追い出す力があがるの」
できるかしら、という彼女の問いかけに、少年は力強く頷く。いい子ね、と撫でる手袋に温もりこそ無いが、少年の表情は自然とほころぶ。
「ねえ、今日はどんな冒険の話をしてくれるの?」
ベッドの少年の傍に椅子を寄せ、彼女は今までの不思議な旅の記憶を紐解き始める。
ホテルのロビーを後にし、相変わらず誰もいない街を彼女は歩く。感染者を増やさない為に人々は外出を控え、自宅に籠っている。既に感染してしまった者も、こうして一所に集められ治療と回復のため隔離されじっと耐えている。
すっかり暗くなった夜道を、街灯と家々から漏れる照明が照らす。
「この灯りこそ、残された希望ね」
まだ諦めるには早すぎる。誰かのため、皆が力を合わせているのだ。
雲医者は流行り病に打ち勝つ薬を作るべく、次の町へと誰もいない道を進むのだった。