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砂原の海、燈火の大樹

 ぎらぎらと肌を焼いた太陽が砂の海へ落ちれば、昼間の暑さが幻だったかのような冷たい夜が訪れる。地の果てまで見渡せる砂漠へと、空が色彩を失っていく。

 仄かに漂う甘い匂いのせいか、余計に感傷的な気持ちになる。周りで作業をしていた人々も、同じ気持ちなのか手を休めて空を眺めていた。


 それにしても、だ。娘は目の前の光景に目を奪われる。

 砂漠の真ん中に鎮座する葉の無い大樹。何千年と生きたであろう立派な幹からは、空を掴もうとするようにたくさんの枝が生えている。地下から水を吸っているのだろうが、オアシスも見当たらないこの場所では場違いに思えて仕方がない。

「そろそろかしら」

 雲医者が呟くと同時に、枝の先端にぽっと小さな橙色の灯りが点く。それをきっかけに枝先が次々と柔らかく輝きはじめ、樹はぼんやりと光りはじめる。

「まるで、夜を照らすためにあるみたい」

「燭台樹という名前のとおりね」

 ほら、と雲医者は娘に何かを手渡してくる。それは、両手に納まるほどの大きなホオズキの実に似た物だった。仄かに温かく、蝋燭の火を思わせる淡く優しい光を放っている。

「寒くなって来たでしょ。お食べなさい」

「貴重な物なのに、私が食べていいんですか?」

驚く娘に、雲医者は頷く。

「世界をこの目で見たいと、私に付いて来たのは貴方でしょ?」

 彼女の左目に彫られた、紅い唇の刺青がくすりと笑う。


 自然の知識を多く有し、生き物だけではなく天候までも治療する流浪の旅人。閉ざされた島で過ごす娘にとって、浮雲のように世界を渡る雲医者は幼いころから憧れ続けた魔法使いのような存在だった。そんな娘の前に現れた雲医者は、褐色の肌に黄金の瞳、左目に唇を模した彫物のある女性だった。

 彼女に故郷から連れ出して貰ってから、娘は多くの世界を知った。今まで本の中でしか見たことがなかった景色、本にすら載っていなかった生き物、旅の中で出会う全てが彼女にとって驚きの連続だった。そして、世間知ら感謝しかなかった。

 手渡されたのは燭台樹の実だった。大きさの割にやけに軽く、まるでランタンのようだ。

 雲医者に促されるまま、すぼまった実の先の皮を爪で破く。途端に、熱気と甘く芳醇な香りがふんわりと漂う。皮の底に当たる部分には、小さな赤い実が仄かに輝いている。

 軽かったのは実がとても小さかったせいだ。香りにつられて口へと放り込めば、じんわりとした温かさと自然の甘味とほんの少しの酸味が染み渡る。

「甘酸っぱくて、身体がぽかぽかしてきました」

「面白いでしょ。砂漠で一夜を過ごす旅人にとって、この実はとても重宝されているの」

甘い香りに誘われ嘴をカチカチ鳴らすハシリガラスに実を与えながら、雲医者は話す。


 暗くなった空とは逆に、樹が灯りを灯すと人々の喧騒が増していく。祭りの直前に似た期待と緊張に似た雰囲気を娘も感じていた。昼間はあんなにも静かで凪いで砂漠に、時折強い風が吹きかさかさと光る果実を騒がせていくのも妙に気に掛かる。

 雲医者様、と壮年の男が一人こちらへ向かってくる。白くゆったりとした服は、砂漠の民らしく日差しから肌を、夜の寒さから体温を守る作りなのだろう。他の人々も似た服装だが、施された刺繍の模様や装飾がそれぞれ違っている。

「この度は雨を遠ざけて下さりありがとうございました。お陰さまで、立派な実を付けまして喜ばしい限りです」

 樹を見ながら満足そうに笑う男は、近隣の村の長だ。数十年に一度しか花を付けない燭台樹を天敵である雨から守るために雲医者を呼ぶのが長の仕事だった。

「貴方様に頼んで本当によかった。花を守るだけでなく、周りの村にまで雨の恵みを与えて下さって感謝ばかりで」

 花を落とさないために、周りの村へ出向いては火を起こし薬で雲の種を産み雨を降らせるのも、雲医者ならではの技術だ。

 怪しい術だと訝しがられ嫌悪されることも多々ある。それでも雨の少ないこの地の者にとって、彼女は悪魔の使いなどではなく救いの神にも等しかった。

「しかし、これからが本番ですわ。失敗すれば私たちの命も危うくなります」

雲医者の言葉に、男も、周囲の者も表情が硬くなる。

「皆、覚悟の上のことです。雲医者様に全てお任せします」

男の言葉に、全員が重々しく頷く。

何が起こるか分からなかったが、これから起こる事の重大さに娘も思わず気を引き締める。


 風が強まり、波の如く吹きつける感覚も徐々に狭まっていく。それでも、実から漂っていた甘く誘うような匂いは消えることなく、むしろ強まっているのが不思議でならない。

「樹が自ら発熱し、遠くまで届くように匂いを発しているのよ」

「どうして燭台樹は、そんなことをするのですか?」

 強風と舞い上がる砂埃に耐えながら娘が問うと、雲医者がすっと空を指さした。


「風を呼ぶためよ」

 樹の灯りに照らされ浮かび上がったのは、燭台樹の数倍はあろうかという巨大な蛾の姿だった。

一際大きく羽ばたいた途端、暴風と共に灯りが宙へと浮かんでいく。

「さあ、火を点けて!!」

 雲医者の合図とともに、眩い閃光と強い薄荷の香りに包みこまれた。それと同時に、大きな地響きと砂埃が起こる。

 蛾が視覚と嗅覚に強い衝撃を受けて墜落したのだ。灯りの消えしんとした砂漠で、蛾が目を回して動けないと分かると暗闇から大きく歓声が沸いた。


「果実は熟れる時に、空気よりも軽いガスを発生させるの。燭台樹の実は皮の内側にガスを溜め込み、風船のように飛んでいくのよ」

 仕事が無事に終わり宴を催す人々を余所に、雲医者は空を眺めていた。見つめる方向には、蛾の羽ばたきにより運ばれた光るホオズキが飛んでいるはずだ。

「強い風で樹から離れ遠くへ種子を飛ばすために、甘い匂いで蛾を呼ぶの」

 ただ、やって来ても餌にありつけない蛾はたまった物ではない。蜜を探し求め砂漠を飛び回るため、砂漠は砂嵐に襲われて作物も住処も駄目になってしまうのだそうだ。

「だから、怒りを落ち着けるために目くらましがひつようだったのよ」

 ようやく落ち着いた蛾は、長たちが用意した燭台樹の果汁を染み込ませた綿に細長い口を伸ばし舌鼓を打っている。

「そんなに危ない樹なら、どうして燃やしてしまわないんでしょうか」

「誰もがこの光景を、残しておきたいと思ったからかもね」

 雲医者に促されて空を見上げれば、飛ばされなかった実が樹から離れ空へと舞い上がる所だった。

 暗闇にふわりと浮かんだ灯りは儚げだが、命の力強さを感じさせるものだった。


<了>

文芸バトルイベント「かきあげ!」第五回大会参加作品

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