苦悩の那津
那津はその足で、政吉のもとに向かっていた。
足音をわざとさせながら廊下を踏みしめ、慌てる侍女を肩で切りながら政吉の部屋の前まで来ると、挨拶も無しに一気に襖を開けた。
「随分騒々しいな。いくら祝杯を上げたとはいえ、それは気持ちの良いものではないぞ」
驚く素振りも無く、書簡に目を通していた顔を上げて静かに否す政吉に、那津は御構い無しにその目前に立った。
「何故、俺にも言ってくれなかったんですか?」
那津が何を言いたいかは、政吉にもすぐに理解できた。やがては知られることだと分かっていたからだ。廊下を破る勢いで響く足音が聞こえたことで、政吉は息を飲んで覚悟を決めた。
政吉は座ったまま、息の荒い那津をしばらく見上げていたが、やがて目の前に座るように促した。そして侍女たちに下がるように言うと、部屋の中は政吉と那津の二人だけになった。
「那津……これは我が家のしきたりなのだ。幼いお前に言ったとして、秘密を守れるとは思えなかった。だが、言うか言わないかは、あの子に任せていた。その言動が、家を左右する事もすべて彼女には伝えてある。お前に伝えなかったのは、誰の命令でもない。彼女自身が考えたことだ」
『あいつが……』
膝の上に握られた那津の拳が震えを止めることはなかった。
そのまま初司田家に居る気にもなれなかった那津は、実家の敷居をまたいだ。
「何かあったのか?」
と両親に問われたが、那津は曖昧な返事をして、まだ荷物が残っている自室に引きこもってしまった。
那津には何も納得が出来ていなかった。あの後、政吉にいくつか質問をぶつけたが、軽くいなされた。暖簾に腕押しとはこういう事かと、深いため息を吐いた。なにより、何故瑠璃の妹は那津に本当の事を伝えていなかったのか。
『信じられていなかったからか……俺はそんなに口の軽い人間だと思われていたというのだな』
那津は、自分が誰かに秘密を漏らすような人物だと思われていたのかと思うと、余計に苛立ちが募るのだった。
政吉は言った。
「夫婦の契りは本物の瑠璃としてもらうが、通常の公務は、妹が今まで通り続ける。だから、会えなくなるわけではない。今まで通りに、仲良くしていれば良い」
そう言う政吉の表情には、詫びも悔いもまるで浮き出てはいなかった。
「はあ……」
那津は大きく息を吐きゴロンと自室の中央に寝転がり、天井を見上げた。どれほどの時間が過ぎていたのか。襖が開き、侍女が夕食の用意が出来たと告げた。
「どうした?浮かない顔をしているようだが?」
まだ若干日が高いにも関わらず、夕食の膳を前に酒を煽る勘三が不思議そうに首をかしげた。横では、母志乃が心配そうに那津の顔色を伺っている。志乃もまた、祝いの席で嬉しそうに顔をほころばせていた。やっと末息子も落ち着くことが嬉しくてたまらなかったのだろう。
勘三が赤らんだ頬を緩ませて尋ねた。
「祝い事があったばかりで、疲れでも出たのか?」
那津は一瞬の間を空け、息を止めたが、気持ちを落ち着かせるように少しだけ背筋を伸ばして姿勢を改めると、微笑んだ。
「ええ……そうかもしれません」
「そうか、無理もない。初めて会う人たちに囲まれて、気疲れもするだろうからな。だが、これからまた忙しくなる。今日は早く休みなさい」
「はい」
『父上も母上も、知っていたのだろうか。だとしたら、ただ一人何も知らない俺は、幼いころからただからかわれていたのだな』
那津は、大きな落胆と共に誰にも相談できずに、解決しない思いを仕舞い込んだ。