息子、矢束
翌年、那津と瑠璃の間に男の子供が産まれた。
名を矢束と名付け、大切に育てていた。
矢束は、幼くしてすでに文字の読み書きを覚え、時折届く商いの書状を、自慢げにカナの部分だけを読み聞かせることも多くなった。その様子を、那津と瑠璃は、目を細めて聞いてやるのだった。
数年経つと、矢束は持ち前の好奇心と人懐こい性格で、だれからも愛される子供となっていた。
ある日、隣村の祭に招待された那津は、瑠璃と矢束を連れて出かけた。
豊作を祝うその祭は、村人総出で盛り上げており、男たちは神輿を担ぎ村を練り歩き、女たちは、男たちの身の回りを世話し、豪華な食事を用意した。自由な子供たちは、神輿の周りを騒がせたり、つまみ食いをして叱られたりと、思い思いに祭に溶け込んだりしていた。
矢束はそんな子供たちに混ざって、小さな体で走り回っていた。
「矢束には、疲れというものは無いのかしら?」
首を傾げて肩を揺らして笑いながら、瑠璃は楽しそうに言った。そんな瑠璃の隣で、那津は酒を煽りながら
「子供は元気が一番だからな。それに、新しく友達も出来るのは、矢束にとっても喜ばしいことだ」
頬を赤らめながら目を細める那津の視線の先には、すっかり子供たちに溶け込む矢束の姿があった。那津は政吉の跡を継ぎ、地主の大名主人となったが、隣近所だけでなく、近隣の町や村との交流を怠らなかった。その様子が、ますます初司田家の信用を深くするものとなっていた。
「父上!」
突然、那津の前に、矢束が息せききって走り込んできた。
「どうした?何かあったのか?」
那津が尋ねると、矢束は動き回りすぎて汗だくの顔を紅潮させながら、嬉しそうに顔を上げた。
「父上、もうすぐ踊りが始まるそうです!一緒に踊りましょう!母上も一緒に!」
小さな手で那津と瑠璃の手を引き、懸命に引っ張る矢束に、二人は顔を見合わせて苦笑し、渋々腰を上げた。
「ですが私は、踊りというものをしたことがありません」
小さな声で那津に言う瑠璃に、
「大丈夫だ。皆の真似をすれば良い」
と、彼は頼り甲斐のある笑顔で返した。
思えば瑠璃は、子供の頃は外に出ることを許されなかった故に、こうして大勢の人たちの中で一緒になって踊るということはしたことが無かったはずだ。蓮に言葉や身振りで教えられたとしても、それはただの想像でしかなかった。そんな瑠璃を、那津は切なく思った。そして、
『昔はこうして、蓮と一緒に踊ったものだ』
と、密かに懐かしんだ。そして澄んだ夏空を見上げ、
『蓮は必ず生きている。だから私たちも、懸命に生きなくては』
と心に言い聞かせた。
蓮の一件があって以来、ふさぎ込みがちだった政吉が、ある日突然屋敷を解放すると言い出した。親のいない子供たちを住まわせ、世話をし出したのだ。幸い、広い屋敷には空き部屋もたくさんあるし、贅沢さえしなければ、毎日の食にも困らない。土地を耕して作った畑の世話も、子供たちに手伝ってもらえば良いことだ。いつしか家は、孤児たちの集まりとなっていた。
「蓮への、罪滅ぼし、ですか?」
庭でチャンバラごっこをする子供たちを眺めながら、縁側に座り茶をすする政吉に、那津は小さな声で尋ねた。政吉はずいっと飲み干すと、はあっとため息を吐いた。そして空を見上げながら遠い目をした。
「私は、一度も悔いたことはない。ただ、幸福というものを勘違いしているだけだ。それは、今も変わらない」
深くしゃがれた声でそうゆっくりと言うと、嘲笑した。
「葉奈に言われたよ。『あなたは娘を守るためだ、とおっしゃいましたが、本当はこの家を守るためだったのでしょう』とね。全くその通りだ。私は娘を犠牲にして、家を守ろうとしただけだった。無意識にそう言っていたのだ……私は悪者で良い。どうせ極楽へは行けぬ」
そうは言っても、隠しきれない寂しげな政吉の横顔を見つめる那津に、頭上から瑠璃の声がした。
「矢束を見ていませんか?」
「矢束がどうしたのだ?」
那津が見上げる前に膝をつき、瑠璃は困惑した顔で子供たちを見回した。
「先ほど少し買い物を頼んだのですが、もう帰ってきてもよい頃なのに、まだ姿が見えないのです」
庭先で遊ぶ子供たちの中にも、矢束の姿はなく、那津と政吉も次第に心配になり腰を浮かせた。ちょうど門をくぐってきた少年に、那津が矢束は見なかったかと聞くと、その少年は青っ鼻をずずっと吸い込みながら言った。
「矢束なら、今、門の向こうで女ともめてるよ」
「なんと?」
那津は驚いて腰を上げ、慌てて門を出ると、少し離れたところで矢束と、歳が同じくらいと見られる少女が、何かを言い争いながら腕を引っ張り合っていた。
「何をしている、矢束?」
きん、と声を張った那津の声に、矢束と少女はビクッと肩を震わせた。振り向いた矢束は、
「少し遊んでいけと言っただけなのです」
と、少し申し訳なさそうに答えた。
「でも、頑なに嫌がるから……」
少女を見る矢束に習って、那津も少女へと視線を移した途端、その表情が強張った。




