三話
『僕は自分のことが嫌いだ
なのに自分自身を守ろうとしてしまう』
~別れ~
僕が中学生になって少し経つと、
両親は離婚した。
母は父のことが心配だから僕だけでも父と暮らしたらどうか
と言ってきたが僕は頷くことが出来なかった。
父が母に残したものと言えば母名義で借りさせた借金くらいだ。
母は父が置いていった借金と兄妹3人を養うため朝晩と一生懸命働いた。
僕も新聞配達をしたりもしたが、生活は苦しいままだった。
離婚した父との最後の繋がりは携帯電話だった。
家の電話は借金のカタに入れられ使えなくなってしまっていた。
携帯電話といっても父は自分で加入することが出来なくなっていたため
母名義なのだが。加入の際は必ず料金は支払うと話していたが案の定直ぐ払われなくなり
連絡も繋がらなくなった。僕はそんな状況に文句を言っている母をみながら
「最初からそうなるとわかっていたじゃないか」と思っていた。
母は毎月毎月携帯の請求が来る度文句をを言い、繋がらない番号にかけつづけた。
そんな母に僕は
「もう解約すればいいじゃないか」と話した。
母は
「解約するともうお父さんと連絡をとる手段がなくなるけどいいの?」と言ったが
僕はそれでもいいと頷いた。
それ以来父とは連絡がとれなくなった。何処にいるのか、生きているのかさえも
わからない。
その時妹はまだ保育園だった。僕は自分の言ったことが正しかったのか今でもよく
考える。まだ小さい妹から父親を奪ってしまったのは僕のせいじゃないのか。
妹が殆ど記憶のない父親に憧れを抱き寂しがる姿を見るたびに申し訳ない気持ちになった。
僕は中学に入って直ぐ一度は部活に入ったのだが結局やめてしまった。
部活道具を買って欲しいと母に話すことが出来なかった。部活道具や自転車がないので
部活が出来ないということを誰にも言えなかったので顧問や部活仲間にはひどく文句を言われた。
結局親が離婚し母が仕事を掛け持ちし始めてからは、妹を保育園に迎えに行かなければ
ならなくなったのでそれならいっそと退部することにした。
妹を迎えに行った保育園では、他の子供たちと一緒に毎日遊び先生とも仲良くなった。
自分は案外こういう仕事がむいているのかと思ったりもした。
両親が離婚してから大きく変わったことがある。家がまるでゴミ屋敷のように汚くなって
しまった。母が多忙で家事をやる暇がなくなったのだ。それなら子供たちが片付ければいいじゃないか
と思うだろう。たしかにその通りだ。最初のうちはそれがうまくいったのだが、
家はどんどん汚くなっていった。
家族は片付けないどころか家をどんどん荒らしていった。
どうやら今でいう「片付けられない症候群」と言うものに母はなってしまったようだった。
そして姉までもそうなってしまった。
終いにはネズミやゴキブリが住みつく始末だ。
僕はこんな部屋じゃ勉強もできない。せめて自分の部屋だけでもと、掃除をし何とかキレイに
すると他の家族が
「すごい!よく片付けたね」と言って。僕の部屋に生活の場を移してきた。
結局僕は自分の部屋を追い出され汚い部屋で1人泣きながら勉強したのを覚えている。
そんな事が毎回のように繰り返された。
ある時は自分の部屋に住みつきゴミを増やしていく姉に嫌気が差し、姉の部屋を大掃除し
片付けたことがあった。結局姉はその部屋をまた汚くし再び僕の部屋に住み着いた。
そんな家に長く住んでいると、自分の身体からは埃がでていて自分のいる場所は普通以上に
埃っぽくなりやすいんじゃないだろうかと感じるようになった。
高校に入ると僕はすぐにアルバイトを始めた。
母が夜働いてる仕事先だ。
僕は母と同じ場所で働くのは嫌だったので
「アルバイト先は自分で決めさせて欲しい」
とお願いしたが一週間後には
「来週から仕事お願いしといたから」
と僕のお願いは無かった事になっていた。
仕事先も僕より十も二十も年上の人ばかりで早く辞めたい
とずっと考えていた。結局高校三年まで働くことになったのだが。
高校では二年の時に進学部に進んだので授業が朝0限目から7限目まであったのだが、
最後までいてはアルバイトに間に合わないので、毎回7限目で学校を抜け出していた。
アルバイトのことは禁止だったので誰にもいえなかった。
中学高校と僕の昼食は毎日パン2個だった。ほんとはもっと食べたかったのだが、
お小遣いという物が無かったので昼食代を少しでも削りたかったし、昼食代をもらえない
事もあったので貯蓄しておく必要があった。
毎朝昼食代を貰いに行く時は緊張した。母の機嫌が悪いときは
「毎朝金ばかり持って行きやがって」とよく怒鳴られた。
貰えないこともあったので怒鳴られるだけならまだましな方だったが。
高校の友人からはよく弁当がないことでからかわれた。
~祖母~