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HONEY MOON

作者: 愛里

たとえば人から愛という感情が無くなったら、人を愛し、喜び、悲しみ、傷つき、怒り、辛抱し……そんな感情が無くなったらどんなに虚しく、そしてどんなに楽だろうか……

僕は最近そんな事を考えて止まない。


「満月ってお菓子みたいじゃない? ほら、甘くて丸いお菓子みたい」

杏は大きな瞳をキラキラ輝かせてよく僕にそう言う。

「お菓子って、どんなお菓子だよ?」

僕の質問に杏は大きな目を更に大きくして考える。

「うーんと……よくわからないけど」

そう言って杏はいつも口籠もる。

大体満月の日なんて毎日あるわけでは無い。

だからたまたま満月の日に、たまたま夜外に出て、たまたま空を見上げ、ぽっかりと浮かぶ大きな満月を見つけると僕は杏の言葉を思い出すことになるのだが、それはたくさんの『たまたま』が重なった低確率の事だった。

別にその事がどうだというわけでは無いのだが、どう目を懲らして見ても僕には満月はお菓子には見えず、無機質な光を放つただの球体にしか見えない。杏に言わせれば、そんな僕は「情緒の欠片も無い人間」らしい。

満月をお菓子に例える事が情緒なのか……それは微妙に違うと思うが僕は何も言わない。

僕は杏のそんな微妙にずれたところが好きなのだ。微妙にずれていて、でもいつも一生懸命で、時々はにかむ様に笑うところが好きなのだ。好きで好きでしょうがないのだ。こんな僕は多分愚かな部類に入る、どうしようもなく愚かな部類に入る男だろう。


「圭ちゃん、明日の午後暇?」

杏は僕のことを圭ちゃんと呼ぶ。本当は圭介というれっきとした名前があるのだが……

「え?明日?別に何もないけど」

僕は講義のテキストをカバンに詰めながら答えた。

「やった、じゃあ決まり。明日一時に迎えに行くから、買い物付き合って」

そう言うと杏は踊るような足取りで教室から出ていった。僕はそんな杏の後ろ姿をぼんやりと、ぼんやりと眺めながらカバンを持ち上げ席を立った。

杏は僕の幼なじみだ。小さな顔に目だけはきょろきょろ大きくて、小さな鼻と小さな口がちょこんと顔にのっている。そんなアンバランスな少女だ。僕の自惚れかもしれないのだが、杏はいつでもどこでも僕の後をついてきた。高校も大学も僕が受験するところを一緒に受けたし、部活もサークルも一緒だった。それほどずっとずっと一緒にいたのに、杏の気持ちは僕には無い。

確かに一緒にいれば長ければ長いほどそれに比例して恋愛感情が芽生える法則なんていうのは無い。

そんなこと、とっくにわかりきっている。わかりきっているのに、それでも僕は時々本当に虚しくなる。全ての感情を脱ぎ捨ててしまいたくなる程、虚しくそして胸を引き裂かれる程悲しくなる。


「あれ、圭介、今帰り?」

教室から出た僕に紀子が話しかけてきた。

「あ、ああ、そうだけど」

うわの空で答える僕を見て、紀子は少々不機嫌な顔になった。

「もう、何でそんなにやる気ないのよ」

頬を膨らませる紀子を尻目に不謹慎にも僕は少し笑ってしまった。

「ごめんごめん、ちょっと考え事してたんだ」

そんな僕を見て、紀子の機嫌は少しだけなおったようで、切れ長の目の目尻を少しだけ下げてにっこりと笑い僕のシャツの袖をひっぱった。

「ねぇ、圭介、今日バイト?もし暇なら飲みに行かない?」

紀子は杏とは全くタイプが違う。切れ長の瞳に長い髪。いつも比較的肌の露出が高い服を着ている。

「ごめん、今日は用事があるんだ」

僕の言葉を聞いて紀子は少し恨みがましそうな顔をした。

「わかった、じゃあ、また誘うわ。じゃあね」

そう言うと手をひらひら振りながら去っていった。


誰かの為に死ねる。

そんな事本当にあるのだろうか。

例えばもしも杏の為に死ねと言われたら僕は死ぬのだろうか。

そんな場面に立った事が無いのでいまいちピンと来ないが、もしも杏が今死んだら、僕は生きていられるだろうか。

おそらく生きていられない。

それほどまでに杏のいない世界なんて、もはや僕には想像できないのだ。

そう考えると、僕は杏の為に死ねるのかもしれない。


「おまたせ、圭ちゃん」

杏は一時きっかりに僕を迎えにきた。

赤いコートをひらひらさせて足には茶色のブーツを履いていた。

「じゃあ、行こうか」

僕はそう言って歩き出した。

僕達がいつも行くのは家から電車で二駅程の大きなデパートで、お互い何も言わなくても目的地がそこだって事はよくわかっている。

もう何十回、何百回杏と一緒に歩いたかわからない道を僕達は並んでゆっくり歩き出した。

狭く何の飾り気も無い小道の端には小さなサザンカが冷たい北風にゆられている。

杏は寒さで少し頬を赤くしてつぶやいた。

「吉川先輩、何あげればよろこぶかなあ」


杏は更に頬を赤くしていた。

それが今吹いた冷たい北風のせいなのか、それとも『吉川先輩』の事を考えたからなのか、僕にはわからなかった。

「でも、佳奈子先輩も吉川先輩に絶対プレゼントするよね。クリスマスだし、絶対高価なものだよね」

杏は小さな唇をほんの少し尖らし、寒そうに両手をこすり合わせた。

「そうだろうな」

「圭ちゃんのいじわる」

杏は僕の顔を見ない。

うつむいたまま両手をこすり合わせているだけだ。

「手袋でもあげれば?」

僕の提案に杏は寒さで真っ赤になった自分の手を見つめつぶやいた。

「そうだね」


吉川先輩というのは、僕達のサークルの先輩だ。

佳奈子先輩というのも僕達のサークルの先輩だ。

そして、吉川先輩は佳奈子先輩と付き合っている。


そして、杏は、吉川先輩の事が好きだ。


「なあ、杏」

「なあに?」

杏は駅の自動改札に定期を通しながら僕の方を振り返った。

「お前、どうしたいんだ?」

杏は僕の質問の意味が即座に理解できなかった様で少し考えるような表情をした。

「……わからないよ」

喉の奥から搾り出すように出た杏の言葉。

「わからないけど、わからないけど……どうしようもないんだもん」

それだけで十分だった。


世の中はうまくいかない。

うまくいかないから時々本当に嫌になる。

嫌になって、嫌になって、逃げ出したくなる。

吉川先輩と佳奈子先輩も俺達と同じ幼馴染同士らしい。

幼馴染で小さいときからずっと一緒にいて、気がつくと付き合っていた。そんな二人だ。

僕から言わせると二人はとても、とても運がいい。

幼い頃からずっと一緒で、気がつくとお互い好きになっていて……

もしかしたらその現象は確率的にいうと高い事なのかもしれない。

幼い頃からずっと一緒にいる二人が両思いになる確立は、統計的に言うと高いだろう。

それでも僕には遠い遠い夢物語にしか思えなかった。

満月を偶然見つけて、杏の言葉を思い出すような……

そんな低確率な現象にしか思えなかった。


結局杏は吉川先輩の為に温かそうな手袋を買った。

お店の人に丁寧に包んでもらい、それを受け取る杏の顔は本当に幸せそうで、幸せそうで……

僕の心臓はまた締め付けられた。


その日は二人でパスタを食べて、デパートをぶらぶらしてまた同じ道を通って家に帰った。

帰り道に再び見たサザンカの花は風に吹かれても折れることなくゆらゆら揺れていた。


「ねえ、圭介、何してんの?」

学食でうどんを食べてると突然声をかけられて驚いてふりかえった。

そこには相変わらず薄着の紀子が立っていた。

「え?何って……別に……うどん食べてるんだけど」

紀子は僕の隣りに座り、小さなバッグからタバコを取り出し火をつけた。

「昨日、杏とデパートにいたでしょ?」

紀子の突然の言葉に僕はぎょっとした。

「そうだけど。何で知ってるんだ?」

紀子は少し困った顔をして答えた。

「私も昨日買い物してたの。悪い?」

「いや、別に悪くはないけど」

二人の間に沈黙が訪れた。

紀子はタバコの煙をゆっくり吐く。

「ねえ、圭介も一本どう?」

紀子の申し出に僕は首を振った。

「いや、いい」

紀子は唇を尖らせて僕の顔をじっとみつめて一言つぶやいた。

「杏がタバコ嫌いだからでしょ?」

僕は何も答えずうどんをすする。

「杏の事、まだ、好きなの?杏が吉川先輩の事好きでもそれでもまだ好きなの?」

紀子は僕を責めるような口調で、まるで僕が何か悪い事をしたような言い方をした。

「吉川先輩のこととか関係ないよ、だって、どうしようもないだろ?」

僕の言葉を聞いて紀子は目を少し赤くした。

紀子のタバコを持つ細く長い指が震えて、白い灰がテーブルの上に落ちて行った。

「うまくいかないなあ」

紀子は長い髪をかきあげる。

「私が圭介のこと好きなの、気がついてた?」

僕は紀子の顔を見ることができなかった。

「ずっと圭介のこと、好きなの、今でも好きなの。圭介が杏の事を好きでも、私は圭介が好きなの。どうしようもないの。世の中うまくいかないよねえ」

紀子の声がだんだんと涙声になって、僕のうどんはいつのまにかのびて、でも窓の外の空は悲しいほど青くて、そして僕の頭の中では色んなものがぐるぐるまわっていた。


世の中はうまくいかない。

本当に、本当に嫌になる。

泣きたいほど、叫びたいほど嫌になる。

食物連鎖の様に人間の気持ちは図式化されない。

ぐるぐると循環せずにまるで一方通行で、誰かが諦めて、何かを断念しないと何もかもうまくいかない。


「圭ちゃん、ほら、あたし見つけたんだ」

その日の夜、僕が自宅の部屋で寝てると、息を切らして杏が入ってきた。

「あ、杏、ノックぐらいしろよ」

僕は少し怒って杏に注意した。

「ごめん、ごめん、おばちゃんに煮物のおすそ分けもってきたの、このまま帰るのもなんだからさ」

杏は悪びれもせず無邪気に笑っている。

僕はガンガンする頭を抑えながら起き上がった。

「何をみつけたんだよ?」

杏は嬉しそうにポケットの中から丸いものを取り出して僕に差し出した。

「ほら、これ、スーパーで見つけたの。満月スフレだって。満月の形したお菓子なの。おいしそうでしょ?あたしと同じこと考えてる人、やっぱいたんだぁ」

杏の大きな瞳はキラキラ輝いていた。

僕は卵色の丸いお菓子を手に持って、杏の大きな瞳をただただ見つめていた。


僕は情緒の欠片もない人間らしい。

でもこの心臓の痛みは、言い様のない苦しみは何なんだ。

心臓を突き刺すようなこの痛みは何なんだ。

満月なんて出なければいい。

そしたら杏の言葉を、杏の事を思い出すこともきっときっと少なくなるから。

情緒なんて、感情なんて無くしてしまったらどんなに楽だろうか。


でも、それは到底無理な話で、絶対に不可能な事で


ただ言えるのは一つだけ。


僕はどんなことがあっても杏の事が好きなのだ。


杏が吉川先輩を好きでも、


僕は杏の事が好きなのだ。


それだけはどうしようもない。


断念なんて到底できそうにない。


目の前の甘い月は僕を、いや、僕達を見て笑っているようだった。




はじめまして。

愛里と申します。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

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